第四話:最初の攻防
夜が明けると同時に、アドラーハイムの城は静かな緊張に包まれた。
私が発令した「全支出凍結令」は、まず城内の者たちの間に衝撃をもって受け止められた。特に、これまで惰性で物資を発注していた厨房や騎士団の補給係からは、悲鳴に近い抗議が上がった。
「酒も、新しい剣も、全て許可なく購入することを禁じます。今後は全ての支出に対し、私が発行する予算承認書が必要となります」
朝一番の会議の席で、私は居並ぶ屈強な騎士や古参の文官たちを前に、淡々と告げた。不満の声を上げる彼らに、私は一枚の羊皮紙を提示する。
「これは、過去一ヶ月の酒類の購入記録です。騎士一人当たりの消費量に換算すると、王都の近衛騎士団の三倍に上ります。皆さんはお酒ではなく、お水で魔物と戦うのでしょうか?」
私の冷静な指摘に、誰も反論できなかった。ギデオン様は腕を組み、沈黙したままその様子を見守っている。彼の沈黙は、私への全権委任の証だ。
城内の引き締めを終えた後、私は次の段階へと移った。オリオン商会との「交渉」である。
招待状を送ると、商会の代表であるマルクスという男が、肥え太った体を揺らしながら、二人の屈強な護衛を連れて城にやってきた。彼は私を侮りきった目で一瞥すると、ギデオン様に向かってわざとらしく言った。
「これはこれは、辺境伯様。このような可愛らしいお飾りが、我々の取引に一体どのような影響を与えると?」
「私の妻だ。口を慎め」
ギデオン様の低い声に室内の温度が数度下がる。しかし、マルクスは意に介さず、席に着くなり金の延べ棒のように太い指でテーブルを叩いた。
「さて、本題に入りましょう。滞っている支払いの件です。契約通り、今月末までに倍額をお支払いいただけなければ……」
「その必要はございません」
私が遮ると、マルクスは面白いものを見るように片方の眉を吊り上げた。
「なぜなら、あなた方との契約は本日をもって全て無効とさせていただくからですわ」
「……はて。ご冗談を。契約は神聖なるもの。辺境伯様、このお嬢様は少々お疲れのようだ」
マルクスがせせら笑う。私は静かに立ち上がり、彼らの前に数枚の羊皮紙を滑らせた。それは、私が昨夜のうちに探し出した、彼らの不正の証拠だった。
「ここに、同じ品物に対して発行された三枚の請求書があります。日付も品目も同じ。しかし、金額だけがそれぞれ異なっている。これは単純な記載ミスでしょうか?いいえ、帳簿が混沌としているのをいいことに、二重、三重に請求を繰り返していたのですね」
マルクスの顔から笑みが消える。
「さらにこちらの契約書。年利五十パーセントの貸付ですが、王国法では、貴族への貸付金利の上限は年利二十パーセントと定められています。明らかな違法契約ですわ」
「な……! そ、そんなものは言いがかりだ!」
狼狽する彼に、私は最後の一撃を放った。
「言いがかり、ですか。では、これを王都の中央裁判所に提出し、陛下の御前で判断を仰ぐことになりますが、よろしいのですか? オリオン商会が王家と辺境伯家を同時に敵に回す……面白い見世物になりそうですわね」
マルクスの額に、脂汗が玉のように浮かぶ。護衛たちも、背後で静かに佇むギデオン様の威圧感に気圧され、身じろぎもできない。
勝敗は、決した。
「……い、一体、どうしろと」
「簡単なことですわ。これまでの全ての違法な契約を破棄。そして、あなた方がこれまで不当に得た利益…市場価格との差額と、違法な金利分を全て、アドラーハイム領に返還していただきます。もちろん、一括で」
私の提示した条件に、マルクスは顔を真っ青にして崩れ落ちた。それは事実上、オリオン商会の破産を意味していた。
彼らが護衛に引きずられるように退室していくのを見送った後、執務室には静寂が戻った。私は息をつき、椅子に深く腰掛ける。初めての直接対決は、思った以上の疲労を伴った。
すると、これまで黙っていたギデオン様が、ゆっくりと私の隣に立った。そして、不器用な手つきで、私の頭をそっと撫でた。
「……見事だった」
その手のひらは、剣のタコで硬く、そして驚くほどに温かかった。
「君は、俺の知るどんな騎士よりも、勇敢な戦士だ」
その言葉に、なぜか胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。顔が赤くなるのを隠すように、私は眼鏡を押し上げながら、ぶっきらぼうに答えることしかできなかった。
「……当然ですわ。私は、プロフェッショナルですので」
北の領地での、私の最初の戦いは終わった。
しかし、本当の再建は、まだ始まったばかりだった。