第10話 鏡のパラドックス③
ミウの悲鳴に呼応するように、ピアノ室の空気が物理的な質量を持って歪み始めた。
四方八方の鏡に走ったヒビから、どろりと黒い液体が溢れ出す。それは鏡の中に閉じ込められていた、母親の「喪失感」と、ミウに押し付けられた「身代わりとしての絶望」が混ざり合った、どろどろの因果の澱だった。
「……サナ……私のサナ……どこへ行くの、行かないで……!」
母親が、虚空を求めて両手を彷徨わせる。彼女の目には、鏡から溢れ出した黒い澱が、今もなお美しく微笑む実の娘に見えているのだろう。彼女は壊れたレコードのように、ミウの肩を強く掴んで揺さぶった。
「ミウ、あなたがサナでしょう? ほら、ピアノを弾いて! サナのように、私を喜ばせて!」
「……もう、無理だよ、お母さん」
ミウの瞳から、光が消える。
彼女の背後に、鏡の中から完全に這い出した「サナ」の形をした怪異が重なった。目も鼻も口もないのっぺらぼうの顔が、ミウの頭を優しく抱きしめる。それは愛ではなく、現実世界からミウを鏡の「向こう側」――すなわち、死の領域へと引き摺り込むための、冷たい抱擁だった。
「律! このままじゃミウが鏡の中に飲み込まれちまうぜい!」
累が叫び、床に巨大な影を広げた。影から伸びた漆黒の顎が、空中に漂う黒い澱を噛みちぎろうとする。だが、怪異は煙のようにすり抜け、捕らえることができない。
「くそっ、実体がねえ! なんでだ、こんなに強烈な呪いの匂いがするのに!」
「当然だ、累。この怪異の本質は、母親の『錯覚』そのものだからな。鏡が前後を反転させるように、彼女の精神は『生と死』を入れ替えている。お前がどれだけ噛みちぎろうとしても、それは存在しない像(虚像)を攻撃しているに過ぎない」
律は冷徹に、しかし眼鏡の奥に激しい理知の光を宿して言い放った。
「定義を修正する。……ミウちゃん、あの子はサナちゃんじゃない。あの子は、君が『サナにならなければ愛されない』と認めてしまった瞬間に生まれた、君自身の『否定』だ」
律は一歩も引かず、ミウの首筋に冷たい指先を当てた。
「いいか、鏡像のパラドックスには、もう一つの側面がある。鏡の中の自分が『自分と向き合っている』ように見えるのは、私たちが勝手に自分を180度回転させて投影しているからだ。……だがミウちゃん。君はもう、回転するのをやめろ。妹のふりをして、お母さんに向き合おうとするな。君は、君のまま、ただ前だけを向け」
「私が……私で、いいの?」
「そうだ。鏡は前後を入れ替えるが、上下(重力)は逆転させない。どんなに定義が狂っても、君がこの地に足をつけ、重力を感じている限り、君の存在の根軸は誰にも奪えない。……累! 『回転』という定義を喰らえ! 鏡の中の虚像を、無理やり現実に『固定』させるんだ!」
「合点承知だぜい、律! その理屈、オレが飲み干してやる!」
累が咆哮した。彼の影が、鏡の表面を物理的に塗りつぶしていく。
鏡像を成立させる「反射」という法則そのものを、累の胃袋が喰らい尽くす。
反射を失った鏡は、ただの暗黒の板へと変貌し、ミウを抱きしめていた怪異が、行き場を失って現実世界に実体化……した。
「……捕まえたぜい。のっぺらぼうのニセモノ野郎!」
影のワニが、実体化した怪異の胴体を真っ二つに食い破った。
鏡のヒビが弾け飛び、ピアノの部屋に轟音が響き渡る。
母親は叫び声を上げて倒れ込み、ミウの背中から、冷たい「サナ」の手が離れていった。
静寂が、戻ってきた。
床には無数の鏡の破片が散らばり、夕闇の光を乱反射している。
ミウは震えながら、自分の両手を見つめた。そこには、サナの幻影ではなく、絆創膏だらけの、自分自身の小さな手があった。
「……終わったよ、ミウちゃん」
律は眼鏡を外し、懐のクロスで丁寧に拭いた。その瞬間、彼の纏っていた冷酷な気配は霧散し、いつもの穏やかな店主の顔に戻っていた。
「おじちゃん……サナちゃんは、もういないの?」
「うん。あの子は、あの日からずっと、君に『君自身』を生きてほしいと願っていたはずだよ。……鏡の向こう側からではなく、この広い世界でね」
律は泣きじゃくるミウの頭を一度だけ撫でると、気を失った母親の枕元に、一枚の「真っ白な請求書」を置いた。
数時間後。事務所『二律背反』に戻った二人は、いつものようにソファに腰掛けていた。
「……なぁ、律。結局、あの母親からは一銭も取らなかったのかよ。全資産の三割だっけ? あの家、結構な金持ちだったぜい」
累がクッキーを齧りながら、不満そうに口を尖らせる。
「言っただろ。落ち度の無い被害者の生活や将来に支障が出るようなお金はもらう趣味はないって。それに、あの母親の精神はもう、鏡という支えを失って崩壊寸前だよ。資産を奪うまでもなく、彼女はこれから一生、『自分が長女のミウちゃんにサナちゃんの影を押し付けた』という真実と向き合い続けなければならないわけだし……それが、彼女への最大の『請求』だよ」
律はキッチンに立ち、エプロンの紐を締めた。
「さて、今日の夕飯は少し質素になるが、我慢してくれ。……お詫びに、ピーマンの肉詰めを、ピーマン抜きで作ってあげよう」
「……は!? それ、ただのハンバーグじゃねえか! 律、たまには良いこと言うじゃねえかよ!」
累の弾んだ声を聞きながら、律は窓の外の夜景を見つめた。
鏡の中には映らない、実体だけの暗闇。
そのどこかで、今日も誰かが自分を偽り、論理の迷宮に迷い込んでいる。
『二律背反』の看板が、今夜も静かに、救いと断罪の境界線で揺れていた。
【鏡のパラドックス:解説】
鏡は左右ではなく、「前後」を入れ替えています。
左右逆に見えるのは、脳が勝手に自分を「回転」させて合わせようとするからです。
律の解呪:
「自分を回して、偽物に合わせるのをやめろ」
誰かの身代わりになるために自分をねじ曲げるのをやめ、「ありのままの前(自分)」を見ろという救済です。




