第八話:契約になかった感情
ヘルハウンドの襲撃を退けた一件は、私の領内での立場を決定的なものにした。もはや私を「王都から来たお飾り」と見る者はおらず、誰もが私の指示を辺境伯その人の言葉として受け止めるようになっていた。
アドラーハイムに本格的な冬が訪れると、領地は深い雪に閉ざされた。魔物の動きは鈍り、大きな戦はなくなる。それは、私にとって内政に集中できる絶好の機会だった。風車の建設は順調に進み、回復薬の生産ラインも軌道に乗った。私は来るべき春に向けて、新たな特産品となるであろう魔鉱石の加工計画や、効率的な税制改革案の策定に没頭していた。
静かで、充実した日々。ギデオン様との夜食の時間は変わらず続いていた。私たちはそれぞれの仕事について報告し合い、時には他愛のない話もするようになった。彼が子供の頃、熊と間違えてヴォルクを罠にかけ、大目玉を食らった話などを聞かされた時は、思わず噴き出してしまった。彼の氷の仮面の下にある、人間らしい一面に触れるたび、私の心は少しずつ温まっていった。
その夜も、私は執務室で分厚い資料と格闘していた。新しい税制は、領民の負担を減らしつつ、領地の収入を増やすという難題だ。複雑な計算に没頭していると、いつものようにギデオン様が夜食を持って入ってきた。
「無理はするな。顔色が悪い」
「……少し、根を詰めすぎたかもしれません」
彼が差し出した温かいスープを飲むと、強張っていた体がほぐれていく。ふと、彼が私の手元にある羊皮紙を、難しい顔で覗き込んでいることに気がついた。
「……やはり、君の書くものは俺には呪文にしか見えんな」
「ふふ。辺境伯様にとっては、剣のほうがよほど扱いやすいでしょうから」
軽口を叩きながら、私は彼の隣に椅子を寄せた。
「これは税率のシミュレーションですわ。各世帯の所得水準に応じて税率を変動させることで、全体の税収を維持しつつ、貧しい家庭の負担を軽減させるための……」
私は夢中になって説明を始めた。所得階層、控除、累進課税。彼にとっては異国の言葉のように聞こえるだろう。それでも、彼はただ黙って、真剣な眼差しで私の話に耳を傾けてくれた。その瞳が、私に全幅の信頼を寄せているのが分かる。それが嬉しくて、私はつい時間を忘れて語り続けてしまった。
気づけば、窓の外はすっかり白み始め、ランプの油も尽きかけていた。
「……! 申し訳ありません、夜が明けてしまいましたわ」
「いや。興味深い話だった」
彼は静かに立ち上がると、窓辺に歩み寄り、外を眺めた。雪に覆われた城下が、朝の青白い光に照らされている。
「君が来てから、この領地は変わった。人々は希望を口にするようになった。……全て、君のおかげだ」
「いいえ。私はただ、数字を整理しただけですわ。この領地を守っているのは、あなた様です」
私たちの間に、心地よい沈黙が流れる。
この人といると、心が安らぐ。これまで感じたことのない、穏やかな気持ちになる。私はこの関係を、良好なビジネスパートナーシップだと思っていた。しかし、胸の奥で育ちつつあるこの温かい感情は、果たして契約書の中に含まれていたものだっただろうか。
「セラフィーナ」
彼が振り返り、私の名を呼んだ。その青い瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「契約の一年は、春には終わる。……その後、君はどうするつもりだ?」
その問いに、私は息を呑んだ。
王都へ帰り、約束された地位と富を得て、自立した生活を送る。それが、私の目的だったはずだ。なのに、なぜ今、その未来を思い描いた時、胸に一抹の寂しさがよぎるのだろう。
答えられない私に、彼は一歩近づいた。不器用な大きな手が、私の手にそっと重ねられる。
「俺は……君に、ここにいてほしい」
それは、命令でも、懇願でもない。ただ、彼の心の底からの願いが込められた、静かな告白だった。
重ねられた彼の手の熱が、私の心を乱す。契約になかった感情が、今、溢れ出してしまいそうだった。
アドラーハイムの冬は、まだ半分も過ぎていない。
しかし、私の心には、もう春の兆しが訪れているのかもしれなかった。