第二話:北の狼と古代遺跡
王都の北門を馬車が通過する際、見送りに来てくれたのは父一人だった。
社交界は私の婚約破棄の噂で持ちきりだったが、国王陛下直々の命令とあっては、誰も表立って私を嘲笑うことはできない。代わりに彼らは、哀れな辺境伯に嫁がされる地味な令嬢、という筋書きでこの一件を消費しているのだろう。
「セラフィーナ、体にだけは気をつけるんだぞ」
「はい、お父様。ご心配なく。これは私の最初の『事業』ですもの。必ず成功させてみせますわ」
父の心配そうな顔に、私は努めて明るく微笑んだ。父は私の能力を誰よりも信じてくれている。その信頼が、今は何よりの支えだった。
王都を出てからの道のりは、国の姿が徐々に変わっていく様を私に教えてくれた。豊かな穀倉地帯が広がる王都近郊を過ぎ、鬱蒼とした森を抜け、岩肌の目立つ山道を登るにつれて、空気は冷たさを増していく。道端の草花は数を減らし、代わりに厳しい環境に耐える針葉樹の森が車窓を流れていった。
私はそれをただの景色としてではなく、資源として眺めていた。あの森の木材はどれほどの価値があるだろう。この岩山からは、何が採掘できるのか。水の流れはどうか、街道の整備状況は。頭の中の算盤が、目に入るものすべてを価値とコストに変換していく。
五日後、馬車はようやくアドラーハイムの領都に到着した。
石造りの質実剛健な家々。飾り気はないが、広く掃き清められた道。道行く人々は屈強な体つきで、王都の華やかな貴族たちとはまるで違う、厳しい自然と共に生きる者の目をしていた。彼らは私の乗る王家の紋章が入った馬車に、訝しげな、あるいは無関心な視線を向けるだけだった。
辺境伯の居城は、城というよりは要塞だった。贅沢な装飾は一切なく、ただ堅牢であることだけを目的として建てられた灰色の城壁が、冬の空に聳え立っている。
「セラフィーナ・フォン・ロートシルト様、長旅ご苦労様です。当主がお待ちです」
出迎えてくれたのは、ヴォルクと名乗る壮年の執事だった。彼もまた、主人に似てか、感情の読めない硬い表情をしている。通されたのは、謁見の間ではなく、無骨な執務室だった。壁には巨大な領地の地図と、数本の剣や戦斧が掛けられている。甘いお茶菓子も、美しい花もない。ただ、鉄と革と古い羊皮紙の匂いがした。
やがて、重い扉が開き、一人の男が入ってくる。
息を呑むほどの威圧感だった。噂に違わぬ長身と、鍛え上げられた分厚い体躯。陽光を弾く銀の髪に、顔を走る一筋の古い傷跡。そして、すべてを見透かすような、氷の如き青い瞳。
彼こそが「北の狼」、ギデオン・アドラー辺境伯。
彼は私の姿を頭のてっぺんからつま先まで無言で眺めると、低い声で言った。
「君が、セラフィーナ・フォン・ロートシルトか」
「はい。契約に基づき参上いたしました、辺境伯様」
私は眼鏡の位置をくいと直し、彼の射貫くような視線を真っ直ぐに見返した。怯んではいけない。私たちはあくまで、ビジネスの契約者同士なのだから。
「……そうか。長旅で疲れているだろうが、早速仕事を始めてもらえるか」
「望むところですわ。まずは現状を把握するため、領地の帳簿を拝見しとうございます」
私の言葉に、ギデオンは僅かに眉をひそめた。そして、無言で部屋の隅を指し示す。
その先を見て、私は絶句した。
そこにあったのは、革で装丁された整然たる帳簿などではなかった。
部屋の隅に山と積まれた、幾つもの木箱。その中には、丸められた羊皮紙、板きれ、果ては酒場の勘定書きと思しき紙片までが、無秩序にごっそりと詰め込まれている。まるで巨大な鳥の巣か、ゴミの山だ。
茫然とする私に、ギデオンは悪びれるでもなく、むしろそれが当然であるかのように言った。
「これが、我が領地の『帳簿』だ」
その声には、微塵の冗談も含まれていなかった。
私はゆっくりと歩み寄り、一番上にあった木箱から一枚の羊皮紙をつまみ上げる。それは、三年前のワインの仕入れに関する請求書だった。支払い済みかどうかの記載すらない。次に手に取った木簡には、鉱石の取引について走り書きがされているが、取引量も金額も記されていなかった。
これは……ひどい。ひどすぎる。
赤字というレベルではない。これは財政ではない。ただの記憶のゴミ溜めだ。
だが、その瞬間。私の心を満たしたのは絶望ではなかった。
会計士としての本能が、この混沌の極みを前に歓喜の声を上げていたのだ。
(なんてこと! なんてそそられる惨状なのかしら!)
目の前の難解なパズルに、私の血が沸き立つ。私は振り返り、いまだ石像のように佇むギデオンに向かって、淑女の笑みとは程遠い、挑戦的な笑みを浮かべてみせた。
「承知いたしました。まずは、この『古代遺跡の発掘作業』から始めさせていただきますわ」
私の言葉に、北の狼の氷の瞳が、ほんの少しだけ揺らいだように見えた。