11.初めてのケンカ
あれから、しばらく穏やかな時間が流れた。
マイケルは相変わらず、甲斐甲斐しく私の世話を焼いてくれた。
全てが暗闇に覆われた私に話しかけ、手を取り、食卓に誘導してくれた。
美味しい料理を一つ一つ切り分けたりして、スプーンなどを使って私の口に運んでくれた。
問題はお風呂やトイレだったが、マイケルは全て問題なく介助してくれた。
どちらに関してもマイケルは目隠しをして作業をしている、と言っていた。
こういう時は、なぜ女性の契約者を選ばなかったのかと少し後悔した。
もちろん彼が嘘をつき、邪な考えを持っているとは思ってない。
むしろマイケルがいなければ、私はどんな惨めな生活を送っていただろう。
こんな貧相な体を見せたり、下の世話までさせてしまう、マイケルがあまりに気の毒だった。
窓辺まで車椅子を押してくれて、今日の天気を教えてくれた。
空の色、風の様子、どんな音がしているか。
今壁の外側をラポルト夫妻が手を振りながら通り過ぎたよ、とか。
天気の良い日は、車椅子を押して外を散歩してくれた。枯れ木の様子、道端の雑草、散歩する犬と飼い主の様子、ジャノさんの喫茶店は今日も行列ができているよと。
近々公演があるらしく、ヨランドさんの顔写真が小劇場の壁に張り出されていると。
そう言えば、今度一緒に写真を撮ろうと。
聞き取り辛い私の耳元で、いつもマイケルは穏やかに、聞こえるよう丁寧に囁いてくれた。
「そう言えば、マイケルの誕生日はいつなの?」
ふとそう尋ねたら、彼は誤魔化すように笑っただけだった。
もう私が一緒に祝えない事を知っていたから、気を遣ってくれたんだろうか。
————目が見えなくなり、近頃はマイケルの声も不明瞭になってきた。
いくら最後まで笑って過ごそうとしても、病魔は私から容赦なく、人間らしい感覚を奪っていった。
「アンジェラ。今日はふわふわとした、マシュマロのような雪が降っているよ。
暖かくして、散歩に出てみない?」
「何か言った?マイケル。」
「…ううん、何でもないよ、アンジェラ。」
いよいよ死期が近いのかも知れない。
右耳はもう駄目だったが、左耳の聴力までもが失われていくのを、嫌でも感じ始めていた。
五感喪失病は、五感の全てを失っていき、人間としての感覚を失って死を迎える。
最終的には、ふと、灯りが消えるように心臓が止まるのだそうだ。
その代わり、痛みや苦痛といったものはあまりないと聞いている。
しかし人間としての感覚が徐々に消えていくというのは、恐ろしくて仕方ない話しだ。
一人だけ、永遠の暗闇の中に取り残されてしまうような……
このまま嗅覚、味覚、触覚まで失くしてしまったら、果たしてそれは生きていると言えるのだろうか?
生きているのに、まるで死者みたいだ。
ある時私は、車椅子に乗り損ねてつまづき、派手な音を立てて床に倒れてしまった。
「アンジェラ………!!?
大丈夫か………!!」
すぐにマイケルが駆け寄って来てくれて、私の体を起こそうと、腕を添えて支えてくれた。
だけどこんな醜態を晒し、人に迷惑をかける事しかできない今の自分が、すごく惨めに思えて。
「いいの。大丈夫よ、マイケル。自分で立つわ。」
もうほとんど、彼が何を語りかけてくれているかも分からないのに。
床についた両拳をギュッと握りしめる。
……惨めだわ。
それなのに、視覚が死んでしまった以上、もう涙を流すこともできない。
なぜ私だけがこんな風に死ぬの?
なぜ私だけが、こんな病気にならなければいけないの?
何か私が、悪いことをしたの?
私と同じ年頃の娘達は、だいたい結婚して子供を産んだりしているだろう。
私にはもう、望むことすらできないのに。
幼い頃から必死に歯を食いしばり、何とか頑張って生きてきた。
ミランダやジェシカ、血の繋がったお父様にまで邪魔者だと言われながらも。
だからこそ、幸せになりたかった。
心から愛するミッシェルと、ただ幸せになりたかったのに。
私が邪魔者だから、神様まで見放すの?
「アンジェラ………………?」
マイケルが私に触れようとするが、私はそれを静かに退けた。
「今は、放っておいて欲しい。……マイケル。
惨めな姿をこれ以上、あなたに見られたくないわ。」
惨めで、情けない。笑って最期を迎えると決めたくせに。
けれど絶望感と、果てしない無力感に襲われる。
こんな風に死ぬために、私はこの世に生まれてきたの?
生まれてきたことに、意味はあった?
「…………アンジェラが惨めだなんて、誰が言うんだよ。」
「————ごめん、マイケル。あなたが何て言っているのか、分からないわ。」
この先、マイケルが作ってくれる美味しい料理の匂いも、味も分からなくなる。
最期はマイケルの手の感触まで…
今の時点でもこれだけ辛いのに。
このまま全てを失い、心臓が止まるその瞬間まで、生きる意味などあるのだろうか?
「アンジェラ、誰が今の君を、惨めだなんて言える奴がいると思う………!?」
グイッと力強く腕を引かれ、同時に私の体がふわっと持ち上がった。
彼が私を丸ごと抱きかかえ、車椅子にそっと座らせたのがわかる。
聞こえた声は思いのほか大きくて、何て言われたのか少しだけ分かった。
怒ってる————?あのマイケルが。
「マイケル………?」
「アンジェラ——————君は決して、惨めなんかじゃない………!
僕は君を惨めだなんて思った事は一度もない!
頼むから、そんな風に、悲しい事を言わないで。」
「マイケ……ル?」




