第23話 怪異の食卓①
その日の「解呪屋・二律背反」の事務所には、およそこの世のものとは思えない異臭が立ち込めていた。
焦げたゴムの匂いに、腐敗した沼の湿り気を加え、隠し味に劇物をぶちまけたような――鼻腔を暴力的に蹂躙し、脳の生存本能をダイレクトに揺さぶる、まさに「怪異的」な悪臭である。
「……累。一つ、確認してもいいかな。僕は今、幻覚を見ているわけではないよね」
律は恐る恐るキッチンの惨状を眺めた。
かつては潔癖なまでに整理され、機能美を誇っていたステンレスのシンクには、どろりと変色した紫色の沈殿物がこびりつき、安物の換気扇はフィルターの目詰まりに限界を超えた悲鳴を上げている。
「なんだよ、律。そんなに感動して声も出ねえのか?」
累はエプロン代わりの新聞紙を腹に巻き、誇らしげに胸を張りながら、真っ黒に煤けたお玉を突き出した。あの街を出て以来、呪いは解けているはずなのだが、彼は照れ隠しの際、時折わざとあの「反転」した言い回しを冗談めかして使うようになった気がする。それが彼なりの、過酷な死闘を共に乗り越えた相棒への親愛の情なのだろう。
累の前には、魔界の釜のごとく不気味な蒸気を放つ土鍋が鎮座している。
「いや……。さっきの君の台詞が反転していたことを願うばかりだけど。……これは、料理という定義に収まるものなのかな。何というか、古神話の冒頭で混沌が世界を作る前の、スープに見えるよ。あるいは、解呪に失敗した後の残留思念の塊か」
「へっ、これは『ワニ特製・精のつく闇鍋』だぜ。オマエ、嘘つきの街で左目も脳みそもボロボロになっただろ? だからよ、オレがこう……滋養強壮にいいもんをブチ込んでやったんだわ。ワニのスタミナを分けてやるって寸法よ」
累の言葉に、律はふっと目を細めた。
累なりに、自分の衰弱を心配していたのだ。ワニの怪異である彼は、本来「食」にこだわりはない。獲物を丸呑みにし、生で噛み砕くのが彼の日常だ。そんな彼が、不自由な人間の指先を使い、律のために火を扱い、レシピなどという概念を無視してまで何かを作ろうとした。その事実は、律の胸の奥に、焦げた匂いよりもずっと温かくて、それでいて少しだけ痛い感覚を広げていく。
だが、その感傷は、土鍋の蓋を開けた瞬間に、強烈な化学反応的な異臭によって霧散した。
「ねえ……累。どうしてこの鍋の中に、バラバラに解体された『呪物用の乾燥ミミズ』と、僕が昨日奮発して買った最高級のアールグレイの茶葉、それに筋肉増強用のプロテインが混ざっているのかな?」
「あ? 『精がつくもん混ぜたら最強』だろ? ミミズは漢方だしよ、プロテインは力がつく。茶葉は……ほら、オマエがいつもいい匂いさせてるから、入れてやれば喜ぶかと思ってよぉ……。あと、冷蔵庫にあったイチゴジャムも隠し味だぜ!」
累は急にバツが悪そうに視線を逸らし、大きな尻尾をパタパタとフローリングに叩きつけた。ガリガリという爪の音が、彼の焦燥を物語っている。
愛された相棒による『懸命な空回り』。それは、時として毒物よりも破壊力を持つのだ。
「……イチゴジャム。紅茶とプロテインと、乾燥ミミズの鍋に、か」
律はため息を飲み込み、自らの左目の淵に刻まれた、あの事件の代償である消えない痣をそっと指でなぞった。そして、新調した新しい眼鏡をすぐに耳にかけるわけでもなく、触りながらよく観察する。
左目のレンズは特注の遮光仕様になっており、世界は少しだけ青みがかって見える。その青い視界の中で、累の放つ「期待」と、捨てられた子犬のような「不安」の匂いが、目に見える粒子のように揺れていた。
「……ありがとう、累。君のその気持ちだけで、僕の脳は十分なカロリーを摂取できたよ。もはや胃を通す必要さえないほどにね」
「食えよ! 俺がせっかく火傷までして作ったんだから、一口くらい食え!」
累の指先を見ると、慣れない包丁や火を使ったせいか、絆創膏が不器用に巻かれている。それを見た瞬間、律の理性的で潔癖な防衛本能は、あっけなく崩壊した。
律は覚悟を決め、小皿に盛られた「紫色の混沌」――もとい、累の真心が詰まった(詰まりすぎた)液体をスプーンで掬った。
それは、イチゴの甘い香りとミミズの土臭さ、そして紅茶の渋みが喧嘩をしながら、プロテインの粉っぽさで強引にまとめられた、味のデッドヒート。
(……この味を、僕は一生忘れないだろうね。文字通り、三途の川の向こう側まで持っていきそうだ)
律は、死を覚悟した解呪師の目をして、それをゆっくりと口へと運んだ。
「――っ」
舌の上に触れた瞬間、律の意識は一瞬だけ遠のいた。だが、目の前で身を乗り出し、「どうだ?」とばかりに瞳を輝かせているワニ少年の相棒を前に、彼は「まずい」とは口が裂けても言えなかった。
「……ああ。……とても、賑やかな味がするよ」
「だろ! おかわり、いっぱいあるからな!」
律の長い、そして胃腸に優しくない夜が、今始まった。




