31✴︎危篤の恐怖
マイケルとしてアンジェラと過ごした日々は、僕にとっては全部愛おしい日々となった。
ただ、アンジェラはもう、ほとんど意識がない。
会話もできない。
苦しまずに逝くといわれている、五感喪失病。
「苦しまずに、だって?」
人間としての感覚を失う恐怖を味わうのに、君が苦しまないわけないのに。
僕は自分の無力さを嘲笑う。
時々彼女が呼吸しているのかすら分からなくて、何度も部屋に様子を見に行った。
生きてるのを確認し、安堵する毎日。何度もアンジェラの額にキスをし、甘い言葉を囁いた。
いっそマイケルに恋してよ、なんて馬鹿なことを考えながら。
しまいにはアンジェラの部屋に居着いた。
部屋の片隅に布団を敷き、夜はアンジェラの部屋で眠りについた。
いつ何が起きてもいいように……
彼女が寝たのを確認し、手のひらに文字を書いた。
『アンジェラ。僕の誕生日は3月7日だよ。
春生まれなんだ。……君が最も好きな季節だよね。』
相変わらず、ガスパルに貰った変な通信具は鳴らない。
だけどガスパルは確かにアンジェラを思ってくれている。
本当にいい魔法使いだ。今だってきっと必死に。
そう言えばトリスタンに言われていた。
「知ってるだろうけど。アンジェラに会うようにしておいてくれよ。
セッティングに合わせてな。」
ガタガタと、窓が鳴く。今夜は月も星もない。
雪混じりに、霰が降っていた。
最近アンジェラの調子が悪いと言うので、今夜はトリスタンもこの家に泊まっていた。
珍しく僕がウトウトしていて、ベッドで眠っているアンジェラを見ると。
顔が真っ青だった。焦って、思わずアンジェラの手を握りしめる。
末期になると、触覚の消失と死が、同時にくるケースもあると。
「…アンジェラ…?」
彼女の手が冷たい。
彼女の死が近づいている。
死神が近くまで来ていて、アンジェラの魂を連れて行こうとしているんだ。
慌てて僕はアンジェラを揺さぶる。声に驚いたトリスタンが部屋に入ってくる。
「アンジェラ…!アンジェラ!!」
「どうした!ミッシェル!?」
「アンジェラの脈が弱い…それに顔も真っ青だ。」
「本当だ…!医者を呼ぶか!?」
「医者にできることはもうない…!」
途端に体験したこともない恐怖で体が震えはじめた。
愛する人を失う恐怖。
アンジェラを、今日ここで失うのか!?
嫌だ————!!
それならこれまで、一体何のために?
「アンジェラ、駄目だよ、目を覚まして!!
僕を置いていかないで…!!
怖いから会わないなんて言ってごめん…
ちゃんとミッシェルとして君に会うから、ちゃんと向き合うから……お願いだ . . . .!
アンジェラ…!アンジェラ……!!」
「ミッシェル、とにかく落ち着けって」
トリスタンが僕の体を引き留めるけど、何を言っているのか分からない。
ベッドに横たわるアンジェラの呼吸が弱まり、脈が小さくなり、顔色が青ざめていく…。
「駄目だ、アンジェラ……僕達、結婚するんだろう?」
君が「ミッシェルに会いたい」と言うのなら、意地張ってないで、いくらでも会うよ。
いくらでも僕を責めたらいいし、嘘つき呼ばわりしてくれて全然構わない。
もし君さえ嫌じゃなければ、すぐに結婚式を挙げたっていい。
だからお願い。アンジェラ。僕の手の届かない場所に行かないで。
アンジェラ。この先、もしも君がいないなら、僕は——————
ジリジリジリジリ…とまるで電話のような音が鳴った。
涙で乾いた喉が音を立てる。トリスタンも動きを止める。二人で変な形をした通信具に注目した。
「「まさか……ガスパル……?」」
僕とトリスタンの切迫した声が重なった。
嵐の中、玄関の扉からようやく現れたガスパルは、ゼエゼエとひどく息を切らしていた。
霰に当てられて、ローブがずぶ濡れだった。
「すまん、めっちゃ遅くなっ………て、……アンジェラ?」
ガスパルもアンジェラの異常に気づいたようで、顔から血の気が引いていった。
「————遅いですよ!ガスパルさん。それで、『許可』は降りたのですか?」
「くそ!アンジェラ……!いや、今はそれより……ああ…!!マイケル、いや、ミッシェル。
本当の本当に覚悟はいいか?」
ローブを脱ぎながら、ガスパルが緊迫した様子で尋ねてくる。彼もアンジェラの危篤に、動揺を隠せないようだ。
「もちろんです。むしろ早くしましょう。
アンジェラが危ない。」
「もう一度聞くが、後悔はーーー」
「ありません。」
「ちょっと待て…ミッシェル!!やっぱり…!
アンジェラには悪いが、考え直して……」
泣きそうな声でトリスタンが僕を引き留めるが、答えはもう決まっている。
「時間がないんだ。トリスタン。
アンジェラを見ていてくれないか。頼む。」
「————!!」
まだ引き止めたそうな顔をするトリスタンを振り切り、僕はガスパルのいう手順に従った。
「いいか?マイケル。
魔法を使用するための「儀式」の間は、いかなる場合も動いてはいけないし、叫んでもいけない。
最後に一言、「はい」とだけ言えばいい。
魔法というものは決して、おとぎ話であるような人畜無害なもの、というわけではないんだ。
魔と呼ばれる我々の神の正体を知れば、お前達人間は、震え上がるだろう。
だが、逃げるな、ミッシェル。
例え恐ろしい感覚に襲われて逃げ出したくなっても、それをしたら全てが水の泡になる。
それが、アンジェラに対するお前の…覚悟なら、怖くてもやり遂げるんだ。」
「分かってます。儀式を始めてください。」
ガスパルの声の消失と共に、僕は何もない灰色の世界に立っていた。
ここは?これが……………魔法?
いや………あれは、この世のものではない、大きな……巨大な「何か」が目の前にいた。
その「何か」の前で、僕は蟻のように小さかった。
急に背筋が凍りつき、喉に緊張が張り付いた。
奇妙な圧迫感に押しつぶされそうになる。
その「何」かは、血のような色をした両目で、僕に問いかけた。
【汝、我が……契約を…………】
まるで頭の上からつま先まで錘を乗せられているような感覚に陥る。
冷や汗が溢れ、勝手に足が震え出した。
そうか、これをこの世界では「魔神」というのか。
僕が望んだのはかなり大きな対価《﹅﹅》を伴う。
だからこうやって、直接契約者と「取引き」をするんだな。
逃げ出したくなる、と言っていたガスパルの言葉の意味が分かったよ……




