1.さようなら、ミッシェル
「お嬢様は五感喪失病を患っておられます。
余命は長くて半年。
最初に視力を失い、次に耳が聞こえなくなります。
やがて五感のすべてが消え、死に至るでしょう。」
もうすぐで幸せになるはずだった。
それなのに、医者から突然告げられたのは、不治の病と余命宣告。
絶望して失意の底にいた私を、さらなる悪夢が襲った。
声に導かれるように、私は応接室のわずかに開いたドアに近づいてしまった。
そこで目にしたのは、信じがたい光景——。
「お姉様はもう長く生きられません!
だから、彼女との結婚を諦めて、どうか私と結婚してください、ミッシェル様……!」
「ジェシカ………………………っ!」
部屋の片隅で、私の異母妹であるジェシカと、もうすぐ私と結婚するはずだったミッシェルが、互いの背に手を回して熱く抱き合っていたのだ。
「そんな…っ、二人が、どうして…………」
ショックのあまり、思わず声が漏れてしまう。
「アンジェラ………………!?」
背後からミッシェルの叫び声が響いたが、動揺した私はその場から逃げ出していた。
「———はあ、はあ、はあっ!」
異国の刺繍が施された絨毯の廊下を、まるで闇を切り裂くように駆け抜けた。
見慣れたはずの子爵家の屋敷。
だが、この20年間、私には他人の家のようだった。
何度も磨くようにと命令された長い廊下。
使用人たちに水を浴びせられた螺旋階段。
冷酷な継母とジェシカの嘲笑う顔。
亡くなった母の肖像画が外されるのを、涙ながらに見つめていた玄関ホール。
空腹に耐えきれずにつまみ食いし、料理長に叩かれた調理場。
一人だけパーティーに参加することを許されなかった、メインホール。
寒さに震えた、埃まみれの小さな部屋。
誰にも祝われなかった誕生日。
涙で滲んだ数えきれない日々。
この屋敷は私にとって、辛い記憶だけが刻まれた場所だった。
そんな苦い思い出しかない家で、さっきミッシェルとジェシカが、確かに抱き合っていた。
あんなに親密そうに。二人がそんなに親しいなんて知らなかった。
干し草と錆びた銀のバケツ、飼い馬用の蹄などが置いてある納屋に飛び込んだ私は、独特の匂いがする空間で、乱れた呼吸をなんとか整えようとした。
この場所は、辛いことがあった時の私の逃げ場所の一つだった。
あのあと、暫く私を追ってきていたミッシェルの声が完全に聞こえなくなった。
こんな薄汚れた納屋に、まさか婚約者の私がいるなんて思いもしてないだろう。
きっと諦めて帰ったはずだ。
ようやく呼吸が落ち着いたところで、さっきの情景がフラッシュバックする。
“アンジェラはもう長く生きられません。
どうか私と……… ”
確かにジェシカの言う通りだった。
不治の病である五感喪失病。
この病は10万人に一人の割合で発症すると言われていて、いまだに有効な治療法がないという。
罹患すれば徐々に視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を失っていき、最後は必ず死に至るという。
そう。だからどんなに足掻こうが、私は近いうちに死んでしまうのだ。
それなら確かにミッシェルは、ジェシカと結婚するべきなのかも知れない。
そもそもあのミッシェルが、私を妻にしたいと言ってくれた事自体が奇跡のようなものだったのだから。
ただ、今は二人が抱き合っていた光景が頭から離れない。
そのせいで悲しみを止められないし、涙が雨のように溢れる。自制など効かなかった。
「うっ………ひくっ………ミッシェル……」
どうしようもなく落胆して、ずるずるとその場に崩れ落ちる。
こうなってみれば、結婚式をまだ挙げてなくて良かった。
そうでなければ、結婚してすぐにミッシェルを孤独にしてしまうところだったから。
だって私はもう、ミッシェルに何もしてあげられない。
それにジェシカもミッシェルを好きだったようだし、さっきの様子を見る限り、実は彼もまんざらではなかったのだろう。
それなら私はもう、誰にとっても必要なくなる。
ずっと家族から邪魔だと言われ、消えろと言われて生きてきた。
そんな私の幸せは、ミッシェルの花嫁になる事だった。
だけどもうそれが叶わないなら……
だったらもう消えたい。この子爵家から。
ミッシェルの前から。
あんなに強く抱擁し合うほど、ミッシェルとジェシカが互いを必要としているなら。
二人の幸せを邪魔しないように。
誰にも迷惑をかける事なく、誰もいない場所でひっそりと最期を迎えよう。
……さようなら。ミッシェル。
本当に愛していました。
どうか、異母妹と。ジェシカとお幸せに。