第17話 嘘つきの街①
「……律、また焦がしてんぜい」
累の呆れた声に、律はハッとしてフライパンを火から下ろした。
キッチンに漂うのは、香ばしさを通り越して鼻を突く炭の匂い。かつては秒単位の計算で完璧な料理を仕上げていた律が、あろうことかハンバーグを片面だけ無残に黒焦げにしていた。
「……ごめん。失敗しちゃった。また無意識に、考えごとしていたみたい」
律は穏やかに微笑んだが、その左手はこめかみを強く押さえていた。
拘束具であった眼鏡を失った今、彼の脳内には常に、体の持ち主の青年の穏やかで無垢な意識が濁流のように押し寄せている。ズキン、と脳の芯を焼くような偏頭痛が走るたび、彼が「怪異としての自分」であることを忘れさせ、ただの「空っぽの器」へと引き戻そうとするのだ。
「無理すんなよ。オマエが消えそうになったら、オレが鼻先でつつき回してやるからよ」
累が皿を並べながら、ぶっきらぼうに言った。律は「ありがとう。助かるよ」と短く返し、焦げたハンバーグを皿に盛る。その手つきは、どこか以前よりも危うく、それでいて病的なまでに柔らかかった。
そんな二人の静かな日常を破ったのは、事務所のポストに投げ込まれた、一台の安価なボイスレコーダーだった。
SDカードもなく、端子も潰された使い捨ての代物。再生ボタンを押すと、激しいノイズの向こうから、震える女の声が響いた。
『――助けて。この地図から消えた「言成村」の人たちはみんな、今は「嘘」しか言えなくなってしまったの。……まだ言成村だった頃、自分や他人を守るための嘘(建前)を奪われたせいで、村は憎しみと悪意が溢れる「嘘つきの街」へと変わり果ててしまった。お願い、誰かこのうそつきの地獄を止めて』
録音はそこで途切れていた。かつて正直を強要された反動で、全ての言葉が嘘に反転した街。
「善意の建前を奪われた結果、言葉そのものが死んでしまったのか。……皮肉なパラドックスだね」
律はポケットの中で、二つに割れた眼鏡の破片をそっとなぞった。鋭いエッジが指先に食い込む痛みが、辛うじて彼を「解呪師」という自律した意識に繋ぎ止めている。
「累、準備を。あの街には、偽りという名の救いが必要なようだ。……それに、今の俺には、自分という嘘を再定義するための、新しい依代も必要でもある」
翌朝。二人が辿り着いたその場所は、深い霧に包まれた異様な光景だった。
かつての「言成村」の面影を残す古い木造家屋に、継ぎ接ぎだらけの派手な看板が乱立し、歪な「街」を形成している。村の入り口には、黒ずんだ看板が一つ立っていた。
【当街において、真実は死に至る病である】
「……おい、律。ここ、匂いがヤバすぎるぜい」
累が鼻を抑えて後ずさる。ワニの鋭い嗅覚が、街の空気に混じる「作り物の匂い」を察知していた。
「どいつもこいつも、鼻が曲がるような香料の匂いをさせてやがる。全部が偽物で塗り固められてて、街全体が泥でできたお菓子の家みたいだ!」
街に入って最初に出会った男は、律に対し、満面の笑みを浮かべてこう言った。
「こんにちは! 私は世界で一番幸せな人間です。あなたのことが大好きで、今すぐ全財産をあなたに差し上げたい!」
だが、男の手は小刻みに震え、律の鞄を盗もうと指が動いている。言葉が、行動や本心と完全に剥離しているのだ。
「……なるほど。これが『嘘つきの街』。全ての言葉が、発せられた瞬間に意味を失う」
律は激しい偏頭痛にふらりとよろけ、電柱に手をついた。自分を「律」だと偽り続けなければならない彼にとって、全ての嘘が暴かれるこの空間は、存在の足元が崩れるような苦痛だった。
一歩踏み出すごとに、通りがかる住民たちの「嘘」が律たちに降り注ぐ。
「あなたの美しさに感動して、涙が止まりません(殺したいほど憎い)」
「この街は最高に平和で、誰も死んだりしません(昨日も誰かが消えた)」
そんな砂糖をまぶしたような毒が、日常に溶け込んでいる。
その時、律の背後に一人の少女が立ち、無表情にこう告げた。
「解呪師さん。あなたの身体、さっきから向日葵のような、とても温かくて優しい匂いがしていますよ」
律は硬直した。この街では、全ての言葉が裏返る。
少女が「優しい匂い」と言ったのなら、その「真実」は――。
「……つまり、あなたの身体、さっきから『誰かの死体の匂い』がしていますよ。あなたは、誰ですか?」
少女の虚ろな瞳が律を射抜く。
自分を「背反二 律」だと偽り、嘘の人生を航海し続ける密航者にとって、この街は、逃げ場のない「真実」という名の処刑場だった。




