第15話 テセウスの心臓⑤
「……律、おい、起きろ。……いつまで、寝てやがるんだ……。このまま、オレを置いていくなんて……許さねえぜい」
現実世界の累の声が、掠れ、震えている。
時計店の外。混沌の街中で律の肉体を支える累の身体は、今や半分が透き通ったガラスのように変質していた。テセウスの呪いは容赦なく、律という「特異点」をこの世界に繋ぎ止めている累自身の存在までも、世界の整合性を乱すバグとして解体し始めているのだ。
金色の瞳が濁り、指先が知らない誰かの骨格に置き換わりかける。記憶の端が、会ったこともない他人の悲鳴や、見たこともない街の風景に侵食される。それでも、累は律の胸ぐらを、指が折れんばかりの力で離さなかった。
一方、律の精神の深淵――。
灰のように崩れかけていた律の意識の前に、影のワニとなった累が立ちはだかっていた。累の影は、律を囲む「自己否定の数式」を食い破るたびに、その身を裂かれ、鮮血のようなデジタル・ノイズを撒き散らしている。
「……もう、いい、累。離せ。これ以上は、お前まで消えてしまう」
律は、崩れゆく輪郭のまま静かに首を振った。
「俺は、ただの密航者だ。俺が消えれば、世界の整合性は保たれ、お前も元の姿に戻れる。……そして、俺自身も安らかな無へと戻れるのかもしれない。俺が居座ることで、元の律はきっと成仏することさえ……」
「――っ、ざけんな! 安らかな無だぁ? そんなもん、死んでからいくらでも味わえんだろ!」
影のワニが咆哮した。その声は、もはや論理の体裁を成していない。剥き出しの魂の叫びそのものだった。
「いいか、律! オマエが『偽物』だって言うなら、俺が、この一月余りの記憶を全部、本物の歴史として上書きしてやる! オマエが作った飯の温度も、オマエがついた冷たい溜息も、オマエが俺を縛り上げたあの忌々しい理屈も! 全部ひっくるめて、俺にとっては『背反二 律』っていう唯一無二の本物なんだよ!!」
累の影が、律の崩れかけた胸元に、痛いほどの熱を持って頭を押し付ける。
「外野がどう言おうと関係ねえ! 船長がヤドカリだろうが亡霊だろうが、この船がどこへ向かって進むか決めるのは、今、必死に舵を握ってるヤツだ! ……おい、ヤドカリ! お前の航路は、そんなに簡単に誰かに譲れるほど、薄っぺらなもんだったのかよ!」
「…………舵、か」
律の思考が、一瞬だけ停止した。
自分を自死へと追い込んでいた冷徹な論理が、累の理不尽なまでの熱に晒されて融解していく。
自分が「不法占拠者」であるという事実は変わらない。過去という部品が、自分ではない誰かの死から奪ったものであることも変えられない。
だが、その歪な部品を組み替え、累という暴れ馬を飼い慣らし、今日という食卓を、今日という航跡を選び取ってきたのは、紛れもなく「今の自分」であるという事実。
(……そうだ。定義とは、過去の堆積によってなされるものではない。……未来という航路を描く『意志』によって、後から付随するものだ!)
律の瞳に、かつてないほど熾烈な、青い火が灯った。
灰となって消えかけていた彼の身体が、一気に「再定義」という暴力的な光を放ち、再構成されていく。
「……再定義が終わった。累、もう十分だ。お前の匂いが、ノイズで濁り始めている」
「……りつ……?」
「不法占拠、密航、亡霊……。ああ、堂々の言う通り、俺は最低のバグ(幽霊船)だろうな。……だが、おあいにくさま。俺は強欲なんでね。奪ったこの肉体も、この名前も、そして累という唯一の相棒も、何一つとして返却するつもりはない。……俺は、俺を『律』であると宣言し続けることを選ぶ」
律の意識が、精神世界の暗黒を力強く踏みしめる。
彼を取り囲んでいた「断罪の真実」が、逆に律の支配下に置かれ、彼を現実世界へと押し戻すための新しい論理へと変化していく。
「俺は、俺を再定義する。……過去という『部品』の寄せ集めではなく、累を支配し、この世界を解呪し続けるという『意志』そのものを、俺のオリジナルとする!」
精神世界がガラスのように砕け散り、現実の時計店に、凄まじい論理の圧力が吹き荒れた。
膝を突き、消えかけていた累の身体を、律の手が力強く、確かに掴み上げる。
「……相棒。……くそ不味いピーマン入りのハンバーグを、もう一度食べる勇気はあるか?」
「…………あったりめえだ。……一生、オマエの不味いメシで俺を縛れって、オレが最初に決めたんだからな……!」
律は、床に落ちていた砕けた眼鏡を拾い上げた。
レンズはひび割れ、フレームも歪んでいる。だが、彼はそれを迷うことなく、自らの瞳に装着した。
バグを、バグのまま、強引に「現実」として押し通すための拘束具として。
「背反二 律として、世界のバグ(堂々)に宣戦布告する。……累、執行の準備をしろ。俺たちの航路を邪魔する不純物を、排除するぞ」
律の眼鏡が、壊れたレンズ越しに、かつてないほど苛烈な知性を閃かせた。
密航者は今、借り物の船の主として、運命に逆らう準備を整えた。




