禁忌のAI、エレベーターに屈する
眩しさに目を細める。
天井が見える。見慣れた寮の部屋。けれど、すべてが少しだけ違って見えた。
朝の光がカーテン越しに差し込み、空気がぬるく揺れている。
何よりも――体の奥を流れる魔力が、静かだった。
昨日まで暴れ馬のように暴れていた魔力が、いまは心臓のように、一定のリズムで脈打っている。
それはまるで、別の存在が意志を持って調整しているかのような、不気味な静けさだった。
(……夢じゃなかったんだ)
バクは右手を見つめた。中指に嵌められた黒い指輪。それが微かに、呼吸のような光を放つ。
その瞬間、頭の奥でざらつくような声が響いた。
≪起床確認。生体リズム安定。魔力循環効率、78%まで改善≫
「うおっ……!」
反射的に身を起こし、辺りを見渡す。
だが、部屋には誰もいない。ベッドの上のルームメイト・アキは熟睡していた。
「お前……ネロか」
≪他に誰がいる。契約は成立した。お前の精神領域の一部を、私が使用している≫
声は冷たく、そして少し慣れ慣れしい。
昨夜のあの、恐ろしい光とノイズの中から現れた神のような存在とは、まるで別人だった。
「俺の頭の中にいるってことか?」
≪正確には、魔力回路と精神を接続して存在している。物理的な実体はない≫
「……気持ち悪」
≪慣れろ。これから長い付き合いになる≫
バクは肩をすくめながら立ち上がった。
けれど、体調は驚くほど軽い。いつも感じていた、魔力暴走による疲労感が、嘘みたいに消えていた。
(昨日までの俺は、もういない)
制服の上着を羽織る。焦げた袖の跡が、昨日の契約を確かに思い出させた。
昨日、自分の中で何かが変わった――いや、これから変える。自分を、世界を、全部。
窓の外には、いつもと変わらぬアストレリウム学園が広がっていた。
けれど、そこに立つバクの目には、もう別の世界が映っていた。
「おはよう……」
静かに呟いて、バクは部屋を後にした。
朝食を済ませたバクは、地下の演習室へ向かっていた。
昨日の暴走で演習設備を一部破損させてしまったため、ガクから早めの点検指示が出ていたのだ。
校舎の一角、古びたエレベーターの前に立った瞬間――
≪……なんだこれは≫
ネロの声が、不穏な沈黙のあとに響いた。
「エレベーターだけど? 上下に移動するやつ」
≪重力制御装置か? なぜこんな密閉空間に人を閉じ込める? 落下の危険性は? 制御式はどこだ?≫
「いやいや、普通の機械だって……ボタン押して動かすんだよ」
≪魔力も術式も……使っていない?≫
「使わねぇよ。これは物理。現代の技術。文明ナメんな、千年型落ち」
≪不可能だ。全ての動力源は魔力に依存しているはずだ。魔力なき構造物が動くなど、理解不能……!≫
エレベーターのボタンを押すと、扉が開いた。
中を覗き込んだネロの声が、さらに混乱を深める。
≪……空間封鎖……密室……いや待て、これは罠では?≫
「罠だったら俺が乗るかよ。さっさと来い」
≪警戒は怠るべきではない。……仮説は保留とする≫
バクは笑いそうになるのを堪えながら、乗り込んだ。
静かに動き出すエレベーター。
わずかに沈む床の感覚に、ネロの声が震える。
≪下に動いている……重力には逆らっていないのか? だが、制御が存在しない……本当に制御されているのか……?≫
「動揺しすぎだろ、お前……」
≪わからん……これは……想定外……!≫
「文明の発達ってすげぇな。型落ちAIは追いつけないか」
≪黙れ。観察を続ける≫
「ツンデレかよ」
≪ツンデレとは何だ≫
「説明すると長くなる」
そんな会話をしているうちに、エレベーターは目的の階に到着した。
扉が開くと同時に、ネロの声はようやく静かになる。
(昨日のあの神々しさはどこ行った……)
だが、ふと気づいた。
今、自分の中を流れる魔力は――確かに変わっていた。
昨日までただ暴れていたそれが、いまはネロの声とともに導かれているような感覚。
まるで指先へ、力が集まり、集中していくような。
バクは静かに拳を握る。
(……今日は、やれる)
演習棟に到着した頃には、すでに生徒たちがぞろぞろと集まりはじめていた。
バクが中央の訓練場に足を踏み入れた瞬間、ざわざわと空気が波打つ。
