第七話:氷の瞳に宿る熱
秋が深まり、アドラーハイムに最初の雪が舞う頃には、領地の財政は目に見えて安定していた。黒森の薬草を原料とした回復薬は、新たに契約を結んだ南の商人たちを通じて他領へ輸出され、大きな利益を生み始めている。
しかし、平穏は長くは続かなかった。
ある雪の夜、城に緊急の報せが舞い込んだ。「ヘルハウンドの群れがブロンディールの村を襲撃」との知らせだった。ヘルハウンドは炎を纏う犬型の魔獣で、群れをなして現れると小さな村など一夜で焼き尽くしてしまう。
「……出陣する」
ギデオン様は即座に決断し、城内の騎士たちに檄を飛ばした。その横顔は、いつもの寡黙な領主ではなく、戦場を駆ける「北の狼」の顔に戻っていた。
「お待ちください、辺境伯様!」
私は作戦会議室に駆け込み、彼の前に立ち塞がった。
「吹雪ですわ! この天候での夜間行軍はあまりに危険です。兵の消耗が激しく、ヘルハウンドの炎の前では格好の的になるだけです」
「だが、待てば村が灰になる」
「いいえ。戦は力押しだけでは勝てません。ここでも『費用対効果』を計算するべきですわ」
私は壁に掛かった地図を指し示した。
「ブロンディールの村は渓谷にあり、入り口は一つ。敵の進軍ルートは限られます。村人たちにはまず、一番奥にある石造りの教会に避難していただきます。あそこなら、一夜は持ちこたえられるはず」
「その間に何をすると?」
「罠を仕掛けます。幸い、この城にはオリオン商会から巻き上げた賠償金で購入した、大量の『氷の魔石』が備蓄してありますわ」
ヘルハウンドは炎の魔獣。その弱点は、言うまでもなく氷だ。私の提案は、騎士団の精鋭と共にギデオン様が夜明け前に先回りし、渓谷の入り口に魔石を使った大規模な氷結の罠を仕掛ける、というものだった。騎士団本隊は、天候が回復し、敵が罠にかかり混乱したところを叩く。
私の作戦に、騎士団長たちは驚きと戸惑いの表情を浮かべた。しかし、ギデオン様は私の目をじっと見つめた後、静かに頷いた。
「……わかった。君の策に乗ろう」
その夜、私は眠れずにギデオン様の執務室で彼の帰りを待っていた。窓の外では雪が激しく降り続いている。彼が贈ってくれたインク壺の深い緑色が、ランプの灯りに照らされて静かに輝いていた。
夜明け前、吹雪が嘘のように止んだ頃、ギデオン様が戻ってきた。彼の全身は雪と霜で覆われ、銀髪は凍りつき、その姿はまるで氷の彫像のようだった。
「……怪我はございませんか」
私は駆け寄り、用意していた温かい薬湯を差し出した。彼は無言でそれを受け取り、一気に飲み干す。その青い瞳には、これまで見たことのないほどの強い光が宿っていた。
「罠は成功した。敵の半数以上を無力化し、残りは本隊が討伐中だ。村の被害は……皆無だ」
その言葉に、私は全身の力が抜けるのを感じた。
「……よかった」
「セラフィーナ」
不意に、彼が私の名を呼んだ。そして、冷え切った大きな手で、私の頬にそっと触れる。
「君は、俺の戦い方を変えた。力だけでなく、知略で勝つことを教えてくれた。俺は……君と出会えて、幸運だった」
その氷のような瞳の奥に、確かな熱が灯っているのが見えた。それは、戦場で敵を睨むのとは違う、ただ一人の女性に向けられた、不器用で、しかし真摯な熱。
彼の冷たい指先とは裏腹に、私の頬は燃えるように熱くなった。私は何も言えず、ただ彼の瞳を見つめ返すことしかできない。
外が白み始め、勝利を告げる騎士団の角笛が遠くから聞こえてきた。
アドラーハイムの長い冬が、始まろうとしていた。そして、凍てついた戦士の心にも、確かな変化の兆しが見え始めていた。