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私、坂木弥生。公立高校に通う、平凡な女子高生。
学校からの帰り道、一番星が瞬く夕暮れのなかを歩いていたら、たぶん車にひかれて、たぶん異世界に転生しちゃった!
なのに前世の記憶しか覚えてないし、ぜんぜん見覚えのない女の子になってるし、極めつけは、目覚めた部屋には鍵がかかって出られない!
私これから、どうなっちゃうの~!?
「いやほんとどうしたらいいんだ、これ」
あれから何度も試してみたけど、やっぱりドアは開かなかった。
窓もダメ。錆びてる風でもないのに、鍵が開かないのだ。どうにかならないかと試行錯誤してもびくともせず、爪が剥げそうになって諦めた。
扉をどんどん叩いてもみた。誰かいないかと叫んで、四方の壁を叩き歩いてみたりとか、森の絵画の裏に隠し通路がないか確かめたりとか。ベッドが動かせないか、カーペットをはがせないか。なんでも試した。
でもとにかく出口がない。条件を満たしてないチュートリアル画面みたいに、状況はなんの変化も起こさなかった。
あんまりなんにも起きないので、逆に落ち着いてきちゃったまである。
だって、この部屋には敵意や害意がありそうなものも、まるでなかった。普通の寝室だ。
あるとすればこのまま閉じ込められて餓死、とかだけど、それはまだ遠いところにある恐怖で、切実じゃない。
「……この子はまだ子供なんだし、そのうち大人が様子を見に来るのかな」
それを待つのも手だ。
だけど、もし、この子が冷遇を受けてて、誰かに意地悪をされてるんだとしたら? それこそ、処刑前の時間を過ごしてるだけだとしたら?
助けの手なんて、こないかも。
考えることだけはできるから、次から次に嫌な想像が膨らんでくる。
目の前には窓。バルコニーはないけれど、おそらく太陽の光がよく入る方角に並んでいる。
外は中庭なんだと思う。花壇や噴水を挟んで向こうにも白壁に青い屋根の建物が見える。窓の位置から、ここは二階なのだとわかる。
中庭をかこうコの字型の建物なのだとしたら、相当豪華なお屋敷だった。
使用人とか通らないかなと眺めたけれど、まだ作業の時間でないのか、人気はない。
……チャンスかもしれない。
私はまず、ベッドのシーツをはがした。清潔で柔らかで上等なそれを引き裂こうとするがつるつるな生地では難しく、とりあえずそのままの形でカーテンの端にしっかりと結ぶ。
次に、他のカーテンを取り外して、また繋いだ。結構な長さになる。
これなら、窓から垂らせば地上近くまで届くだろう。
窓を割るなんて初めてだ。
得物は風景画の額縁にした。壁から外して端を掴む。結構、重い。振り抜けば、衝撃は与えられそうだ。
悪いことをしてるような罪悪感で胸が騒ぐ。
でも、やる。
私は、行動を起こせる。
なにかを変えようとすることができる。
この状況に抵抗できる。
そう思えるなにかがなければ、負けちゃいそうだ。
なにもわからないまま負けたら、きっともう立ち直れない。
「行け!」
声とともに大きく振りかぶった。角を当てるようにして、水平にした額縁を窓に叩きつける。弾かれた。挫けずに二発目。ヒビが入る。三発目。
ガラスが割れて砕ける音がした。
「まだまだ!」
自分が通れる分だけ、割り広げる。ほころびが出れば後は早かった。小柄な体が通り抜けられるくらいの穴があく。
より分けていた布地を割れた枠にかける。怪我はなるべくしたくない。
ロープをおろせば、なんとか地上につきそうだ。
風も強くない。行ける。行く。
私はロープにしがみついて、そろりと後ろ向きに窓から出た。
「ひ、う、高……やば、揺れる……」
ゆっくりと、即席ロープを握りしめ、外壁を蹴りながら伝い降りる。
