第六話:初めての『欲しいもの』
予算制度の導入とオリオン商会からの賠償金により、アドラーハイムの財政は危険水域を脱し、緩やかな回復基調に入っていた。黒森の薬草は回復薬として城内で生産が始まり、ガレリア渓谷の風車建設計画も、私が作成した詳細な事業計画書のもと、着々と進んでいる。
私の日常は、帳簿の数字と格闘し、新たな事業の採算性を計算し、文官たちに予算管理の基礎を叩き込むことで過ぎていった。それは王都にいた頃と何ら変わらない、数字に満ちた日々。しかし、決定的に違うことが一つあった。
「セラフィーナ」
執務室の扉が開き、ギデオン様が入ってくる。その手には、いつも無骨な盆に乗せられた夜食のスープと硬いパンがあった。
「今夜は冷える。温かいものを」
「……ありがとうございます、辺境伯様」
彼の訪問は、いつしか私の仕事の区切りとなっていた。彼は多くを語らない。ただ、私の向かいの椅子に静かに腰掛け、私が夜食を食べ終わるのを見届けるだけ。その沈黙が、不思議と心地よかった。
ある晩、いつものように夜食を終えた後、ギデオン様が珍しく口を開いた。
「町へ行くぞ。明日の朝だ」
「町へ? 何か緊急の案件でしょうか」
「いや……」
彼は少し言い淀み、視線を逸らした。
「……君がここに来てから、一度も休んでいない。たまには息抜きも必要だろう」
その言葉に、私は少し驚いた。彼が私の休息を気にかけてくれるとは。
翌朝、私はギデオン様と共に領都の市場を訪れていた。二人きりではなく、護衛としてヴォルクと数人の騎士が少し離れて付き従っている。それでも、領主が直々に市場を歩く姿は珍しく、商人や領民たちは驚いたように道を開けた。
市場は活気に満ちていた。厳しい冬に備え、人々は食料や薪を買い求めている。私が財政を管理し始めてから、以前より多くの物資が安定して供給されるようになり、人々の顔にも少しずつ明るさが戻っていた。
「何か、欲しいものはあるか」
ギデオン様が唐突に尋ねた。
「欲しいもの、ですか?」
「褒美だ。君の働きに、俺はまだ何も報いていない」
私は少し考え込んだ。欲しいもの。これまで私の人生で、その言葉は常に「必要なもの」と同義だった。新しいインク、計算しやすい羊皮紙、正確な天秤。それ以外に、何かを欲したことなどあっただろうか。
私が答えに窮していると、不意にある店の軒先が目に入った。それは、様々なガラス製品を扱う小さな店だった。色とりどりのガラスペンや、繊細な細工が施されたインク壺が、朝の光を受けてきらきらと輝いている。その中に、ひときわ目を引くものがあった。
深い森の緑色をした、美しいガラスのインク壺。蓋には、銀細工で狼の意匠が施されている。
「……きれい」
思わず、心の声が漏れた。
すると、隣にいたギデオン様がすっと店の中に入り、私の見ていたインク壺を指差した。
「これを貰おう」
彼の行動はあまりに自然で、私は止める間もなかった。店主から手渡されたインク壺を、彼は無言で私に差し出す。
「ですが、このような高価なものを……業務に必要というわけでは……」
「俺が、君に贈りたいと思った」
その真っ直ぐな青い瞳に、私は言葉を失った。
業務効率も、費用対効果も関係ない。ただ、彼が私に与えたいと願ったもの。
それを受け取った時、私の胸に芽生えたのは、これまで感じたことのない温かく、そして少しだけくすぐったいような感情だった。
城に戻り、早速そのインク壺を執務机に置く。機能的で殺風景だった机の上が、その一つがあるだけで、少しだけ色づいて見えた。
私は新しいインクを吸わせたガラスペンを手に取り、羊皮紙に向かう。
これから記されていくのは、この領地の未来を築くための数字。
そして、その傍らには、北の狼から贈られた、深い森の色がきらめいている。
これまで数字だけを愛してきた私の心に、初めて「欲しいもの」が生まれた。
その感情にまだ名前はつけられないけれど、決して悪いものではない、とセラフィーナは思った。