3
アン。それが転生後の私の名前。
そしてやはりというかなんというか、あまり素行が良くない女の子だったのかもしれない。
おそらく窓から呼んでくれたメイドを伴い駆けつけてくれた侍女の顔は真っ青で、私をみるなり悲痛に歪めた顔を隠すようにしてその場に頭を下げた。
「此度も、私どもへの不満があってのことでしょう。まずはそれについて謝罪いたします。申し訳ございませんでした」
大人の本気の謝罪に呆気にとられた。
侍女もメイドも頭を下げ続けている。
私を待っているのだと気づいて、あわてて言った。
「違います。今回のことは私が悪いんです。すみません、ちょっと冒険小説の真似をしたかっただけで、考えが足りてませんでした。どうか顔を上げてください」
しまった。ここはお嬢様っぽく振る舞わなきゃいけないところだ。
でも私にはその記憶はないし、この人たちは知らない大人だし。
迷いながらも、踏み切ったからにはこのままいこう。
最悪、脱出の際に実は頭を打ってたことにしよう。
「すぐに迎えにきてくれて助かりました。朝から手間をかけてしまって……窓を割ったことも、申し訳ないです。まずはどなたに謝罪すれば良いでしょうか。お父様? お母様? それとも屋敷を管理する使用人のかた?」
ゆっくりと侍女が顔を上げる。信じられない、とその表情が物語っていた。
やっぱりそういう感じなんだな。
私は気づかない振りをして、せいいっぱい微笑んでみる。
「お父様やお母様は、ご不在でしたか」
「……旦那様は昨夜、ファルテ様と王城へ向かわれました。奥様は」
含みありげに言いよどまれた。
その様子にぴんとくる。
「……お母様とはお話できない、ですね」
侍女はほっと息をついた。
それから背筋を正して、私を見定めるかのようにじっと見つめてくる。
「お怪我は?」
「お気遣いだけありがたく。怪我はありません。あ、すこしお腹はすいてます」
「ではすぐにお召しかえをして、御食事の準備を整えましょう」
「御食事! よかった、楽しみ」
ファンタジー飯。なにが出るのかな。
わくわくしていると侍女とメイドはじっと私を見つめていた。
……もしかして、私が前を歩かないといけないやつか。
「……すみません、私より前を歩いて屋敷に入ってくれませんか。さすがにその、悪いことをした手前、堂々と入るのが恥ずかしくって」
「かしこまりました。では、前を失礼します」
歩きだす侍女に従ってついていく。メイドは私より後ろについた。
すこし空気が重いのは、怯えられているというより不気味がられているから、なのだろう。
アン。あなたってどんな人だったの。
どうしよう、断罪とか処刑とかそういう系だったら、知識なしは厳しいんじゃ。
生の実感を得たところで再びの死はきついな。
とりあえず愛想良くしてよう。
ニコニコしながら屋敷の中に入る。
別のメイドが待ち構えていて、私の汚れた履き物を代えてくれた。
ありがとう、というと、ぎょっとした顔をされる。根深いな。あとお礼を言ってこの反応されるの、地味に心にくる。
そんなことを考えながら、エントランスの階段をあがり左に曲がる。その正面の壁に、肖像画が飾ってあった。夕日のような赤髪に灰色の瞳の切れ長な目をした男の人。
どことなく既視感があった。
ありがたいことに、壁には名前のプレートがかかってる。金に茶色い字のそれを通りすがりに見て、はっとした。
パトリック・メイヤー。
文字を読めた感動と、驚きが、電流のように体を抜ける。下の数字は生まれと、没年だろうか。わからないけれど、とにかくその名前に、私は覚えがあった。
パトリック・メイヤーは公爵貴族の一人でありながら、優秀な魔術師でもある傑物だ。涼やかな面差しから受ける印象通り、常に冷静沈着。視座を高く持ち、仲間たちの進む方向とこの国の風向きが大きく反しないよう、調整する役を担っていた。
ようやく手がかりを得た。
そして、わからないはずだと苦笑する。
パトリックは作中、十七歳の少年だった。
肖像画でさえ、少なく見積もっても十年は時を経ている。ましてやもう没しているなんて。
ただ私の世界に流れる時が、この世界にも刻まれているなら、彼がなくなったころ、この体もまだ生まれていなかっただろう。
ここはランデリア物語から何十年も経った、その後の世界なんだ。
※
それは、藤田サクラが書いた全八作の児童文学シリーズの一つ。
この世界は大陸中央に位置する大国と、その輪郭をぐるりとかこういくつかの小国たちで構成されている。
舞台はほぼここ、大国ランデリア。王様がいて貴族がいて魔術師がいるこの国に、現代人の主人公サクラは「召喚」される。
