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第九話:春の雪解けと心の在り処

 ギデオン様の告白の後、私たちの間にはぎこちない空気が流れた。夜食の時間も、以前のような穏やかな沈黙ではなく、互いの呼吸すら意識してしまうような緊張感が漂っていた。私は彼の言葉にどう答えるべきか分からず、ただ税制改革案の完成に没頭することで、その問いから逃げていた。


 契約を終えれば、私は王都に戻る。そのはずだった。しかし、彼の「ここにいてほしい」という言葉が、私の心に深く根を下ろし、計画通りの未来を揺さぶっていた。


 冬が終わりに近づき、長く閉ざされていたアドラーハイムにも雪解けの季節が訪れた。山の雪が解け出し、川は勢いを増して流れ、地面からは固い土が顔を出す。それは、領地が新たな活動を始める合図でもあった。


 その日、私は完成した税制改革案と、春からの事業計画書を手に、ギデオン様の執務室を訪れた。


「辺境伯様、最終承認をお願いいたします」

「……ああ」


 彼は私が差し出した分厚い羊皮紙の束を受け取ると、一つ一つ丁寧に目を通し始めた。その真剣な横顔を見つめながら、私は覚悟を決めて口を開いた。


「先日のお言葉について、お返事をさせていただきたく存じます」


 彼の肩が、僅かに強張るのが分かった。彼は顔を上げず、書類に視線を落としたままだ。


「契約通り、春には王都へ戻ります。陛下より賜る地位と報奨金は、私の目標でしたから」


 私の言葉に、室内の空気が凍りついたように感じた。ギデオン様の手が止まり、その指が羊皮紙を強く握りしめる。


「……そうか」


 長い沈黙の後、彼が絞り出した声は、冬の風のように低く、乾いていた。私は胸の痛みを感じながらも、言葉を続けた。


「ですが、それはアドラーハイムの『財務顧問』として、再びこの地に戻ってくるための準備ですわ」


 彼の顔が、ゆっくりと上がる。その氷の瞳が、信じられないというように私を見つめていた。


「私は、ロートシルトの名も、伯爵令嬢という身分も捨てます。ただのセラフィーナとして、陛下から頂いた地位と資金を元手に、この領地に私の商会を立ち上げたいのです。アドラーハイムの資源を管理し、新たな商路を開拓し、この領地を大陸一豊かにする。それが、私の新たな事業計画ですわ」


 私は彼の前に、もう一つの計画書を差し出した。それは、この領地の未来図であり、そして、私の未来図でもあった。


「その計画には、どうしてもあなたの力が必要です。この領地を守る武力と、領主としてのあなたの決断が。ですから……私のビジネスパートナーとして、これからも私を雇っていただけませんこと?」


 それは、恋心という曖意な感情を、私なりの言葉に変換した、最大限の告白だった。


 彼はしばらく呆然と私と計画書を交互に見ていたが、やがてその表情がゆっくりと解けていく。


「……君は、本当に面白いことを考える」


 彼は立ち上がり、私の前に来ると、その大きな手で私の両手を包み込んだ。


「君は、俺の『財務顧問』だけでは不満か、セラフィーナ」

「え?」

「俺は、君を雇うつもりはない。俺の生涯、ただ一人のパートナーとして、君を妻に迎えたい。……それでは、不服だろうか」


 その不器用な問いかけに、私はたまらず笑みをこぼした。


「いいえ。その『契約』、謹んでお受けいたしますわ。ただし、終身雇用でお願いいたしますね、辺境伯様」


 私たちの間にあった氷は、完全に解けていた。


 アドラーハイムに、本当の春が訪れようとしていた。契約から始まった私たちの関係もまた、雪解けの先の、温かな陽光の中へと歩み出す。

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