第24話 怪異の食卓②
胃壁が悲鳴を上げ、視界の端に三途の川のせせらぎが見え隠れした。
律は震える手でスプーンを置き、音を立てないように深く、重い息を吐き出した。口内に残るプロテインの粉っぽさと、後味として追いかけてくるイチゴジャムの暴力的な甘み。そして、何よりミミズの「大地の風味」が、彼の繊細な味覚を蹂躙し続けている。
「……累。君の熱意は、僕の全細胞にしっかりと刻まれたよ。ただね、一つだけ誤算があったんだ」
「あ? 滋養が強すぎたか?」
「いや、僕の胃というハードウェアが、君の『真心』という名前のあまりに高負荷なデータに、まだ対応しきれていないようなんだ。だからこのまま食べ続けると、僕は解呪を待たずに、物理的な意味で崩壊してしまうよ」
律はふらつきながら立ち上がると、累から煤けたお玉を「没収」するように、優しく、けれど断固とした手つきで受け取った。眼鏡はまだテーブルの上に置かれたままだ。レンズという境界線を通さない彼の瞳は、いつになく柔らかく、そして温かな潤いを湛えている。
「おい、律! まだ残ってるぜ!」
「……ここからは、僕の仕事だよ。累、君はそこに座って、僕がまともな――いや、美味しい調理を作るから楽しみに待っていて」
律はキッチンの惨状――累が広げた戦場を、慈しむような目で見渡した。
幸いなことに、累が「精がつく」と信じて放り込んだ食材以外に、まだ無事なストックは残っている。律は手際よく冷蔵庫から卵と、昨日の残りの鶏胸肉、そして新鮮な三つ葉を取り出した。
眼鏡を外した素顔の律は、毒気のない、どこか浮世離れした美しさを放っている。彼は鼻歌混じりに袖を捲ると、累が「ちぇっ」と不満げに、けれどどこか嬉しそうに尻尾を丸めて椅子に座るのを見届けた。
律は、先ほどまでの「紫色の混沌」を別容器へ(研究用という名目で)避けると、シンクを瞬く間に磨き上げた。彼にとっての料理は、一種の儀式だ。乱れた秩序を、包丁の刻むリズムと絶妙な火加減によって再構築していく、静かなる祈りのような作業。
「見てごらん、累。食材には、それぞれ『相性』という名の論理があるんだよ」
トントントン、と軽やかな音がキッチンに響き渡る。
律の包丁捌きは、怪異の核を切り裂く時と同じく、一分の迷いもない。しかしその手付きには、敵を討つ冷徹さではなく、命を慈しむような優しさが宿っている。鶏肉は均一なそぎ切りにされ、昆布と鰹節で丁寧にとった一番出汁の透き通った黄金色が、鍋の中で静かに、かつ規則正しく揺れる。
「精をつけるなら、刺激物に頼る必要はないんだ。今の僕たち……特に、嘘つきの街で戦い抜いた後の疲弊した肉体が求めているのは、異物との戦いじゃない。無理なく受け入れられる『調和』なんだよ」
律は黄金の出汁が沸騰する直前で弱火にし、余熱を通すように鶏肉を泳がせる。その間、卵を菜箸で解く音さえもが、音楽のように累の耳に届く。
仕上げに溶き卵をふんわりと回し入れ、鮮やかな三つ葉の爽やかな香りがキッチンを満たしていく。先ほどの焦げたゴムのような異臭が、嘘のように上書きされていく。出来上がったのは、湯気をふわりと上げた、宝石のように美しい「親子雑炊」だった。
「……はい、出来上がり。お待たせ、累。君も、慣れない作業で疲れたでしょ?」
律は、累の前に熱々の碗を差し出した。眼鏡をかけていないその瞳が、湯気の向こうで細められ、聖母のような穏やかな慈愛を放っている。
累はおずおずとスプーンを動かし、一口、その黄金のスープを口にした。その瞬間、累の全身から力が抜け、彼のワニ瞳がとろんと蕩けた。
「……なんだこれ。優しい味がして、……なんか、ムカつく(=最高に美味い、癒やされる)」
「だろうね。それが、君が守りたかった僕の『日常』の味だよ。って累? ……そんなに急いで食べなくても、おかわりはあるからね」
律は自分の分を口に運び、ようやく胃に平穏が戻るのを感じた。
窓の外では、夜の帳が静かに下りている。眼鏡を置いたまま、不器用な相棒と食卓を囲むこの穏やかなひととき。これこそが、命を削ってでも律が守りたかった、嘘のない唯一の報酬だった。
「累。……今度は、僕と一緒に作ってみようか。ミミズは抜きでね」
「……うっせぇ。……考えてやるよ」
律の柔らかな笑い声が、温かなスープの香りと共に、夜の事務所に溶けていった。




