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第16話 テセウスの心臓⑥

 時計店の奥座敷。そこには、分解された何千もの時計の残骸で組み上げられた「座」があり、堂々(どうどう)が優雅に腰掛けていた。

 歪んだ眼鏡をかけ、ひび割れたレンズ越しに苛烈な知性をぎらつかせる律と、透き通るような身体でなおも牙を剥く累。二人を迎えた堂々は、退屈そうに欠伸を噛み殺した。


「お帰り、偽物さん。意外としぶといね。だが、自分を律だと再定義したところで、現実は変わらない。君の足元を見てごらん」


 堂々が指さした律の足元からは、黒い泥のようなノイズが溢れ出していた。

「君が『律』という意志を保とうとすればするほど、この肉体にかかる負荷は増大する。脳死した肉体に、無理やり巨大なOSを走らせているようなものだ。……このまま戦えば、君の意識が焼き切れるのが先か、肉体が腐り落ちるのが先か。いずれにせよ、チェックメイトだ」


「……再定義はとうに済んでいる、堂々。そんな脅しは、論理学に無意味だ」

 律は一歩、堂々に向かって踏み出す。一歩ごとに床がひび割れ、時計の針が狂ったように回転する。

「お前の仕掛けた『テセウスの呪い』の核は、この時計店の中心にある『オリジナル(最初の部品)』だ。街中の人々のパーツが入れ替わっているのは、すべてその核が放つ記述エラーに過ぎない」


 律は、堂々の背後にある巨大な振り子時計を指差した。

「あの時計の心臓部――そこにあるのは、一年前の事故で失われたはずの『本物の律』の、本当の心臓……違うか?」


 堂々の笑みが消えた。累が鼻を鳴らし、その場所から漂う、律の肉体と同じ「根源的な匂い」を嗅ぎ取る。


「お前は、俺が乗っ取ったこの船(肉体)の部品を、一つずつ物理的に回収しようとしている。オリジナルのパーツをすべて揃え、俺が居座る場所を物理的に消滅させることで、俺を世界からパージする……。それが堂々、お前の狙いだ」


「……気づくのが遅すぎたね、律」

 堂々が立ち上がり、傘の先端を律に向けた。

「その心臓が時を刻み直せば、律、君という意識のバグは行き場を失って霧散する。……さあ、そんな記念すべき素晴らしい瞬間を、特等席そこで指を咥えて観戦していてもらおうか」


 激突は一瞬だった。

 堂々が操る「過去の記憶」の奔流が、物理的な圧力となって律を襲う。律はそれを、壊れた眼鏡から放たれる「再定義の術式」で真っ向から叩き伏せた。


「累! 執行しろ!」

「がうッ!! やってやるぜい!!」


 累が透明な身体を震わせ、ワニの顎を剥き出しにして、オリジナルである「心臓」が収められた大時計へと飛びかかる。

 だが、その心臓が放つ強烈な「本物」の波動が、累の存在をさらに希薄にさせていく。


「無駄だ! 偽物が本物に勝てる道理はない!」

 堂々の叫びに、律は冷酷に笑った。


「道理なら、今から俺が作る。……堂々。お前はパラドックスの使い方を間違えている。テセウスの船が元の船かどうかなんて、どうでもいい。……重要なのは、その船が今、『《《何を運んでいるか》》』だ!!」


 律は、自らの左胸を強く叩いた。

「俺は、俺自身の意志で、この肉体の拒絶反応を『許可』する! 本物の心臓などいらない! 俺が刻むこのリズムこそが、唯一の正解だ!!」


 律が放ったのは、自分自身の存在定義を「破壊」することで生まれる、膨大なエネルギーを用いた逆呪だった。

 彼が自らの「怪異としての核」を一部損壊させ、それを燃料として街全体の記述を強引に上書きしたのだ。


「――再構築完了。……街のパーツを、現在の……位置で固定せよ!」


 爆発的な光が時計店を包み込む。

 堂々の叫びも、大時計の心臓の鼓動も、すべては律の放った「最強の暴論」に呑み込まれていった。

「元に戻す」のではなく、「今の歪な状態を、正しい姿として強引に認めさせる」。

 それは、解呪師としての禁忌に近い、あまりにも傲慢で、しかし彼らしい解決策だった。


 光が収まったとき、堂々の姿はどこにもなかった。

 時計店の異常は消え、街には日常の音が戻っていた。人々のパーツの入れ替わりも止まった。……ただし、完全に戻ったわけではない。入れ替わったまま「それが自分の体だ」と、人々の認識が固定されただけなのだ。


 静寂の中で、律は膝を突き、壊れた眼鏡を外した。

 その瞳には、怪異としての苛烈な光が残りながらも、どこか深く、疲れ切った色が混じっている。


「……律、おい、生きてるか?」

 累が、元の実体を取り戻した身体で駆け寄る。


「……うん。……だけど、やはり無理が祟ったみたいだね。眼鏡は……もう、直りそうにないよ」


 律が手にする銀縁の眼鏡は、中心から真っ二つに割れていた。

 彼自身の存在を定義していた「拘束具」は、もう機能していない。これからは、毎分、毎秒、自分自身の意志だけで「自分は律である」と叫び続けなければ、彼は消えてしまうだろう。


「……へっ。だったら、オレが毎日オマエを『律』って呼んでやるよ。それで十分だろ?」


「……へぇ。非論理的か……悪くない解だね」


 律は立ち上がり、壊れた眼鏡をポケットに突っ込んだ。

 消えてしまった「本物の律」の心臓は、どこへ行ったのか。堂々が何者だったのか。謎は深まるばかりだが、今はただ、目の前の相棒が腹を空かせている。


「……帰ろうか、累。今日は特別に、ピーマン抜きのハンバーグにしてあげるよ」


「やったぜい!! ……あ、でも、オマエが『偽物』だってバレないように、もっと不味く作れよ?」


「……余計なお世話だよ」


 夕闇の街に、二人の足音が響く。

 歪な身体、借り物の名前、そして密航者の魂。

 テセウスの船は、新しい航路を目指して、今、静かに進み始めた。




【テセウスの心臓:解説】

1. 怪異の正体:体の部品が他人のものと入れ替わり続ける。

体のあらゆる部位が怪異の力で他人なものと入れ替わり続けた結果、被害者は「どこまでが自分で、どこからが他人なのか」が分からなくなり、アイデンティティが崩壊する恐怖に憑りつかれていました。

2. テセウスの船(同一性のパラドックス)への分類

ある船の部品をすべて新しいものに取り替えたとき、それは「同じ船」と言えるのか? という問いです。


【テセウスの心臓への適用】

前提: 人間の細胞は日々入れ替わりますが、脳細胞ニューロンの多くは入れ替わりません。だからこそ「自分」という一貫性が保たれます。


矛盾(律の正体): 律は「脳死した肉体」という動かなくなった船に、外部から「論理」という新しいエンジン(怪異)を載せ替えた存在です。


結論: 部品をすべて替えた船(時計店の店主)と、船体はそのままで中身(魂)だけが入れ替わった船(律)。「どちらがより、元の船ではないと言えるのか」という、さらに残酷な問いを読者に突きつけています。



律:【論理の糸】

能力:正体不明な言葉のルールに「言葉のルール」で上書きする力

呪いの正体を「言葉」で決めつけることで、その力を無効化(解呪)します。


強制力:A(眼鏡を外し、本気で言葉のルールを叩きつける状態)


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