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第14話 テセウスの心臓④

 時計店の外は、もはや「世界」としての体を成していなかった。

 道行く人々の顔が、まるで子供がパズルのピースを掛け違えたように、不気味な造形で他人のパーツと入れ替わっている。隣を歩いていたはずの友人の腕が、見知らぬ老人の枯れ枝のような腕になり、母親の記憶を失った子供が「この知らない石の塊はどこから来たの?」と親を見て首を傾げている。

 物理法則さえもが「テセウスの呪い」に侵食され、街の記述が、存在の連続性が、音を立てて断たれていく。そこにはもはや、意味も秩序も介在しない、巨大な「空虚」が広がっていた。


「……あ、あはは。おかしいね、累。あっちの時計、針が逆さまに歩いてるよ。ねえ、僕たちもあんな風に、昨日へ戻れたらいいのにね」


 背後で、律の「肉体」が力なく、しかしひどく純粋に笑う。

 それは、眼鏡という定義の枷を失い、生前脳死状態だった青年の生体反応だけが表面化した、意志のない微笑だ。累にとって、その鈴を転がすような優しい声は、どんな怪異の呪詛よりも耳障りで、引き裂かれるように胸を締め付けるものだった。


「……黙ってろ。オマエは、律じゃねえ。その声で、律を語るんじゃねえ」


 累は低く唸り、堂々(どうどう)が去った夜の闇を睨みつけた。

 今、累の鼻が捉えているのは、街全体から漂う「腐敗した論理」の悪臭だ。本来あるべき場所にあるべきものが存在しない、世界が根底から崩壊していく匂い。

 だが、その濁流のような悪臭の奥底に、わずかに、本当にわずかに、自分という「バグ」を恥じて、自ら静かに消えようとしている、あの理屈っぽくて冷たい相棒の残照が混じっている。


「……待ってろ。勝手に消えさせてたまるかよ。オマエを消して、世界の帳尻を合わせるなんて……そんな自分勝手、オレが許さねえ」


 累は律の「肉体」の手を引き、混沌とした時計店を飛び出した。

 律の意識を呼び戻すには、彼が自分を「不法占拠の偽物」だと定義する根拠を、根底から覆すほどの「新しい真実」を突きつけるしかない。


 一方、律の意識は、光すら届かない底のない深淵を彷徨っていた。

 そこには形もなく、音もない。ただ、無数の「正論」と、自分を断罪する「冷酷な事実」だけが、無機質な文字となって律を取り囲んでいた。


『一年前、お前はこの青年の死と共に生まれた、偶発的な精神のバグに過ぎない』

『お前が語る論理は、すべてこの青年の教育記録から簒奪したものだ』

『お前が累と過ごした時間は、他人の家で行われた不法な宴であり、一秒ごとに罪を重ねてきた』


「……ああ、その通りだ。否定する言葉を、俺は持ち合わせていない」


 律は、暗闇の中で自嘲気味に呟いた。

 自分は、美しい船の残骸に住み着いたヤドカリのようなものだ。ヤドカリが、どれほど船の操舵を完璧にこなそうと、「私は船だ」と名乗ることがどれほど滑稽で、傲慢なことか。今の彼は、自分自身の冷徹な論理によって、自分自身の存在を「世界の正常化のために削除すべきノイズ」として分類していた。


「俺は、消えなければな。それが、最も誠実で、最も正しい『解呪』なのだから……」


 律がそう確信し、存在することを放棄した瞬間、彼の身体の輪郭が、風に煽られた灰のように、端から静かに崩れ始める。


 その時。

 精神世界の静寂を、凄まじい「獣の匂い」と、世界そのものを震わせる咆哮が引き裂いた。


「――がうッ!! 離せ、この論理バカ! 勝手に死ぬんじゃねえッ!!」


 崩れゆく律の腕を、巨大な黒い影が、肉を噛みちぎらんばかりの勢いで掴んだ。

 累の意識の断片だ。現実世界で律の「器」を守りながら、累は自らの野性を極限まで高め、影となって律の精神の深淵へと強引に割り込んできたのだ。


「累……? 来るな。ここは、定義のない虚無だ。怪異ですらない、ゴミ捨て場だ」


「うるせえ! 虚無だかゴミだか知らねえが、オレの鼻はまだ、オマエがさっきまで作っていた飯の匂いを覚えてんだよ! 忘れたなんて言わせねえぞ!!」


 影のワニが牙を剥き、律を囲んでいた「断罪の数式」を次々と食い破っていく。


「いいか、律! オマエが自分を偽物だっていうなら、それでもいい! だったら、偽物のオマエがオレと過ごしたこの数ヶ月を、本物に変えてみせろよ! 借り物の過去がなんだ! オマエがオレに名前をくれた、あの瞬間の匂いは、誰の借り物でもねえ、オレたちの唯一無二の真実だろうが!!」


 律の、指先から崩れかけていた消滅の進行が、微かに止まる。

 累の叫びは、論理ではなかった。それは、証明も根拠も、過去の正当性さえも必要としない、純粋な「肯定」という名の理不尽な暴力だった。


 だが、現実は残酷に累を蝕み始めていた。

 時計店の外、混沌の街中で律の肉体を支える累自身の腕が、一瞬、ガラスのように透ける。

 累自身の「存在の定義」までもが、律の崩壊という特異点に引きずられ、テセウスの呪いによる「入れ替え」の対象としてロックオンされてしまったのだ。


「……あ。……っ、律……急げ。……オレの、匂いまで……誰かと入れ替わっちまう前に……」


 現実世界の累が、激痛に耐えかねて膝を突く。

 律という怪異を現実に繋ぎ止めていた唯一のアンカーが、今、最大の消失の危機を迎えていた。


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