そして王子や仲間たちと共に、ランデリアの安寧を乱す魔物鎮圧のために冒険するのだ。
そう、この世界、魔物がいるし魔術もある。
ただ魔術は誰でも使えるわけではなく、素質ある人がそれなりの修練を積んで使えるようになるもの。
私は自分の素質の有無すら判別できないけれど、魔術の知識がない以上、素質があっても使えたりはしないのだと思う。
アン自身はどうだったんだろう。
パトリックから遺伝とかしてるのかな。
それにしても、まさか一番だいすきな物語に転生できるとは。
高いホテルの朝洋食、といった感じの食事をしっかりと食べて空腹もまぎれた私は、じんわりと感動に浸っていた。
寝室の鍵については聞きそびれたけれど、窓ガラスの片付けや修理があるからと自室に戻ることはやんわりと止められ、今はとりあえずと客間のような部屋に落ち着いている。
公爵令嬢なら習い事とか勉強とか、いろいろやることがあって、こんなにのんびりしてていいのかと不安になってしまう。
ただ今朝に窓ガラスを割って屋敷から抜け出した少女に対しての措置であれば、とにもかくにも大人しくしててくれ、というのは妥当なのかもしれない。
寝室の時と違って外に出られないわけでもないのだから、どういう世界かわかったところで頭の整理をしたかった私にとっても好都合だ。
紙やペンはないけれど、ランデリア物語のあらすじや登場人物を思い浮かべて、記憶を呼び起こしておく。
今日から、この世界で生きていくのだから。
「それにしても、もうちょっとアンのことが知りたいんだけどな」
アンについてわかったのは、名前と、使用人によそよそしくされていることだけ。
アン自身のことやアンが記憶しているこの世界についてのことは、なんにもわからないままだ。いわば、記憶喪失状態。
日記とかないかな。
部屋、いつ戻れるんだろう。
ソファに腰かけ、高い高い天井を見上げて伸びをする。締め付けてくるコルセットが妙な感じだった。浴衣の帯より苦しい。
さっき丁寧に櫛梳られたふわふわの赤髪をいじりながら、私はこれからどうするかを考えていた。
すると、ちょうどその時、部屋の扉をノックされた。思わず立ち上がり振り向くと、許可を待たずに開いていく。
入ってきたのは使用人じゃない。
フリルシャツに刺繍が施されたジャケットを着こんだ、いかにも貴族って格好の男の人だった。
燃えるような紅蓮の髪に、優しげな印象のエメラルドグリーンの垂れ目。この体と同じ色彩をもつその人は、お父様にしては若いけれど、それでもアンの血縁者なのだろう。
もしかしたら、私になる前のアンの話を詳しく聞けるかもしれない。
ソファをぐるりと迂回して、その人に駆け寄り、にこりと微笑む。
「おはようございます」
そう挨拶すると、その人は、すこしだけ目を見開き、そして、なぜだか物憂げに目を細めた。
嘘。家族にも嫌われてるのか、アンは。
一瞬ドキリとしたけれど、向けられてくるのは嫌悪や怒気ではない。チクチク刺すような視線というより、もっと湿ったものだった。
悲しまれてる。あるいは、同情?
どうしてそんな目で見られるのだろうと思っていると、彼は胸に手を当て、上品な角度で腰を折る。
「私はファルテ・メイヤー。その体の本来の持ち主の兄だ」
春の日差しがさしこんでくるような声に意識を奪われ、後半部分の不可思議さにはじめは気づかなかった。
こんな邂逅を果たしたのでなければ、そのまま聞き惚れてしまうのに、春の日差しはすぐさま暗雲にのまれて、私に影を落とす。
「混乱されているだろうが、まずは聞かせてほしい。あなたは、どこのどなただろうか」
「え」
穏やかに問われて、表情を失する。
「私、アンじゃないの?」
戸惑う私にファルテも困惑した。
「……もしかして、記憶が……?」
疑わしげな目に、あわてて首を横に振る。
「私の名前なら覚えてます。坂木弥生です。日本人だから、たぶんこの世界の人間ではありません」
言いながら、自分で自分を疑った。
これ、ほんとうに異世界転生だよね?
ファルテは兄で、妹の異変にいち早く気づいたってだけ?
そうじゃないなら、私って、なに?
噴き出す疑問に処理が追い付かず、頭がぼおっとする。
そんな様子は傍目から見ても明らかだったのか、ファルテがなだめるような笑みを浮かべた。
「大丈夫、安心して。神に誓ってお約束しましょう。私は、あなたの味方だ」
まっすぐにこちらを向くエメラルドの瞳が、泣いてすがりたくなるくらい優しくて、力強くて、気高くて、まぶしい。
落ち着いて話そう。
ファルテは心に寄り添うようにそういって、私をソファに誘った。