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ファルテの話は自己紹介から始まった。
落ち着いた雰囲気をもつ彼はまだ十八歳で、それでも社交界デビューもしてる大人らしい。
父親はバトック。王の側近。今は城にいる。
母、メアリーは、残念ながらアンを産んだ後しばらくして他界。
父は再婚せず、この屋敷の女主人は空白のまま、使用人たちがうまく連携して回してくれているのだそうだ。
「アンの体に入って、もしかしたら使用人たちの態度に傷ついたかもしれないが、どうか許してやってくれ。我が妹の日頃の行い、ひいては私たち家族のせいであって、彼女らは至って誠実な人たちなんだ」
表情はいたって柔らかながら、肩をすくめるファルテからは苦労が透けて見える。
そのファルテの五つ下だというから、アンは十三歳だ。私の感覚でいう、中学生。
父は王の側近として忙しく。
兄はその補佐として城にもついていく。
母はおらず、かといってその役割を代わりに担うわけでもなく、結束は固いが自分にはよそよそしい使用人たちにぽつんと囲まれた幼げな子ども。
想像すると、黒い大海に浮かぶ小舟に揺られるようだった。
アンという見知らぬ少女の人生が船底から滲みてくる。
「この世界について使用人たちに聞いたりは?」
「してはいませんが、ランデリア王国だということはわかります」
ファルテに聞き返される前に、私も出し惜しみなく自分の知ることを話した。
昔によんだ児童文学の物語に出てくる人物が、どうやらアンやファルテの祖先である。
魔術がある世界観とはいえ、無茶な話だろうに、ファルテは落ち着いた様子で耳を傾けてくれた。
そして顎に手を添え、ポツリと呟く。
「その物語、もしかすると聖女サクラ様が御自身の世界に戻られてから編まれたのではないだろうか」
「サクラ様……?」
発音だけではそれが桜なのか別物なのかわからない。
ただ死角から飛び出してきた言葉に頭をがんと殴られる。
動揺する私をよそに、ファルテは冷静に話を続けた。
「ご存じのとおり、この国には危機に瀕した時には必ず神の導きにより異世界人へ助力を願う文化がある。あなたが言うところの召喚だ。この何十年かは幸い記録がないが、前にお越しくださった異世界人。それが、サクラフジコ様だ」
サクラ、フジコ。藤田サクラ。
ファンタジーな見た目のファルテが口にするのはむず痒いけれど、そのむず痒さの分だけ私に近い響きだった。
「我々が彼女に願ったのは、当時、大陸全土に現れた凶暴な魔物の鎮静だった。原因は瘴気の異常発生だ。魔物は瘴気から生まれ、瘴気を糧とするからな。そして彼女の祈りにはその根元たる瘴気を浄化する効果があった」
彼がよどみなく語るそれは、私の知るランデリア王国のあらすじそのもの。
「物語の主人公サクラは、護衛の仲間たちと大陸全土を旅して、各地の神殿に祈りを捧げ、瘴気を抑え込む結界を作った」
「そう。そしてこの世に平和が戻った。役目を終えた彼女には我らの神より褒美が与えられ、元の世界に帰っていった」
「ラストがまた良いですよね。作中で出会った仲間たちとの別れ……私は特に騎士のラファドの豪快でさっぱりとしてるのに、絶対二度と会えないことをわかってるやり取りが好きです」
ファルテはどこか複雑そうに笑った。
「私にとってはラファド殿は聖女と偉業を成し遂げた立派な偉人だ。年は召されたが今もご健在で、私も公爵家として御挨拶にあがった。人となりを知る分、そうした話はくすぐったいな」
そうだった。彼らはこの世界に実在する人なんだ。
「すみません。人の過去を面白おかしく茶化してるつもりはないんです」
「わかっているよ。貴族の功績が物語になり民たちに広まることはよくある。その物語を知り、あなたが彼に好意を抱いたのなら、それはそれで嬉しいものだ」
ファルテ自身も、ラファドに好感を抱いているのだろう。案外、好きな武将を褒められた感覚に近いなのかもしれない。
私はほっと息をつき、だいすきな物語の思わぬ誕生秘話に対峙してしまった衝撃に脱力する。ソファの背もたれに体を預けた。
「サクラの冒険は、本当のことだったんだ……」
めくるめくエピソードを思い返す。
あれもこれも、現実に起こったこと。
脚色はあるかもしれないけれど、途方もない世界に触れたような新鮮な驚きにみまわれた。
惜しいな。読み返したい。
行き場のない感情を悶えさせる。
「私、何度も読み返して、サクラのことを神様みたいに思ってたんです」
「神様か。そうだな、異世界からの客人は我らにとっても神の身代わりに等しい。我らを救ってくださる存在だから」
ファルテはそこでふと真剣な顔つきになった。そうしていると、柔和より理知が勝る。息をつき、私を正面から見据えた。
「サカキヤヨイ様。ここからがあなたにとっての本題です」
フルネームを呼び、協調的な砕けた口調から改まったファルテに、自然と背筋が伸びた。
「実は昨夜、異世界からの召喚が果たされました。神のお告げもなく、目立つ危機もない今にしてみれば、それこそが緊急事態です。父は私を連れてすぐさま城に向かいました」
私は、膝に置いた手を握りしめる。
嫌な予感がした。
「召喚の間の魔方陣の上にいらしたのは、私より年下であろう女性でした。見たことのない服を召され、肩までしかない黒髪をお持ちで、御自身のことはよくわからないと仰った。記憶がないのだと」
乾いた喉で、おそるおそるたずねる。
「その子、右目の下にホクロがありましたか」
ファルテはためらいなく頷いた。
「ありました」
「水色の髪止めは?」
「右側で止めていらしたかと」
「……胸に、赤いリボン」
「すこし崩れていましたが、このくらいの太さのものを、蝶々のように結んでいらっしゃいませんでしたか」
顔を手のひらでおおった私に、ファルテは言った。
「彼女は私たちからの問いかけに、なにもわからないと答えられました。自分が誰で、ここがどこか、なにもわからないと。ですが、不思議と、あなたが最初に私に見せたような混乱する様子や状況に怯える様子もなかった。落ち着いていた。そして、駆けつけた私と父を見て、わずかにだが親しみを見せてうつむいた。……それが、アンが叱られる時の仕草に似ていたのです」
頭のなかで、なにかがはち切れてどろりと淀んだ。
なんてことだろう。
異世界転生じゃなかった。
私は死んで、アンとして蘇ったと思ったのに、この世界には私の本来の見た目を持つ別人がいるらしい。
異世界召喚、成り代わり。
私がアンになったんじゃない。
アンが坂木弥生になったんだ。
目の前がちかちか点滅する。
倒れてしまわないように慎重に深呼吸をして、へらりと口を歪めた。
「なら私、帰れるの……?」
お母さんとお父さんのところに。自分の家に。朝起きて学校に行って友達と笑って帰り道に星を見上げて物語の登場人物っぽいなと浸る。そんな日常に。
だってサクラフジコはそうだったのだから。
異世界人サクラも、そうだったのだから。
けれどこの世界での私の味方という彼は、決意を固めた顔で、ゆっくりと首を横に振る。
「その方法を、今の私はあなたにお教えできません」
黒い海に小舟が沈む。
こんな世界で、私になにができるんだ。