第五話:戦士の休息と小さな褒美
オリオン商会を退けたことは、城内に瞬く間に広まった。
これまで商会の横暴に耐えるしかなかった文官や兵士たちは、手のひらを返したように私を「軍師殿」と呼び、敬意を払うようになった。特に、当初は懐疑的だった執事のヴォルクに至っては、私が淹れたお茶の茶葉の出どころまで管理しようとするほどの心酔ぶりである。
しかし、最大の敵を退けたからといって、財政がすぐに黒字に転換するわけではない。むしろ、これまで不当な価格で物資を押し付けられていたツケが一気に回り、領内の備蓄は底をつきかけていた。
「小麦も、薬草も、塩も…何もかもが足りません。このままでは、冬を越す前に領民が飢えてしまいます」
ヴォルクが青い顔で報告する。私は巨大な領地地図を広げ、静かにペンを走らせていた。
「ご心配なく。オリオン商会から返還させた賠償金で、新たな商路を開拓します。幸い、この領地にはまだ活用されていない資源が眠っている」
「資源、と申されますと?」
「例えば、この黒森山脈。地図によれば、薬草の宝庫ですわ。それから、南のガレリア渓谷。あそこは風が強く吹き抜ける。風車を設置すれば、動力源として鉱石の採掘や製粉に利用できるはずです」
私は淡々と計画を語る。それは、この数日間、寝る間も惜しんで練り上げたアドラーハイム領の「事業再生計画書」だった。文官たちは私の計画の壮大さと緻密さに目を見張り、そして何より、これまで誰も価値を見出さなかった土地の可能性に希望の光を見出していた。
その日の午後、私はギデオン様に連れられて城の外に出た。
「黒森の視察だ」とだけ告げられ、馬に乗せられる。馬に乗るのは初めてだったが、彼が手綱を引いてくれるので不思議と怖くはなかった。
森の入り口で馬を降り、二人で歩き始める。木漏れ日が地面にまだらな模様を描き、鳥の声と風の音だけが聞こえる。執務室の緊張感とは違う、穏やかな空気が流れていた。
「……その、昨日はよく眠れたか」
不意に、前を歩いていたギデオン様が尋ねた。その声はいつもより少しだけ柔らかい。
「はい。おかげさまで」
「そうか」
会話は、それきりだった。彼は口数が多い方ではない。だが、その短い言葉の中に、私の体調を気遣う気持ちが滲んでいるのを感じた。
森の奥に進むと、陽当たりの良い開けた場所に、一面の薬草が群生していた。王都の薬師が見れば、涎を垂らして喜ぶだろう光景だ。
「ここが、君の言っていた場所か」
「ええ……素晴らしい。これだけの量があれば、高価な回復薬を自給自足できるばかりか、他領への輸出品にもなりますわ」
私は興奮気味に薬草を手に取り、鑑定を始める。その横顔を、ギデオン様がじっと見つめていることに、私は気づいていなかった。
視察を終え、城への帰路につく頃には、陽は西に傾いていた。
黙って馬を引く彼の広い背中を眺めながら、私はぼんやりと考えていた。彼が私に見せたかったのは、本当に薬草の群生地だけだったのだろうか、と。
城に戻ると、ヴォルクが私に小さな包みを差し出した。
「辺境伯様からです。『本日の褒美だ』と」
不思議に思いながら包みを開けると、中から出てきたのは、素朴な木箱に入った数種類のハーブティーだった。そして、その中に一枚の小さなカードが添えられている。
『頭を使いすぎた夜に』
その不器用で短い言葉に、思わず笑みがこぼれた。
あの無愛想な戦士が、私のためにこれを選んでくれた。その事実が、商会を打ち負かした時とは違う種類の達成感で、私の心を温かく満たしていく。
その夜、私は早速一番リラックス効果のあるカモミールティーを淹れた。カップから立ち上る優しい香りが、張り詰めていた心と体をゆっくりと解きほぐしていく。
契約結婚。事業再生。まだまだ戦いは続く。
けれど、この厳しい北の地で、私は初めて「戦士の休息」というものの心地よさを知ったのかもしれない。