第三話:帳簿という名の戦場
ギデオン様の執務室は、その日のうちに私の司令部へと姿を変えた。
彼の言う『帳簿』……すなわち古代遺跡の如き紙片の山を前に、私はまず執事のヴォルク様にいくつかの要求を伝えた。
「ヴォルク様。まず、この部屋で一番大きなテーブルを。それから新しい羊皮紙を百枚、質の良いインクを三瓶、算盤を五つ。あと、字が書けて、私の指示に黙って従える者を十名ほど集めてください。ああ、それから大量の埃除けの布も」
私の矢継ぎ早の要求に、ヴォルク様はあからさまに眉根を寄せた。その目には「王都から来たお嬢様の気まぐれに付き合っている暇はない」と書いてある。
「ロートシルト様。当家には、お嬢様のお遊びにお付き合いする余裕など……」
「お遊び、ですって?」
私は初めて、彼の目を真っ直ぐに見据えた。
「ではヴォルク様、先々々期の小麦の備蓄量と現在の在庫の差額、そしてその損耗率を即答いただけますか? もちろん、差額の理由も明確に。それがご当主の執事として当然の責務でしょう?」
「そ、それは…」
言葉に詰まる彼を一瞥し、私は作業に戻る。背後で、今まで沈黙していたギデオン様が低く、しかし有無を言わせぬ声で言った。
「ヴォルク。彼女の指示に従え。これは、陛下の御命令だ」
その一言で、執務室の空気は完全に私の支配下に入った。
集められた者たちは、皆、戸惑いながらも私の指示通りに紙の山を分類し始めた。「収入」「支出」「軍事費」「内政費」「その他・判読不能」。私の声だけが、静かな室内に響き渡る。
ギデオン様は部屋の隅の椅子に腰掛け、腕を組んだまま、そのオーガナイズド・カオス(整理された混沌)を黙って眺めていた。彼は戦場の指揮官だ。きっと、目の前で起きていることが、形は違えど一種の戦闘なのだと理解しているのだろう。無秩序な敵(情報)を整理し、分類し、弱点を探る。私のやっていることは、まさにそれだった。
数時間が経過し、夜の帳が下りる頃。
分類作業を終えた者たちを下がらせ、静まり返った執務室で、私は一枚の羊皮紙に走り書きをしていた。そこに、ついに最初の『敵』の姿が浮かび上がる。
「……ひどいものですわ」
私の呟きに、ギデオン様が顔を上げた。
「オリオン商会、という名にご記憶は?」
「……ああ。先代から付き合いのある、王都の大きな商会だ。それがどうした」
「この商会との取引記録が、支出の七割を占めています。そしてその契約内容が、どれも常軌を逸している」
私は一枚の契約書を彼の前に差し出した。
「例えばこれ。鉄鉱石の取引契約ですが、市場価格の三分の一で買い叩かれています。その代わり、彼らから仕入れる武具や生活物資は、市場価格の二倍以上の値段です。さらに、支払い遅延の利子は年利五十パーセント……これはもはや、商取引ではなく略奪ですわ」
ギデオン様の青い瞳に、冷たい怒りの光が宿る。ギリ、と奥歯を噛み締める音が聞こえた。
「……奴らか」
「はい。この領地は慢性的な赤字なのではなく、意図的に富を吸い上げられているのです。これは財政難ではございません。経済的な『出血』ですわ」
彼は立ち上がり、壁の地図の前に立つ。その広い背中からは、煮え滾るような怒気が立ち上っていた。戦士である彼にとって、このような目に見えぬ形での侵略は、何より許しがたい屈辱なのだろう。
やがて彼は振り返り、私に尋ねた。これまで誰にも見せたことのない、己の弱さを認める目で。
「……どうすればいい」
その問いを、私は待っていた。
偉大な英雄が、私に助けを求めている。私の「算盤」を、彼の剣として使おうとしている。
私はすっと立ち上がり、彼の隣に並んだ。その瞳は、きっと今、帳簿を前にした時と同じくらい爛々と輝いているに違いない。
「戦の基本は、まず兵站を確保すること。こちらの足元を固めます」
私は自信に満ちた声で言った。
「明朝、最初に領内の全支出を凍結し、厳格な予算制度を導入します。兵士の方々には申し訳ありませんが、無駄な酒代は削らせていただきますわ。そして……オリオン商会には、こちらから『交渉』の席を設けます」
「交渉」という言葉を口にした私の笑みが、どれほど冷たく、そして楽しげに見えただろうか。
ギデオン様は驚いたように目を見開き、やがてその口元に、狼のような獰猛な笑みを浮かべた。
「……面白い。その戦、君に全権を委ねる」
王都を追われた算盤令嬢の、最初の戦いの火蓋が切って落とされた瞬間だった。