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帰りの馬車は、なんとなく空気が重たく感じた。
それはファルテのせいではない。
変わったのは、私だ。
「すこしお疲れになりましたか?」
深みのあるチョコレートを溶かしたような声に、ぱっと顔をあげる。
向かいに腰かけたファルテは、来た時と同じく私を心配そうに見つめている。
「意識させてもいけないかと思い黙っていましたが、妹は馬車の揺れを嫌いました。あなたにその気はなくとも、その体が拒否しているのかもしれません」
私を覗き込むようにかすかに首をひねる彼の前髪が、さらりと流れた。よく見えるエメラルドグリーンの瞳は澄んでいて、後ろ暗さとは無縁に見える。
それでも、帰り際に流し込まれた言葉がべったりと耳に張り付いている。
「ファルテはおまえの味方じゃない」
気まぐれなリックの冗談、と思いたいが、彼は冗談なんて言うものだろうか。受けとる側は冗談みたいに思えても、彼の言葉には全部、子どもがもつような本気があった。
だからあの発言にも、彼なりの真意があるのだろう。
だって、私の知らないことは、まだまだ山のようにあるのだ。リックに見えているもの、ファルテが思っていること、アンの置かれた状況。そして、私が、どうしてここにいて、いったいなにが出来るのか。
それでも行きの馬車の中で悶々としていたよりも、気は晴れている。
アンに会う。もとの体に戻る。目標ができた分、見上げるような未知の山でも、少しずつ登ってみようと思える。足を動かせば、行き着く先がきっとある。
それは、まぎれもない希望だ。ファルテが繋いで、リックがくれた。
だから私はファルテもリックも、信じている。
私は清々と深呼吸して、まずは目の前で気遣ってくれるファルテに微笑みかけた。
「魔術で視界が歪んだ時のことを思い出してました。物語でもよく出てきていたけれど、瞬間は印象深いのに、今思い出そうとするとうまくいかなくて」
ファルテは心当たりあるように深く頷く。
「目眩のような眠るような、特殊な感覚ですからね」
「リックさんも、確かに驚くこともあったけれど、いろんなことを教えてくれて、いい人でした」
「友人を褒めていただけて光栄です。奴にも伝えたいですね……無沙汰を怒られたことだし、手紙を書いてみようかな」
「良ければ、私にも書かせてください。あ、でも、こういうことは直接伝えられるならそのほうが嬉しいか。リックさんにまた会ってもいいですか?」
確かにファルテも近いうちにと言っていたし、もしもそれについていけたら。
そんな軽い気持ちの提案だったのに、返事はすぐにこなかった。どうしたのかと目を開いて彼を見ると、ファルテはすとんと表情を落としている。常に私を安心させようと気を配ってくれていた彼が見せる素の顔に、私を戸惑った。
「ファルテさん?」
おそるおそる呼ぶと、ファルテはすぐにはっとして、また柔らかな雰囲気を取り戻す。
けれど、言葉はどことなくぎこちない。
「私では、なんとも。あれも気分屋です。あの井戸で呼べば必ず答えてくれるわけでもありませんので」
「……そうなんですね」
真偽のほどはつかみかねた。
しかし、ずっと優しいあった人が突然に見せたよそよそしさに、踏み込んでいいものかはかりかねる。
ファルテはおまえの味方じゃない。
その言葉、今思い出すな、私。
なんとなくリックには触れづらくなって、私はファルテがふってくれる話題に当たり障りなく答えていく。ファルテの言う福音になるかはわからなかったけれど、私の学校の話なんかもした。
手のひらを膝の上で重ねる。そうやって、そこに隠した小さな鈴が鳴らないように、ぎゅっと押さえつけていた。
※
幌からおりた私たちに、慌てた様子の侍女が駆け寄ってきた。正確には、ファルテになにかを手渡す。手紙のようだ。
それにさっと目を通した彼は、申し訳なさそうに私を見た。
「父からの返信です。すぐに城へ戻れと」
「あの、たとえばそれって私は」
ファルテは悲しげに首を横にふる。
「あなたが妹の姿である以上、連れてはいけません。彼女が出仕するなんてことはあり得ませんから、目立ちます」
「そうですよね」
消沈する私に、彼は急いでいるだろうに優しく微笑んだ。
「昼食と、その後には屋敷の史書室に案内するように伝えておきましょう。アンが生まれた頃を書き記した記録や、パトリックの伝記などが置いてありますよ」
はからずもそれらは私の興味をそそった。
元気を取り戻す私にファルテは微笑みを残し、今度は公爵家の紋章がわかる馬車に乗り換えて、出立していった。
美味しい昼食をいただいてすぐ、侍女が私のもとへやって来た。
「ファルテ様より史書室の鍵を預かっております。こちらへ」
その背を追いかける。
「うわー、すごい」
史書室なんていうから学校の資料室みたいなかび臭さを想像していたのに、そこは図書館のように明るく整備されていた。紙とインクのにおいが心地よくもある。
