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こぽこぽと、湯が沸くような音がする。
誰かに肩を揺すられ、私は目を開けた。
「ああ、良かった。今のご気分は?」
覗き込んでくる優しげなエメラルドの瞳に、笑いかける。
「すごく良いです。魔術を体感できましたから」
ファルテは驚いたように瞬き、気さくに微笑んだ。
「私も、この感覚は気に入っています。非現実に迷い込むようで……わくわくしますから」
「良く言う。めったに来ないくせに」
低く鋭い声が落ちてきて、ファルテが顎を上げる。
私も同じほうを見ると、そこには天井近くまで積み重なった本に腰かけた人がいた。
おそらく、この人が目当ての魔術師なのだろう。
ローブでも着ているのかと思えば、農夫のような簡素なシャツとズボンを身につけていた。裾はブーツに突っ込んである。
からすの羽のように濡れた黒髪が一本に編まれて背中を流れ、うずたかく積まれた本の横を通りぬけ、木の床にべちゃりと伏せてある。
じっとりとファルテを睨む猫に似た目は灰色。
中性的な顔つきを険しく歪め、唇を尖らせていた。
「二枚舌のファルテ。おまえが魔術好きなんて知らなかった」
「リック。彼女の目も覚めたところで、そろそろ降りてこないか。首が痛い」
「一年七ヶ月二十七日、三時間六分五秒。なんの便りも寄越さなかった」
「そうそう、気になってたんだがその髪はどうした。一年半ではそんなに伸びないだろう」
「一年半じゃない! 一年七ヶ月二十七日、三時間六分五秒!」
目を剥くリックは癇癪じみた悲鳴を上げて、ファルテを指差した。
「頼ってきたのなら、俺の機嫌をとれ。そこに跪いて泣きながら許しを乞うんだ。魔術師なら人に対してどんなことができるのか、おまえはわかっているだろう」
鬼の形相のリックにこちらがハラハラするも、ファルテは人好きのする笑みを浮かべて、悠々と両手を広げた。
「悪かったよ、リック。寂しくさせた。仲直りと再開を祝すハグをしよう。こっちにおいで」
響き良い声音に、こちらが照れてしまう。
リックは大きく舌をうった。
そして指をならす。それまで彼が座っていた本が一瞬で消え、彼は床に立っていた。
長い三つ編みを引きずり、ブーツのかかとを木の床にごつごつと打ち付けながらファルテに近づき、その顔に視線で噛みつく。
と、がばりと体にしがみついた。
この流れでもハグするんだ。
その背をファルテはぽんぽんと撫でながら、驚く私に軽く目配せをした。
こういう奴なんです、とばかりの表情に、二人の関係性が現れている気がして、思わず笑ってしまった。
「さあ、リック。私たちの用件なんておまえにはお見通しだろう。そろそろ頼まれてくれないか」
ベッタリと張り付くリックの肩を叩き、ファルテは優しく語りかける。
「私の妹、アン・メイヤー。今の彼女を見て、どう思う」
リックは私をちらりとも見ずに答えた。
「魂がこの世界のものじゃない。入れる場所が間違ってる。きもちわるい」
ファルテの肩でつぶれてくぐもった早口は不躾だったけれど、端的だった。
入れる場所が間違っている。体が自分の物でもない私。心に落ちる表現だ。
ファルテが声のトーンを落として尋ねた。
「戻せそうか?」
「…………見てみる」
ようやくファルテから顔を上げたリックが一瞥くれて、その瞳を細めた。
そしてのそりとファルテから離れると指を鳴らす。
とたんに、床がぼんやりと赤い光を放った。火が出たのかと思うくらいに視界が赤く染まる。
しかし目がなれてくれば、光は筋であり、縦横無尽に床に描かれて、幾何学模様になっているのに気づく。
私はわっと叫びたくなった。
ほんものの魔方陣だ。
リックが指揮者のように腕を振るうと、光が躍り、部屋の様相が一変する。
ついさっきまでの部屋は、なんというか、暗かった。暗くて、私たちの三人とそのまわりだけが浮いているような部屋。
けれど、模様替えがすんだ部屋は、明るいログハウスの一室になっていた。丸太を積んだ壁に、明るい色の木の床のうえにはトルコ絨毯みたいな賑やかな模様のラグが敷いてある。暖炉があって、小さな丸テーブルとそれを小さくしたような丸い座面に足が生えただけの椅子が三脚。
「座れ」
言われるがまま席に着いたら、鼻をすんとならしたリックがどこからか手にした盆を机に置いた。カップが三つ。
紅茶のような褐色の液体がなみなみ注がれ湯気と香りをたてている。さらにはクッキーが盛られた皿もあった。チョコチップ、プレーン、中央の窪みにジャムが嵌め込まれたものもある。
いきなりの厚遇。
それもよくあることなのか、ファルテが口を挟まないので、私も黙っていた。
リックはクッキーをつまみカップをあおり、満足したのか、灰色の目で正面にいる私を見た。
私の、中身を覗くように。
次に彼は私の前に手のひらをかざした。
私の意思とは関係なく、胸のあたりが淡く光を放つ。リックの魔方陣の発動と似ていたが、こちらは白い光だった。