心臓が剥き出しになって、背にくくりつけただけのような心もとなさがあった。
激しく鼓動を打っている。風が大きく吹けばきっと破裂する。
お願い、ここがファンタジーの世界なら、この小さな体でも、これくらいはできるはず。
それからは夢中だった。神様に祈った。
中ごろまでくると余裕が生まれて、でも後半になると体力が尽きて、いよいよ自分を支えきれずに手が震えてくる。
おそらくこの屋敷、天井分がかさ増しされ、二階が私の思う三階とか四階とかの高さにあったんだ。
お母さんとお父さんの顔が脳裏に浮かんで、友達や先生や、おばあちゃんにご近所さんに、小さな頃にみた亀の親子なんてものまでもが記憶の底から掬い上げられ、沈んでいく。たぶんこれ走馬灯なんじゃないかな。
怖くて下がみられない。これでもしも、まだまだ先があったら、私、
私、死ぬのか。
そう思ったら、ふっと血の気が引けて、手からも力が抜けていった。
叫ぶ間もなく体が浮いて、みぞおちが冷たくなる。
そのままどすっと尻餅をついた。
「痛っ……あ、え? こんな……?」
痛いには痛い。でも思っていたほどではなかった。せいぜい、押し入れの二段目くらいから落ちたくらいの衝撃に、面食らう。
心臓だけが騒がしく、じわっと汗をかく。
「死ぬかと思った」
へたりこんだまま、震える両手を見つめる。
「走馬灯まで見えたよ……あんな感じなんだ。私が必死なのに、お父さんとかお母さんとか、みんな笑ってたんだけど……」
最中はなんとも思ってなかったのに、自分が危機に瀕している時、にこやかに笑ってる両親なんてものを見ると、助けてよ! と言いたくなってくる。
娘が死にかけているのだから、あっちももっと必死になるか泣きそうになるかしてくれてもいいのに。
そこまで考えて、私は肩を落とした。
目の前にだらりとぶら下がったままのロープもどきを手にして、顔を押し付ける。
必死な顔のお父さんや泣き出しそうなお母さんを想像して、胸がズタズタに割かれていった。
だって、たぶん、あっちではそうなってるんだろうなって思ってしまった。
これは異世界転生だから。
私の両親は、思うところもいっぱいあるけれど、一人娘がいなくなって笑ってるような人たちじゃなかったはずだ。
なのに、もう会えない。
坂木弥生はもういない。
自分の魂が手から離れていくみたい。とっさに、ごめんね、と呟いていた。誰にかはわからないけれど。……ごめんなさい。
だんだんと目があつくなって、シーツが濡れた。
いつまでそうしていたのか、感情の波が自然に引いていったころ、柔らかな風に背をさすりあげられるのを感じた。
「…………」
顔をあげたら頬や目にあたる風が冷たくて、気持ちいい。
「生きてる」
生きてる。大丈夫。私は、生きてる。
言い聞かせながら、立ち上がる。
全身の血が冷えて固まっていたけれど、足は動かせた。スリッパ代わりなのだろう薄い生地の靴底から伝わる地面の感覚だけを意識しながら、とりあえず庭に歩きだす。
ゾンビみたいに、ふらふらだけど。
「一度しんで蘇ったんなら、怖いものなんてないよ」
顔を拭って、前を向いた。
日差しが潤んだ目にまぶしい。
生還って文字が頭に浮かぶ。
やってみてよかった。
だんだんと自信が出てきた。
思ってたとおり、中庭をかこう建物はコの字型。立派な左右対称のお屋敷だ。
荘厳な姿をぼんやりと眺めた。
この子、やっぱり貴族かな。
それとも豪商、とか。裕福には違いなさそうなんだけどな。
そんなことを考えていると、遠くから女性の叫び声がした。ちょうど、やってきた方角からだ。
「お嬢様!? アンお嬢様!!」
振り変えれば、割った窓枠から誰かが身を乗り出している。メイドさんだ。
この子、アンって名前なんだ。
赤毛のアン。
なんだか馴染み深くって、好きになれそう。
私は来た道を戻りながら大きく手を振った。