本棚がずらりと並ぶなか、きちんとテーブルと椅子も室内に設置されていた。
「丁寧にお掃除されてるんですね。本棚の一段一段にたまるホコリをはらうのってきっと大変だろうに」
案内してくれた侍女は、戸惑うように顔をひきつらせながらも、メイドたちはそれが仕事ですから、と返事をしてくれた。
棚は年代ごとにきちんと整理整頓され、パトリックに関する本などは一つの棚いっぱいにあった。悩みながら、読みやすそうなものを選ぶ。
アンの記録は手前のほうにあった。他の人に比べればまだこじんまりとしている。
そして私は、探りをいれるようで悪い気もきたけれどファルテの記録がないかを見回す。
「……あれ」
棚をぐるぐる、ぐるぐる何度も回った。
それなのに、その名が見つからない。
「あの」
振り返ると、侍女は扉のところでじっと待ってくれていた。
「すみません、ファルテさ……お兄様の記録はどこかに貸し出してるのでしょうか」
侍女はぴくりと眉を跳ねさせ、目を瞑る。
「こちらにはございません」
「そんな、一冊も?」
妹のアンのものはあるのに、跡取り息子の記録がないなんて。
けれど侍女は貝のように口を閉じている。その姿は、私がアンのお母様のことを聞いた時の雰囲気に似ていた。
「……変なことを聞いてすみません。それじゃあ、この家の歴史全体をまとめものはどこかにありますか」
「お持ちいたします」
彼女は迷いのない足取りで、奥の棚から分厚い本を抱えてきた。
私がそこに座るよう促すように、テーブルの上に置き、椅子を引いてくれる。
「ありがとうございます。……もしよければ、他のお仕事をなさっていてくださいね。大丈夫。ここの窓には手が届きそうにないですから」
場をなごませる冗談のつもりで言ったつもりが、ぎろりと睨み付けられた。
「すみません。反省してないわけではないんです……」
肩を落として席に着く。人に見られながらの読書って、緊張するな。
それが伝わったのか、侍女はため息をつきながら、エプロンドレスのポケットからハンドベルのようなものを取り出して、テーブルの端にたてた。
「ご厚意は謹んで。近くには人がいるようにいたしますので、ご用あればこちらを。……私どもも、あなたがたになにかがあったことは承知しております」
肩を優しく叩くような言葉に、私も立ち上がる。
「ありがとうございます」
深く礼をした彼女を隠すように、静かに閉じていく扉を見送った。
私は革の表紙で閉じられたメイヤー家の記録を紐解いていく。
それはまるで歴史小説にふれるような時間だった。貴族一家の栄枯盛衰の起伏をなぞっていくと、やはり王の側近だからか、異世界人の誰それから得た知識でこれをこうして克服し、なんてことがざらに出てきたりする。
パトリックなんかはサクラフジコとの旅を自ら手記に残していて、なかなかに読みごたえがあった。好きな物語のスピンオフを読んでいるみたい。
アンは幼い頃から体が小さく、みなに心配されつつ大事にされてきたようだった。離乳食の献立なんかも残してある。ニンジンを甘く煮たのが好き。青豆はすこし苦手。
ただ、おそらくは彼女の母親が綴ったであろう筆跡がある時からぷつりと途絶え、それからの成長の記録は王家が主催するこの行事に参加した、なんて一文でそっけなく終わっていることのほうが多くなっていた。
「…………三歳くらいからか」
同情とも感傷とも成りきらないざらつきに、胸の底を擦られていく。
借りた本を一冊、一冊、棚に戻す。
ぴたりとおさまる姿を私はしばし眺めた。
「……ちょっと別のことしよう」
処理しきれない気持ちを振り落とそうと立ち上がる。
そして手は自然と、小さな鈴に伸びていた。リックからもらったそれは銀色で、緑のヒモがついている。
「使うっていうのは、鳴らせってことよね」
思いきってふってみた。
けれど、音がならない。鈴の中の玉がからから転がる感触だけがした。
「……鳴らすわけじゃないの? コツがあるとか?」
なんとなくドアノブの悲劇の再来のような気がする。振り方を変えても、鈴の音は聞こえなかった。
「リックさーん」
鈴に声をかけてみてもダメだ。
「またこのパターンか……私、ファルテがいないと話を進められないのかな」
私は一人ではなにもできないのだろうか。これでもこの世界のために召喚された異世界人のはずなのに。
「この世界に来たからには、サクラみたいに、なにか出来ることがあると思いたいな」
重たくため息をついたその時、耳元で鈴の音がした。
「え」
耳をすませる。確かにした。控えめで、大人しい音。私はふっていないのに。
おそるおそる、聞こえてくる音に合わせて、自分の鈴をふった。
共鳴しあうように。
「聞こえているのなら、名乗りなさい」
鈴の音に代わり、どこからともなく声がする。不機嫌そうなそれに、ちょっと変な感じがした。
まるで録音した自分の声を聞いてるみたいだったから。
「私の名前は坂木弥生。異世界人です」
私は深呼吸して、その名を呼んだ。
「アンさん。ずっとあなたと話してみたかった」