第13話 テセウスの心臓③
床に転がった銀縁の眼鏡。それが外れた今、律の肉体は完全に「過去の残影」に支配されていた。
かつてベッドの上で、静かに死を待つだけだった青年の、意志を持たない穏やかな微笑。累がこれまで、ふとした瞬間に見て「律の優しさ」だと思い込んでいたものは、中身のない器が映し出し、肉体に刻まれた運動の記憶が再現する、ただの懐古的なバグに過ぎなかった。
「……あ、れ。累、どうしたの? そんなに、怖い顔、しな……いで……」
律(の残照)が、震える手で累の頬に触れようとする。だが、その指先はまるでこの世の存在ではないかのように熱を欠き、実体が薄い。累の肌をすり抜けるように冷たかった。それは親愛の情ではなく、ただ過去の映像が再生されているだけの、残酷なホログラムだった。
「……やめろ。触るんじゃねえ。その顔で、オレを呼ぶな」
累は、その手を乱暴に振り払った。
累が信じ、付き従ってきたのは、一年前の事故の記録に残るこの温厚な青年ではない。冷徹で、傲慢で、非論理的なものを極端に嫌いながらも、累の空腹を満たし、その居場所を論理的に肯定し続けてきた、あの「怪異としての律」なのだ。目の前にいる青年の瞳には、相棒の匂いも、あの鋭い知性もひとかけらも残っていない。
「ひどいな、累くん。本物の持ち主に返してやれと言ったのは君たちの倫理観だろう? 奪ったものは、返すべきだ。それが公平な交換、あるいは論理的な清算というものじゃないか」
堂々(どうどう)は愉悦に肩を揺らし、泥に汚れた傘の先端で床の眼鏡を――律を現実に繋ぎ止めていた唯一の錨を――粉々に踏み砕いた。
「さて、密航者の意識はどこへ消えたかな。肉体という錨を失った純粋な意識は、定義を失った言葉と同じだ。ただのノイズとなって、この街を埋め尽くすパンデミックの一部になる」
その言葉通り、時計店の外では異変が極限に達していた。
ガラス越しに見える街の風景は、もはや一つの連続した現実を維持していない。悲鳴が上がり、街中の人々の「パーツ」が物理法則を無視して入れ替わり始めていた。隣人の腕を自分のものと誤認する者、親の記憶を持つ子供、愛する妻を「見知らぬ女」と定義し始める夫。
自分と他人の境界線が融解し、街全体が巨大な『テセウスの船』と化して、オリジナルを見失い、泥濘のような崩壊へと向かっていく。
「……う、あ、あああああ……っ!」
律の肉体が、激しくのたうち回った。
眼鏡という「拘束具」を失ったことで、肉体の本来の主が持つ生体記憶と、追い出された「怪異」の意識が、一つの狭い脳内で凄まじい摩擦を起こしている。それは、二つの相容れない論理が同じ座標を奪い合う、精神的な拒絶反応だった。
律の瞳は、一秒ごとに「冷徹な知性の青」と「意志のない空虚な陽だまり」を交互に繰り返し、まるで故障した古いモニター画面のように、激しく、不規則に明滅を繰り返していた。
(――ああ、そうだ。俺は……俺は、不法占拠者に過ぎない……)
律の意識の深淵で、冷たい論理が、自分自身の存在を否定し始めていた。
(一年前、俺は空っぽの廃墟を見つけ、そこに勝手に住み着いた。この慈しみも、向日葵の記憶も、すべては借り物のガラクタ。俺を『律』たらしめていたのは、この肉体の持ち主の戸籍であり、過去であり、外見だった。それらを剥ぎ取られた俺には、ここに留まる権利も、自分を定義する言葉も……一つも残っていない)
律の意識は、根を失った植物のように枯れ始め、暗黒の中へと沈んでいく。自分という「バグ」を消去し、世界の整合性を保つための「自殺」を、彼の理性が選択しようとしていた。
「――っざけんな!!」
時計店の静寂を、野太い咆哮が引き裂いた。
累が堂々の傘を弾き飛ばし、律の胸ぐらを、服が裂けるほどの力で掴み上げた。
「中身が怪異だぁ? 亡霊だぁ? そんな小難しい理屈、オレの鼻に言わせりゃゴミクズ以下の価値もねえんだよ!!」
累は、半分白目を剥いて意識を散らしている律の顔を、自分の鼻先にまで強引に引き寄せた。
「いいか、よく聞け! オレが信じてんのは、一年前の病院の記録じゃねえ! さっきまでオマエが台所で立てていた包丁の音だ! あの不味そうなピーマン抜きのハンバーグの匂いだ! オレが腹減ったって言った時に、溜息をつきながらメシを作る、あの癪に触るオマエの手つきだ!!」
累の金色の瞳が、燃えるような執念を宿して律の空っぽな瞳を射抜く。
「テセウスの船だかなんだか知らねえが、オレが『オマエが律だ』って決めてんだ! 誰がなんと言おうと、今の、その不味いメシを作るオマエがオレの相棒なんだぜい!!」
だが、その叫びもむなしく、律の肉体からは次第に力が抜けていく。
意識の深淵で、律はもはや自分を支える力を失っていた。「存在しないもの」は、どれほど叫ばれても存在へと浮上することはできない。
堂々は冷酷に笑い、累を見下ろした。
「無駄だよ、累くん。存在を証明できない言葉は、ノイズに呑まれて消える。……行くよ。その『ただの死体』にいつまでも執着していると、君の鼻まで腐ってしまう」
解呪師としての看板は砕け、律は自分が「誰でもない怪異」であることを突きつけられ、自ら消滅を選ぼうとしていた。
街がテセウスの船として崩壊し、あらゆる定義が失われていく中、時計店に残されたのは、ただ泣きじゃくる「肉体の残影」と、絶望の中で主を呼ぶ「ワニ」の声だけだった。




