13
噴水の音に私は目を覚ます。忙しげな人の行き交いの気配。広場は、いつの間にか日が暮れ始めている。
見れば、さっき置いていたその場所に鈴はそのまま残されていた。
それを回収し、私はあたりを見回す。
人が多い分、突然に生えてきた私に気づく人もわずかだったようで、それも私と目が合うと興味なさげに素通りしていく。魔術があるぶん、こうした不思議には慣れているものなのかもしれない。
アンの言いつけ通り、そこで立ち止まったまま空を見上げた。紫がかった夕空に目を凝らし、私は一番星を探した。
けれどそれは見つけられないまま、私は先に、自分の名を呼ぶ声に気づく。
響きの良い優しげな声が、いまは焦りに染まっていた。
「お嬢様!」
振り返れば、キャスケット帽を被った青年が駆け寄ってくる。シャツにサスペンダーをした軽装は、彼によく似合っていた。
変装ってこうするんだな。
「お嬢様。ご無事ですか」
「親切な人たちの助けを得て、なんとか。でも扉の鍵を壊したのは私です。すみませんでした」
「鍵を壊した……?」
そのことは知らなかったのか、彼は訝しげに眉を潜めたけれど、すぐさま立ち直る。
「鍵は直せます。後からでもなおせることは、気になさらなくて良いのです。さあ、はやくこちらに。馬車を待たせています」
馬車はリックのところに行く時に乗ったものとも、ファルテが城に乗っていったものとも、また違うものだった。
狭い車内。私たちは向かい合う。
私をエスコートしてくれたファルテは私の手の甲の魔方陣にも気づいているだろうに、終始、私に怪我はないか、喉が渇いてないか、なに必要なものはないかを重ねて確認してくれた。
それが途切れたタイミングを見計らい、私は口を開いた。
「アンさんに会いましたよ」
その言葉に彼はぴたりと喋るのを止め、初めて私の膝の上の手に視線を落とした。甲に浮かぶベリーピンクの輪郭に眉を顰める。
彼は深々と息をつきながら、額に手を当てた。
「妹はなんと?」
「手紙を預かってます」
二つ折りのそれを手渡す。ファルテは、指先で広げてさっと目を通していた。
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべたのも一瞬、ファルテは座面に腰かけたまま深々と頭を下げた。
「申し訳ございませんでした。私の態度に不安を抱かせてしまった」
彼の謝罪に対して反射的に、そんなことないと言いかけてやめる。
私の不安を、否定したくなかった。
「気遣ってくれてるんだってわかってました。それでも、知りたい。傷ついたっていいから、私がここにいる意味を知りたいんです」
私はここでなにをしたらいいのか、わけがわからないままでいたくない。
だって私はどうしようもなく、ここにいる。
「教えてください。ファルテさん」
彼はゆっくりと頭を上げた。
日の入らない馬車の薄闇に、エメラルドグリーンの瞳だけが目に美しい。
決意の色だった。
「召喚術は、失敗するはずでした。術を発動させるために動いた全員がそれを目標としていた。それなのに私たちは、なぜか成功してしまったのです」
がたんっと馬車が大きく揺れた。
乗車も三回目となれば多少は慣れる。私は揺れの衝撃をいなしながら、耳を澄ませていた。
「異世界からの召喚は私たちの任意で行えるわけではありません。大陸を脅かす危機が迫った時にのみ神託が下り、初めて我々は陣を構える。それまではいくら似た魔方陣を描こうが力を注ごうが、意味をなさない。私たちはそう教わり、それを継いできた。けれど」
ファルテはほろ苦く笑って肩をすくめた。
「疑念を抱くものが出てきました」
「召喚が任意では出来ないということにですか?」
「ええ。なにせ、異世界からの召喚が最後になされたのは数十年も前。それより後の世代、私も含めてですが、神託を受けたことがありません」
本来ならそれは幸福なことです、とファルテは言った。
確かに、異世界人の召喚がないということは、その間、この世界の存亡をかけるような危機はなかったということになる。それは平和や泰平を迎えたといっていいのだろう。
「生きていれば、それなりに苦難はあります。天候不良、広まる病、技術発展の頭打ち、それらに伴う経済不安。それらはまず民を苦しめます。許容しがたい悲しみも多い。ですが、わかっていただけますでしょう。私たちは、それでも、それでもと、繰り返し唱え続けながら、日々を繋いでいくのです。そういうものなのです」
私は、想像するまでもなく、魂に刻まれた文字を指先でなぞるようにして理解する。
幸福と不幸が波打つ最中、溺れるように泳いだり、深く深く沈みこんだり、太陽に釣られるようにして浮き上がったり、ただ楽しく揺られたり、そんな風に過ごしていく日々。
どんな世界でも変わらない、人の営み。
けれど、苦しい思いをする人たちにとっては、憎らしくも思うだろう。自分がこんなに苦しいのに悲しいのに困っているのに、どうして救いの手が差しのべられないのか、怒ってしまう時もきっとある。
救世主である異世界人が来ないのはなんでだと責めたくなった人たちの声は、数十年の時と共に、見過ごせなくなるほど高く積み上がっていったのだ。
「召喚を行うのはランデリアの王侯貴族が請け負ってきました。批判は当然、我々に向く。それはいいのです。上に立つものの責任ですから。ですが、いつのまにか変な噂が流れ出しました」
根も葉もない、なのに飢えた人たちには甘い果実のような噂。
「異世界人は変わらず来ているのに、一部の貴族が独占している、という噂です」
はじめてファルテの目に疲れがよぎった。
「ああしたものは厄介ですね。流布するとなかなか元を立てない。否定すれば嘘をついていると言われ、かといって肯定すればそれこそ嘘です」
全部がそうとは言いきれないけれど、そうした疑念に落としどころなんてなかなか見つけらないのは、私にもわかる気がした。
嘆き悲しんでもどうにもならない感情を怒りにかえて、どうにかやり過ごそうとしているだけだ。その熱は、放っておいたらいつしか大きな炎になって、大事なものまで焼いてしまうかもしれない。
「私たちは、誰の目にも明らかな証拠を必要としました。たとえ神の御業に触れる罪を犯しても、安定を求めなくてはいけなかった」
召喚は出来ないのだという証拠。
だとすれば、私は。
思わず膝の上で拳を作った。
迫りくる痛恨の一撃に身構える。
「有力者を集めて儀を執り行う前に、一度、魔方陣を試しておこうという話になりました。なにせ、担うのが初めてなものたちばかりですから。気楽なものです、どうせ失敗すると思い込んでいた。せっかくだからと私と妹もその場に呼ばれました。もしかしたら今後、本当に儀式をしなくてはならない日がくるかもしれないからと父に言われて……そして」
ファルテと視線を交わしあい、息を飲むようにしてかすかにあごを引く。
そうしてお互いに許しあった。
その先を言われて傷つくことも。
傷つけるとわかっていて言うことも。
二人とも、覚悟した。
「そして、私たちのその気楽なお試しで、あなたはこの世界に来てしまわれたのです」
私の胸に、真実が突き刺さる。
目の前が真っ赤に染まった。