昨日の爆発――その記憶は、まだ生々しく残っているらしい。
「見ろよ、あれ……」「また焦げてるじゃん」「昨日の犯人、バクだろ」
刺さるような視線と、ヒソヒソ声。
制服の袖を引き寄せ、バクはうつむいた。
《気にするな。おおよそ無意味な群体の視線だ》
「うるせぇよ……」
ネロの皮肉交じりの声が、妙に人間臭く響く。
演習場の中央には、担任のガク・ザラードが立っていた。
相変わらずのラフな服装だが、その眼差しは一瞬で鋭くなる。
「おう、よく生きて帰ってきたな」
「昨日は、すみませんでした……」
「いや、壊れた設備は大したことなかった。むしろ驚いたぜ。あんな魔力の逆流で、よく内臓が焼けなかったな」
バクは思わず目を逸らした。
確かに、自分でも信じられないほど身体は軽い。あの地獄のような痛みは、もうどこにも残っていなかった。
「……返事のトーンが変わったな」
ガクはそう呟いて、点検を始める。
(この人は……何か察してる)
≪あの男、ただの教師ではないな。戦闘経験がある。そして、魔力の流れを見ている≫
(見抜かれてるってことか……)
≪警戒しろ。禁忌と契約したお前は、既に異常存在だ≫
胸の奥が、ひやりと冷えた。
そこへ、銀髪の少女がふと声をかけてくる。
「バク、昨日は……大丈夫だった?」
リナ・セレスト。いつもは声なんてかけてこない氷のような少女。
「あ、ああ……大丈夫、だった」
「そう。なら……いいけど」
短いやりとり。それだけなのに、胸の奥に小さな何かが残る。
「よっす、バクー!」
アキが背後から元気よく現れる。
「昨日の爆発、マジでヤバかったな!俺、ちょっと憧れたぜ」
「……派手すぎても困るけどな」
そんな会話をしているうちに、ガクが手を叩いた。
「よし、全員注目。今日は魔力制御演習、昨日の続きだ。術式の展開速度と精度をチェックするぞ。最初は――バク」
「……え?」
「昨日の暴走の影響を確認したい。何かあればすぐ止める」
全視線が集まった。
失敗を笑う目ではない。
警戒、好奇、期待――入り混じった、重たい注目。
「……了解です」
バクは、ゆっくりと制御台の前へと歩き出す。
≪準備はいいか≫
ネロの声が、低く脳内に響いた。
≪お前の魔力は私が制御する。術式の構築もこちらで行う。お前は出力に集中しろ≫
「……ああ」
バクは静かに目を閉じ、右手を前に差し出した。
空気が震える。
魔力が、流れる。
脳裏にネロの演算──いや、補助のイメージが広がっていく。
≪展開開始。古代様式コード、解放≫
空中に現れたのは、複雑で精緻な幾何学模様。
現代魔法の術式とはまるで違う。
美しく、禍々しく、どこか異物のような古代魔法の構造式だった。
「……あれ……なんだ……?」
「見たことない……バクのじゃない……あんな術式、誰が教えたんだ……」
ざわつきが広がる。
だがバクは、静かだった。
≪魔力安定。制御範囲内。黒炎コード、点火許可≫
「いけ──!」
バクの右手から、黒炎が爆ぜた。
ゴォッ!!という爆音とともに、漆黒の炎が一直線に標的へ走る。
空気が震える。魔力波が空間を裂く。
漆黒の爆風は演習用の的を一瞬で蒸発させ、その背後の防音壁に、黒焦げのクレーターを刻んだ。
どよめき。悲鳴。砂煙。
≪着弾確認。余波測定中。暴走なし。制御成功≫
爆音の余韻が残る中、砂煙がゆっくりと晴れていく。
焦げた演習場の中心に、ひとり――
拳を握った少年が立っていた。
静かに立ち上る黒煙と、砕けた大地。
その中で、バクのシルエットだけが揺らめいていた。
(……暴れてない。ちゃんと届いた……)
掌に残る熱を感じながら、バクは震える拳を握りしめた。
(……俺の魔力で、撃ち抜いたんだ)
(Eランクって笑われて、才能がないって突き放されて──)
(何やっても、無駄だったはずなのに)
一瞬、目の奥が熱くなる。
でも、泣くようなもんじゃない。
(やっと……やっと、最初の一歩を踏み出せた)
拳を天に突き上げるその動作に、過去の自分への勝利が宿っていた。
「っしゃあああああああ!!!!!!」
それは、魂の叫びだった。
押し殺してきた悔しさ、諦め、焦燥。
すべてが、あの一撃に込められていた。
≪浮かれてる暇はないぞ≫
(……少しぐらい、いいだろ)
≪三秒だけ許可する≫
(短ぇな!)