その光が眩しかったのか、正面のリックが顔を大きく歪めた。
私も反射的に目をすがめてしまう。
車のライトみたいな激烈な光。
リックの人差し指がそれを指差し、彼はボソボソとなにか呟く。
光がぐにゃぐにゃと収縮し、しだいに形を得る。おそらく、魔方陣の形になろうとしているのだろう。
そんなものが私から出ていることに、なんとなく高揚した。
「黙れ」
「え」
驚く私に、リックが眉を潜める。
「違った。えーと……ファルテ」
「サカキ様。どうかピンクのウサギを想像してみてください。あんまり感情を乱すような思考をしていると、術を読み解くのに差し障るようなので」
私は小刻みに頷く。
「わかりました。ピンクのウサギ……ピンクのウサギ……」
思考をそらしている間も胸から溢れてる光はぐにゃぐにゃとのたうち回っている。
リックはそれをじっくりと検分し、やがてため息をついた。
そして本を閉じるように、かざしていた手をくるりと翻した。光のぐにゃぐにゃはなくなり、光も途絶える。
「どうでしょうか」
リックにたずねると、彼は腕を組み、ちらりとファルテをうかがった。
それはまるで子どもが親の顔色を確かめるように。
ファルテもそれを感じ取ったのだろう。眉を垂らしながらも薄く微笑む。
「この方の今の体はアンのもので、この方の本来の体のほうには、アンの魂が宿っている。あの子が仕組んだのだと、もうわかっているよ」
ファルテの言葉に、リックは悲しげに目を伏せた。そして首を横にふる。
「術がどうしてかけられたのか、誰がどうしてこの術を編み出したのか。そんなこと、俺には関係ない。魔術の鑑定結果だけ言う」
「お願いします。私は元の体に戻れますか」
「体の入れ代わりのことならすぐに正せる……戻れる」
思わず、立ち上がって前のめりになる。
「ありがとうございます!」
私の言葉にリックは肩を跳ねさせ、うろうろと視線を泳がせた。すがりつくようにファルテに手をのばす。
「こいつ、どうして俺に礼を言った?」
赤ちゃんにするように、ファルテがリックの手を優しくつまんだ。数回、揉みこんであやし、そっと放り出す。
「ずっと知りたかったことをリックが教えてくれたからさ」
リックは不可思議そうな顔で、私を見た。
私も大きく頷き返す。
「それってなにか手順が必要なのでしょうか。私、なんでもやりますよ!」
勢いにのけぞったリックは、私ではなくファルテのほうに首を固定した。
そのままファルテに話しかける。
「そっちのほうは、手順もなにもない。元の体と素肌同士で触れあえばいい」
「…………それだけ?」
なんだかもっと大それた儀式が必要なのだと思っていたから、少し拍子抜けだった。
すとんと着席した私に、リックは視線を外したまま腕を組む。
しばらくしてから、ファルテに、もういいか? と尋ね、頷き返されてからリックは話を続けた。
「実験台にされたな」
「実験台?」
「魔方陣がそんな感じだった。細かいところは後にして、とりあえず欲しい効果が得られるか確認しただけの作りだ。とっくに破綻してる。さっき、いくら待ってもなかなか魔方陣の形にならなかった」
「そういえば、あの光、あのまま魔方陣になるんだろうなって思ってたのに、ずっとぐにゃぐにゃしてましたね」
「術は破綻してるのに効果が持続しているのは、戻るためのきっかけがないから?」
ファルテの言葉に、リックは唇に指先をあて自分の言葉を確かめるようにしながら、もそもそと呟く。
「間違った場所に間違った理由で居続けるのは窮屈だ。本当だったらもっと反発して、魂がぐちゃぐちゃになってる。でもそれがないのは、かすかにでも縁が結ばれているからだと思って良い」
「私とアンさんに共通するものがあるってことですか? なんだろう。性別とか年が近いとかでもいいんでしょうか」
リックは思いっきり眉を寄せた。
相変わらず私を見ないくせに、なにいってんだこいつ、という雰囲気だけは押し付けてくる。
すかさずファルテがフォローしてくれた。
「意外と嗜好が似ているのかもしれませんよ。好きなものが一緒だと、なんだか縁を感じませんか?」
「ああ、確かに。親近感わきます」
「……なんのはなしをしてる。俺の場所で俺がわからない話をするのか、ファルテ」
「じゃあリックの話を聞くよ。まだ続きがあるのだろう。それを私に教えて、リック」
ファルテに微笑まれ、リックがむず痒そうに首を縮めた。
「魂で結んである縁を無理に絶つのは危険だ。それで戻る保証もない。間違っているものを正してやったほうが無駄に傷つかずに済む」
それはたぶん、無理矢理に引き剥がして戻すより、さっき言われた自分の本来の体に触れる方法のほうが安全だと言うのだろう。
「なんとなく理解できたような……?」
正直、スケール感をつかみ損ねて理解できなかったような……。
けれど、彼の言葉は私にとって希望そのものだった。
なんとか体は戻せるんだ。