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第12話 テセウスの心臓②

 堂々に示された時計店『クロノス』の扉を開けた瞬間、累は激しく咽せ返った。

「……っ! 律、なんだこの匂い。古い紙と油の匂いの中に、他人の汗や、知らない奴の涙の匂いがごちゃ混ぜになってやがる。……鼻が、バカになりそうだぜい」


 店内の光景は、まさに「時間の死体置場」だった。

 壁一面に掛けられた数百の時計。そのすべてが、バラバラの速度で針を回し、あるいは文字盤から数字が剥がれ落ちて床に散らばっている。

 カウンターの奥にいた店主は、虚ろな目で自分の左手を見つめていた。その手には、彼のものではないはずの、ひどく古びた女性用の腕時計が無理やり嵌め込まれ、肉に食い込んでいる。


「……ああ、解呪師さん。聞いてください。私は今日、自分の娘の誕生日を祝おうとしたんです。でも、思い出したのは……一度も行ったことのない、異国の戦地の燃えるような夕焼けでした。私の頭の中に、知らない誰かの葬式の光景が、まるで自分の宝物のように居座っているんだ」


 店主は声を震わせながら語る。彼は自分の名前、年齢、職業といった「スペック」は正確に認識している。しかし、それを裏付けるはずの「記憶」という部品が、街の誰かのものとランダムに入れ替わってしまっていた。


「……累。これは単純な呪いじゃない。世界の『記述』そのものが、致命的な整合性エラー(バグ)を起こしているんだ」

 律は淡々と分析する。その声は氷のように冷たいが、エプロンの下にある指先は、不自然なほど細かく震えていた。


「……律、おかしいぜい。街の奴らから漂う『他人の匂い』より、オマエから漂う『他人の匂い』の方が、ずっと古くて濃い。……なあ、それ、いつからなんだ?」

 累の金色の瞳が、相棒の背中を射抜く。累の鋭い嗅覚は、律という存在が、最初から「継ぎ接ぎの怪物」であることを嗅ぎ取り始めていた。


 律はその問いに答えず、店主の頭部に手を翳した。

「定義を……書き換える。あんたの記憶は、あんたのものだ……」

 術式を展開しようとした、その瞬間だった。


 律の脳内に、激烈なフラッシュバックが奔った。

 視界が真っ白に染まり、時計店の風景が消える。

 一面の向日葵畑。黄金色の光。泥にまみれて笑う少年。誰かに「律くん」と名前を呼ばれ、温かなスープを差し出される感触。……それは、孤独に生きてきた律が、決して持ち得ないはずの、「幸福の記憶」だった。


「が……はっ、あ、あああ!」

 律は激しく咳き込み、その場に膝を突いた。視界が二重、三重にブレる。

 自分の中に、自分ではない「何か」が凄まじい勢いで逆流してくる。

 律は悲鳴を上げる代わりに、必死に眼鏡の蔓を両指で掴み、こめかみに食い込ませた。


「律!? おい、しっかりしろ! 眼鏡が壊れるぜい! 苦しいなら外せよ!」

「……だめだ……っ。これを外しては……俺が……『本物』に呑み込まれて……消える……!」


「――その通り。立派な心がけだね、偽物さん」

 背後から、傘を閉じる音と共に、堂々の冷ややかな声が響いた。

 彼は倒れ伏す律を見下ろし、慈しむように、しかし残酷な手つきで、律の指を引き剥がしにかかる。


「気づいているんだろう、累くん。そいつは今、眼鏡という『論理の拘束具』を使って、宿主の脳を強引にハッキングしているだけなんだ。冷徹な理論で武装しなきゃ、この肉体の『オリジナルの意志』に主導権を奪われちまうからな」


「……何、言ってんだよ、オマエ」


「教えてやろうか。一年前、この肉体の持ち主である本物の『律』という青年は、不慮の事故で脳死した。心臓は動いていても、中身は空っぽの植物人間。そこへ、たまたま通りかかった『論理の化身』という怪異が、青年が亡くなった瞬間、まるで空き家を見つけた子供のように、面白半分にその脳に腰掛けたんだ。……それが、君の愛する解呪師の正体だよ」


 堂々の指が、律の眼鏡を弾き飛ばした。

 銀縁の眼鏡が床を滑り、カシャンと音を立てて柱時計に当たって止まる。


 その瞬間、律の瞳から一切の知性が、そして冷徹な青い光が消失した。

 代わりに宿ったのは、ひどく柔らかく、温厚で、それでいて何も映していない、空虚な「陽だまり」のような光だった。


「……あ、れ。累じゃないか。僕たち……どうして……ここにいるの、かな」

 

 震える唇から漏れたのは、解呪師の鋭い言葉ではなく、オフの時の、植物人間としてずっとベッドで眠っていたはずの、本来の律の「残照」だった。


累の鼻が悲鳴を上げる。目の前の男は、律と同じ顔をして、律と同じ声を出し、律よりもずっと温かい。――なのに、そこからは『相棒』の匂いが、欠片もしてこなかった。

肉体の奥底に眠っていた本物の「背反二 律」が目を覚ました。それは喜ぶべき奇跡のはずなのに、累の心臓を支配したのは、名前のつかないおぞましさだった。


 仕事モードの理知的な律こそが、肉体を乗っ取った密航者。

 しかし、眼鏡を外した時のこの優しい性格は、残された肉体(器)に刻まれた、意志を持たない「過去の反射」に過ぎない。


「テセウスの船の結論を教えてやろう。古い部品をすべて捨てて、新しい部品で作られた船は、もはや元の船じゃない。……だが律。お前はさらに酷い。お前は部品を替えたんじゃない。他人の動かない船に乗り込んで、自分が船長だと言い張っているだけの、ただの亡霊だ」


 堂々の冷酷な宣告が、静まり返った店内に響き渡る。

 累が絶句する中で、床に倒れた青年の中では、「怪異の意識」と「肉体の残響」が、一つの脳を奪い合って激しく反転ロールし始めていた。


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