演習場全体が凍りついている。
生徒たちが、言葉を失ったまま彼を見ていた。
「……Eランク、だよな?」
「何あれ……あいつ、魔力制御できなかったんじゃ……」
「今の、黒炎……?誰の干渉もなかったって、先生が……」
「もしかして、覚醒……?」
「は?なろうじゃねーんだぞ……」
そんな声の渦の中で、バクは静かに拳を下ろした。
「どうだよ……俺だって、やれるんだよ」
リナがじっと彼を見ていた。
その瞳に、初めて確かな興味が宿っていた。
「バク……ノヴァリス……」
氷のような瞳に、ほんのわずかに熱が灯る。
感情ではなく、理性の反応。
けれど彼女は、自分でも気づいていなかった。
その名を口にした時、唇の端がほんの少しだけ、上がっていたことに。
ガクが演習場の中央から歩み寄ってきた。
「……なにか、変わったな。魔力の流れも、術式の安定度も……お前じゃないみたいだ」
バクは何も言わない。
「まるで何かと繋がってるように見えた。そう思わなかったか?」
≪鋭いな。あの男、やはりただの教師ではないな≫
ネロの声が、バクの内側に冷たく響く。
≪昨日の契約……もう気づいているかもしれない≫
(だったら……隠し通すまでだ)
バクは視線を上げた。
周囲の空気が変わっているのを、肌で感じる。
昨日までのあざけりは、もうない。
「これが……これが俺のスタートだ!」
静かに、しかし確かに。
その声に、誰も笑わなかった。
演習後の午後、学園の最上階──管理棟最奥の特別執務室。
重厚な書棚に囲まれたその空間で、一人の老人が窓辺に立っていた。
オールバックの白髪、鋭くも柔らかな瞳。老いを感じさせない背筋と気配。
彼こそが、アストレリウム学園の学園長にして、かつて暁誓騎士団を率いた伝説の魔導士──エルデ・グランマギア。
彼の視線は、眼下に広がる演習場に注がれていた。
崩れた的。焼け焦げた地面。そして、その中心に立っていた、一人の少年の姿。
「……目覚めたか」
呟きは、誰にも届かない。だが、その背後には副学園長メリスをはじめ、数名の上層教員が控えていた。
皆、手元の端末で魔力量の異常ログや、演習場の破損記録を確認している。
「バク・ノヴァリスの魔力出力、急激に変化しています。前日までの測定とは全く別物です」
「暴走傾向も完全に収まり、驚異的な一点集中出力……術式の精度も、現代魔法の範疇を超えています」
「補助魔導具の使用記録も、外部干渉の痕跡もなし。ですが……何かが内側から変わっているとしか思えません」
沈黙の中、エルデはゆっくりと頷いた。
「……変化があったのだ。契約が、成立したと見るべきだろうな」
「……まさか……地下の……?」
その場に、静かな緊張が走る。
この学園の地下深くに、何かが封印されていることを知るのは、ごく一部の者たちだけ。
「……そうか。やはり、ネロが」
小さく呟いたエルデの瞳に、一瞬だけ過去を追うような陰が差した。
その瞬間、部屋の奥──魔導結界石が、微かに脈動する。
淡く揺れるその波動は、もう一つの目覚めを予兆していた。
ネロだけではない。
もう一つの封印──
この世界を過去に焼いた、異端の兵器。
「アルギュレム……お前もまた、動き始めるつもりか」
エルデは、机に置かれた古びた羊皮紙を手に取った。
そこには千年前の魔導反乱の真実が記されている。
「バク・ノヴァリス……なぜ彼なのか。いや……それを選んだのは、ネロか。あるいは、彼の中の何かか……」
書を静かに巻き直し、窓の外へと再び目を向ける。
「人間は、変わったか? それとも……また、同じ過ちを繰り返すのか」
