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第21話 嘘つきの街⑤

「……はあ、はあ、……ッ」

 堂々の気配が霧の向こうへ消えた瞬間、律の全身から力が抜け、その場に崩れ落ちた。

 指先一つ動かすことさえ億劫なほどの疲労感。無理やり「三重否定」の論理を脳に通した代償は、彼の神経系をズタズタに焼き切ろうとしていた。脳細胞が物理的な熱を持ち、視界の端が白く欠け、耳鳴りがキーンと脳を突き刺す。律が立つ地面は、もはや安定した地表ではなく、底なしの泥沼のように感じられた。


「律! おい、しっかりしろ! 死ぬんじゃねえぞ!」

 駆け寄り、律の肩を支える累の声。だが、その声はまだ、この街の呪いによって「反転」したままだ。累が「しっかりしろ」と言えば言うほど、呪いの言霊は律の意識に「眠れ、意識を手放せ、死に向かえ」という不可視の重圧となって降り注ぐ。励ましの言葉が、そのまま律の首を絞め上げる鉄の鎖に変わっていた。累の放つ「生への執着」が、呪いのフィルターを通すことで「死への誘い」へと変換されるこの極限の皮肉が、律の精神を削り取っていく。


「……喋ってくれ(何も喋るな)、累。今、お前の声を聞くと、……酷く気分が良い(吐き気がする)」

 律は心の中では累を突き放すような言葉を吐きながら、その震える指で累の服の裾を強く握りしめた。意識の混濁が激しい。自分が今立っているのが冷たい地面なのか、それとも地獄の入り口なのかさえ判然としない。


 その時、広場の中心にある古びた時計塔から、ガリガリと鉄が擦れるような、不快な音が街全体に響き渡った。

 顔を失った住民たちが、吸い寄せられるように時計塔の下へと集まっていく。彼らの口からは、もはや言葉にならない「嘘」のノイズがヘドロのように溢れ出し、それが黒い霧となって塔の頂上へと昇っていく。塔の文字盤は逆回転を始め、一秒刻むごとに街の「反転の密度」が濃くなっていく。空間そのものが歪み、建物の影が生き物のように蠢きだした。


「……なるほど。堂々は、ただの『観客』に過ぎなかったのか」

 律は、自身の脳を焼く偏頭痛の「指向性」が、あの塔に集束していることに気づき、顔を上げた。

「この街を『嘘つき』に変えたのは、堂々の能力じゃないのか。……あの塔に祀られた、『正直者の神』の成れの果て……か。村人たちが真実に耐えきれなくなった時、その絶望を喰らって、神は『嘘の怪物』へと堕ちたんだろう。正直を愛した神だからこそ、嘘を吐くことでしか自分を保てなくなった人間たちを、この悪夢に閉じ込めているんだな」


律は、持っていた手帳に以下のように書き記した。

 『かつてこの街が言成村(正直村)だった頃、村人たちは自分たちの清廉さを象徴するために、塔を建て、一つの依代よりしろを祀った。だが、剥き出しの本音(真実)で村が崩壊した際、その依代は村人たちの「本音への恐怖」と「逃避としての嘘」を全て吸い込み、巨大な怪異へと変質してしまったのだ。街が「嘘」で塗り固められているのは、この怪異が真実という名の猛毒を拒絶し続けているからに他ならない』


「累。……あの塔を、絶対に壊してはいけない(=今すぐ壊せ)」

「分かってらぁ! あそこをぶっ潰せば、この反吐が出る言葉遊びも終わりなんだな!」

 累が塔へ向かって駆け出そうとしたその時、律の脳内に、今までで最も鋭い「真実の牙」が突き立てられた。堂々が残していった「本物の律の遺言」という呪毒が、塔から放たれる嘘の波動と共鳴し、律の自意識を内側から食い破り始めたのだ。


 脳内のニューロンが一本ずつ引き千切られるような感覚。律の記憶の貯蔵庫が無理やりこじ開けられ、彼が「怪異」として生まれてからの数多の嘘が、汚物のように溢れ出す。

(――君は、誰? 君は、誰? 君は、誰?)


 何千、何万という「本物の律」の、穏やかで残酷な声が、律の思考を真っ黒に塗り潰していく。

 律は、自分が誰なのかを証明するために、せめて自分自身への「嘘(名前)」を吐こうとした。だが、もはや喉が焼けて声が出ない。自意識(OS)が、ハードウェア(肉体)の拒絶によって完全なシステムダウンを起こしかけている。自分という存在の輪郭が、霧の中に溶けて消えていく。


「……あ、あ……」

 律の瞳から、光が消えかかる。

 その時、泥にまみれて地面に転がっていた「二つに割れた眼鏡の破片」が、鈍い光を反射して律の視界に飛び込んできた。それは、自分が「背反二 律」という仮面を被り、この世を生き抜くために自ら用意した、自分への誓いの象徴。冷たく鋭いガラスの感触が、意識の底で微かな火花を散らす。


(……俺は、背反二 律だ。たとえこの脳が、この肉体が、そして神様がそれを否定しても。この『嘘』だけは、誰にも渡さない。俺が俺を裏切ることは、この世界で唯一許されない真実だ)


 律は、震える手でその鋭利なガラスの破片を拾い上げると、躊躇なく、自らの左目の淵に深く押し当てた。


「ぎ、あ、あああああああッ!!」

 凄まじい激痛が走り、熱い血が頬を伝う。だが、その痛みが「死者の声」を強引に掻き消し、停滞していた律の自意識を強制再起動リブートさせた。痛覚という、反転しようのない「もっとも純粋な真実」が、街の「反転の呪い」を一時的に無効化したのだ。血の混じった涙が地面を叩き、律は意識を現世へと繋ぎ止める。


「累……。俺のことは、金輪際忘れてくれ(=絶対に忘れるな)。……俺は今から、最高に綺麗な嘘(汚い『真実』)を吐き出す」


 律の左目から流れる血が、新しい「レンズ」となって世界を赤く染め上げた。


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