第2話 嘘つきの喉に咲く茨①
「累、君はワニだけど、今は僕の定義によって『育ち盛りの人間』なんだ。ピーマンを残すなんて論理破綻しちゃうよ」
朝食のテーブル。エプロン姿の背反二 律は、お玉を指揮棒のように振りながら、目の前の少年・黒田 累に向かって穏やかに、しかし逃げ場のない口調で告げた。
キッチンからは、焼きたてのハンバーグの肉汁が弾ける香ばしい匂いと、春の柔らかな日差しが差し込んでいる。どこからどう見ても、仲睦まじい兄弟か、年の離れた親友同士の平和な朝の風景だ。
「っせーな! オレの胃袋は肉を求めてんだよ。こんな苦いだけの草、クロコダイルの誇りにかけて断固拒否するぜい!」
累は、フォークで皿の上の緑色を突き刺し、律を睨みつける。
見た目は十四歳か、そこらの少年だ。跳ねた黒髪に、少し吊り上がった勝ち気な瞳。だが、その瞳は怒りに反応して一瞬だけ爬虫類特有の、縦に割れた金色の光を帯びる。その背後に、巨大な顎を持つ怪異の影が揺らめいた。
だが、律は動じない。彼はふっと目を細めると、素顔のまま、累の額を人差し指で軽く弾いた。
「誇り、か。君がその『誇り』に従って餓死するのは自由だけど、僕が管理する個体が不健康になるのは許容できないな。……ほら、一口でいい。全部食べたら新しいゲームを買ってあげるよ」
「チッ……ガキ扱いしやがって。……半分、いや、三割なら食ってやる」
「だめ、一割も残さないこと。いいね?」
律の微笑みは、近隣の主婦が「理想の息子」と評する通りの柔らかさだった。しかし、その視線が店の入り口に向けられた瞬間、空気が凍りつく。
看板には、律の苗字をもじった『二律背反』の四文字が躍っている。本来、昼間は予約制のカウンセリングルームとして機能しているはずのその場所へ、不吉な足音が近づいていた。
カラン、カラン。
古びた真鍮のベルが、不協和音を奏でる。
重い扉が押し開けられるとともに、春の陽光を遮るような、湿ったどぶ川の匂いがリビングまで流れ込んできた。
「仕事だぜ、律。……いや、今は『先生』かな?」
累が口角を上げ、不敵に笑う。それと同時に、律の表情から「体温」が急速に抜けていった。
律は無造作にエプロンを脱ぎ捨てると、椅子に掛けていた黒いジャケットに袖を通す。背筋を正し、喉元で銀のネクタイピンをカチリと鳴らす。
そして彼は、チェストの引き出しから、一振りの凶器を取り出すかのように「それ」を取り出した。
銀縁の、シャープな眼鏡。
それを耳にかけ、ブリッジを中指で静かに押し上げた。レンズが光を弾いた瞬間、律の瞳から色が消え、世界をただの数式として処理する「解呪師」の脳が起動する。
「……入りなさい。そこは、嘘つきが立ち止まる場所じゃない」
レンズの向こう側の瞳から、先ほどまでの「世話焼きなお兄さん」の面影が完全に消失した。
扉の隙間から滑り込んできたのは、一人の男だった。
二十代半ば。仕立ての良いスーツを身に纏い、一見すれば清潔感のある会社員だ。しかし、その顔面は死人のように土気色に染まり、脂汗が滝のように流れている。
「た、すけて……ください……」
男が掠れた声で漏らす。その瞬間、男は喉をかきむしり、畳の上に崩れ落ちた。
「あ、が……っ、げほっ!」
男の口から、どす黒い「何か」が溢れ出した。それは植物の茎のように見えたが、あまりに鋭利で、あまりに禍々しい。
黒い茨だ。
それは男の喉元から蠢きながら生え、首を真綿で締めるように幾重にも巻き付いている。茨の棘は男の柔らかい皮膚を無慈悲に裂き、発声器官を内側から物理的に侵食していた。言葉を発しようとするたびに、男は自らの呪いに喉を切り刻まれるのだ。
「うわ、エグいな。こいつはかなりの重症だぜい。言葉が、実体を持って肉体を檻にしてやがる」
累がテーブルから飛び降り、獲物を見るような目で男を観察する。
「自分を守るために作った盾が、自分を貫く剣になっちまった。典型的な自滅だな」
その足取りは軽く、少年らしい無邪気さと、捕食者としての残酷さが同居していた。
「ようこそ、解呪屋『二律背反』へ」
律は応接用の椅子に深く腰掛け、組んだ足の上に指を揃えて置いた。
眼鏡のレンズは室内のわずかな光を反射し、彼の眼差しを読み取らせない。顕微鏡でスライドガラスを覗き込む学者のように、あるいは壊れた玩具を眺める子供のように、律は男の苦悶を「観察」する。
「救いますと言いたいところだが。……さて。あんたがその『呪い』を立派に育てるために、一体どんな質の良い嘘を重ねてきたのか。まずはそこから聞かせてもらおうか。君の『清廉潔白でありたい』という傲慢な意志が、どうやってこの茨を育てたのかをね」
律の声は、もはや楽器の調律を整えるような硬質さを帯びていた。
「話せないなら、書きなさい。文字もまた、君を縛る論理の一部だ。書き記すことで、君の罪を定義する材料にさせてもらう」
律は机の上に、一枚の白い紙と万年筆を無造作に放り出した。
茨に締め上げられ、嗚咽とともにペンを握る男。
冷徹に支配を完了させ、眼鏡の奥で知性を閃かせる律。
そして、その傍らで「面白くなってきた」と言わんばかりに金色の目を細める少年。
朝のハンバーグの匂いは、すでに立ち込める死と呪いの香りに塗りつぶされていた。