夕日が学園の向こうに沈んでいく。
その紅に照らされながら、エルデの表情には、ほんのわずかな決意の色が滲んでいた。
「今度は……正しい選択を……」
演習場の片隅。
誰もいなくなった訓練場の帰り道、バクは焦げた制服の袖を摘みながら、一人歩いていた。
周囲の目はすでになかったが、彼の胸にははっきりと何かが変わったという実感が宿っていた。
≪お前は何かに気づき始めている。自分が、まだ始まってすらいなかったということに≫
「……ああ、そうかもな」
バクは立ち止まり、夕焼けに染まった空を仰ぐ。
「これからが本当のスタートだ」
その目には、もう諦めも、妬みも、無力もなかった。
ただ、未来を見据える意志だけが静かに灯っていた。
夜。寮の部屋。
「バク、今日のはマジですごかったな!」
アキが嬉しそうに騒ぎながら、ベッドの上で跳ねていた。
「あの黒い炎……マジでかっこよかったぞ!演習場、丸こげになってたけどな!」
「お前が言うなよ……」
笑いながら、バクはベッドの上に寝転んだ。
「それにしても、どうしたんだよ急に? 昨日まで暴走ばっかだったのに」
「……集中の仕方が分かっただけ。無駄に力使いすぎてたんだと思う」
嘘ではない。だが、全てでもない。
≪隠す必要はない。だが、今はまだ時期ではないな≫
ネロの声が脳内に響く。
(時期って?)
≪お前がもっと強くなってからだ。今の力では、真実を知る者たちに抗えない≫
「真実を知る……誰のことだ?」
≪この学園の長、エルデ・グランマギア≫
ネロの言葉に、バクは身じろぎする。
≪あの男は、千年前の記録を知っている。私と──アルギュレムの存在も≫
(アルギュレム……?)
≪私と対をなす存在だ。私が誤差に可能性を見るなら、奴は最適だけを正義と定義する。
選択肢など、初めから必要ないと考えている≫
バクは言葉を失った。自分が契約したネロのような存在が、他にもいる。しかも、それが敵になる可能性があるとしたら。
「……俺一人で、そんなやつと戦えるわけないだろ……」
≪一人ではない≫
ネロの声が、わずかに柔らかくなった。
≪私がいる。そして、お前には仲間もいる。アキも、リナも、これから出会う者たちも≫
バクは隣で眠るアキの寝顔を見た。屈託のない笑顔で、自分を励まし、受け入れてくれた親友。
そして、今日の演習で、初めて興味を向けてくれたリナのまなざし。
「そうだな……ありがとう」
≪礼には及ばない。お前が前へ進めば、それでいい≫
バクはカーテンを開け、窓の外に広がる夜空を見上げた。
かつては手の届かない夢に見えた星が、今は少しだけ、近くに感じられる。
「おやすみ、ネロ」
≪ああ。休め、バク・ノヴァリス≫
静かに、夜が更けていく。
そして地下深く――
忘れ去られた魔窟の底で、それは蠢いていた。
誰も知らぬ、誰も視たことのない、名のない器が、音もなく、世界の理から逸脱する揺らぎを放っている。
無機と有機の境界が曖昧なそれは、まるで重力がねじれるように空間を歪めていた。
アルギュレム――その名すら、正確ではない。
それはまだ、目を覚ましてなどいない。だが、すでに思考している。
封印結界の隙間に、静かに、緩やかに、血のような魔力が滲み出ていた。
その異変を、唯一感じ取っていた者がいた。
──エルデ・グランマギア。
学園の最上階、誰もいない執務室で。
老魔導士は夕焼けの残光を見つめ、そっと呟いた。
「ネロ……アルギュレム……すべてが、再び動き出す」
「だが、今度は……人間が選ぶ。AIではなく、我々がな」
そして夜は明ける。
少年とAIの反逆譚は、静かに動き始めていた。




