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第一話:算盤令嬢と契約の話

「セラフィーナ・フォン・ロートシルトよ、この僕との婚約を破棄させてもらう」


 王都でも一番と名高いホテルのティールーム。その柔らかな陽光が差し込む席で、私の婚約者である侯爵子息、オズワルド様は、完璧に磨き上げられた爪を眺めながらそう言った。


 銀のティースプーンがカチャリと音を立てる。私はゆっくりとそれをソーサーに戻し、背筋を伸ばして目の前の男性を見つめた。完璧なまでに仕立てられた流行のフロックコート、甘い香水を漂わせる優雅な仕草。その全てが、今の私にはひどく滑稽に見えた。


「理由をお聞かせ願えますか、オズワルド様」

「理由? ……君は聡明だから分かるだろう。僕の隣に立つ女性は、もっと華やかで、詩的で、愛らしい存在であるべきだ。率直に言おう。君はまるで、歩く算盤だよ」


 歩く、算盤。


 その言葉に、私の心で何かが冷たく凍りついた。怒りでも悲しみでもない。強いて言うなら、それは呆れと、そしてほんの少しの憐憫だった。


「……なるほど。ご自身の浪費癖を諫める私を、計算高いとおっしゃりたいのですね」

「なっ……! 言葉を飾らないところもそうだ! だいたい君は、夜会のドレスを選ぶ時でさえ『費用対効果』などと言う。愛の言葉を囁いても、頭の中では僕の資産を査定しているのだろう? もううんざりなんだ」


 オズワルド様の家門であるランシング侯爵家が、ここ数年、派手な社交と放蕩のせいで財政難に陥っていることは公然の秘密だ。我がロートシルト家……財務大臣である父を持つ家との縁談は、彼らにとって起死回生の一手だったはず。それを自ら手放すとは、よほど感情が理性を上回ったらしい。


 私は静かに頷いた。


「ええ、承知いたしました。婚約は白紙としましょう。……ところで、先月の宝飾品へのご支出、少々過大ではございませんでしたか? 侯爵家の年間予算から見て、あの指輪は明らかに投資ではなく浪費に分類されますが」

「き、君にはもう関係ないだろう!」


 狼狽する元婚約者に一瞥をくれると、私は静かに席を立った。


 悲しくは、なかった。ただ、私の価値を「数字」という一点でしか見ず、それを「女らしくない」と断罪したこの社会に、改めて深い徒労感を覚えただけだ。


 ◇◇◇


 自室に戻り一人になると、溜息がこぼれた。


 歩く算盤、か。言い得て妙かもしれない。私が愛しているのは、均衡の取れた帳簿であり、無駄なく流れる資産であり、完璧に計算された計画だ。そこに嘘はなく、感情の揺らぎもない。数字は決して裏切らない。


 今回の婚約破棄は、私にとって一つの事業契約の失敗に過ぎない。問題は、このスキャンダルによって、私の今後の「就職先」……つまり、新たな縁談が極端に制限されることだ。実務能力に長けた令嬢を妻に欲しがる貴族はいても、侯爵家に婚約を破棄された「傷物」をわざわざ選ぶ者は少ないだろう。


 いっそ、どこかの商会にでも経理として雇ってもらえないだろうか。そんな非現実的なことを考えていた矢先、父が慌てた様子で部屋に飛び込んできた。


「セラフィーナ! 大変だ、陛下がお前を呼んでおられる!」

「……私が、ですか?」


 伯爵令嬢の婚約破棄など、王家が関わるような話ではない。訝しみながらも父と共に登城し、緊張した面持ちで玉座の間に通されると、国王陛下は意外にも穏やかな表情で私を見つめていた。


「ロートシルト嬢、息災か。……単刀直入に言おう。君に、新たな縁談を命じる」


 父が息を呑むのが分かった。陛下は私の返事を待たず、話を続ける。


「相手は辺境伯、ギデオン・アドラー。北の国境を守る我が国の英雄だ」


 ギデオン・アドラー。「北の狼」「鉄仮面」。数々の異名を持つ、武勇の誉れ高い人物。魔物が跋扈する極寒の地で、王国の盾としてその名を轟かせている。しかし同時に、彼の治めるアドラーハイム領が、先代からの莫大な負債により破綻寸前であることも知っていた。


「陛下、それは……」

「うむ。アドラー卿は偉大な戦士だが……数字に疎くてな。財務大臣、お前の娘の能力は聞き及んでいる。彼女ならば、あの領地を立て直せると信じている」


 国王は初めて、私に真っ直ぐな視線を向けた。それは、オズワルド様が私に向けた侮蔑の眼差しとは全く違う、私の能力そのものに期待を寄せる目だった。


「これは、一年間の契約結婚だ」


 陛下の言葉に、私は目を見開いた。


「一年。その間に、君の力でアドラーハイム領の財政を再建してもらいたい。見事成し遂げた暁には、契約を解消し、君には十分な報奨金と、女男爵としての独立した地位を与えよう。もちろん、もし君たちが望むなら、本当の夫婦となっても構わん」


 破綻寸前の領地。莫大な負債。非効率な経営。


 その単語の一つ一つが、私の心を躍らせた。なんてやり甲斐のある仕事だろう。これ以上の挑戦はない。オズワルド様が見捨てた「歩く算盤」としての私の価値を、国で最も偉大なこの方が認めてくれている。


 胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。それは喜びであり、武者震いであり、そして、最高の仕事に巡り会えた興奮だった。


 私は父が何か言うよりも先に、深く、淑女の礼をとった。


「謹んで、お受けいたします。陛下」


 私の即答に、国王は満足そうに頷いた。


 こうして、私の新たな契約が成立した。行き先は極寒の辺境。相手は、冷酷無比と噂される武人。


 だが、私の胸には一点の不安もなかった。


 そこには、私が愛してやまない「数字」という名の、巨大なパズルが待っているのだから。

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すげぇな。建て直したら女男爵の可能性アリとか、時代が中世なのか近世なのかは分からんが、相当に頭の柔らかい王様だな
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