12
たどり着いたのは簡素な部屋だった。
白いシーツのかかったベッド。背の低いタンス、文机と椅子。特徴のない様子は、誰かの部屋というより、宿の一室のようだった。
「アンさん、いますか?」
あたりを見回しながら声をかける。
「アンさん?」
「無駄に吠えるのは今すぐにやめなさい」
真後ろで声がして、肩が跳ねる。最小限の動きで回り右をすると、毎日毎日、鏡で見てきた顔がそこにあった。
右目の下のほくろ。水色の髪止め。学校のブレザー。
「私だ」
ついでにその髪の長さに目を奪われる。
「あれ? 髪が短い」
リックはまだ来ていないのか。
アンが鈴を手に入れたのなら、ここにいるのだと思ったのに。術はこれからかけるのかもしれない。
なにはともあれ私は背を伸ばし、とびきりの笑顔で彼女に挨拶した。
「はじめまして。坂木弥生です。勢い良く生い茂っていく草木って意味の名前です」
「あなたが誰か、その顔を見ればわかることよ。静かにしていただけるかしら」
うわ、私、こんな顔できるんだってくらいに顔をしかめられた。アンは苛立った様子で腕を組んでいる。
私との身長差が思っていたよりもあった。今は私の方が頭一つ分も低い。
アンは私の全身を眺め、手のあたりをみたところで、眉を吊り上げた。
「どこで魔術師なんかと会ったの?」
「アンさんのおかげです。とても良いミーニャの魔術師に出会えて、お願いを聞いてもらって、ここに」
瞬間、アンは青ざめて頭を抱えた。
「あなた……まさかそんな……っ」
激しく困らせている気配を感じる。
「ど、どうしたんですか」
わたわたする私をアンは鋭く睨み付けた。
努めて冷静であろうとしてくれている唇が震えている。もしここで大声を出せるのならこいつの鼓膜を破ってやりたい、とその怒りに濡れた目が言っていた。
「……なんて間の悪い」
「え、でもミーニャに会えってアンさんが……」
「それで本物のミーニャの魔術師引き当てるなんて誰が想定しておけるというの? 実在も怪しまれているような根無し草の魔術師が、ちょっと町に出てすぐに捕まえられるとでも?」
唇を噛みしめ、アンは考えを振り払うように首を横にふった。
「……無駄なことね。……いいでしょう、今後を見据えて教えておくわ。ミーニャ様に礼拝したいと言えば、通常、事情は話せないけれど困ってるから助けてほしいという意味よ。言われたら、良心ある救児院か教会に案内するの。人を手助けする魔術師のおとぎ話になぞらえたこの世界での一般的な暗喩」
「そんな……」
頭のなかでアユパヤの顔を思い浮かべる。チャーミングにウインクして手をひらひらさせていた。憎めないその笑顔に、アンには悪いけれど、胸の底がじわりと熱くなる。
私はほんとうに、奇跡的に、あの良き友人と巡り会うことができたんだ。
「叱られてるのにへらへらしないで、頭痛が増すわ……ミーニャの魔術師に会えるなんて、これも異世界人の持つ力なの……? なんて厄介な……」
アンは固く目をつむり、大きく息を吐き出した。すると先程までの剣幕が嘘だったかのように、彼女は背筋を凛と正し、落ち着いた声を取り戻している。
「魔方陣の効果は?」
「リックの鈴の間を行き来できるのだと思います」
「あなたの鈴は?」
「大通りの広場の噴水前に置いてます」
「……危なっかしいけれど、ここに持ってこなかったのは褒めてあげられる。それに当たりの魔術師を引いたことも」
「当たりの魔術師?」
「ミーニャの魔術師だとしても得意不得意くらいあるわ」
そういうことか、と腑に落ちた。
魔術師であればなんでもできるとは限らない。ランデリア物語にもそうした描写はあった。
治療が得意、攻撃が得意、変質が得意、操作が得意。
それで言えば、あちこちふらつくアユパヤは、空間の移動や変化が得意な魔術師だったのだろう。
私はベリーピンクの魔方陣を撫でた。アンもまたそれを見つめる。
「魔術の陣は壊れてないのなら、すぐに帰ってもらえるかしら。あなたはまだここにいるべきではないの」
突き放す言葉に、あわててすがる。
「待ってください。私、あなたに聞きたいことがたくさんあります。どうか話をさせてください」
「その不満は理解しましょう。あなたにはその権利もある。けれど今は話せない。それが答えられるすべてよ」
はっきりとした拒絶。そしてアンから漂ってくる焦り。言葉に嘘はないようだった。
「……アンさんも、なにかを待っているんですか」
話せるようになるまでのなにか。
この場に足りていないものは、なんだ。
「…………リックさん?」
ぴくりとアンの眉が跳ねた。
鋭い眼光が私を貫き、すっと顎を引かれる。
正解だ。アンはリックを待っている。
リックを神殿に呼びたかったのは、アンだ。
「でも、あなたが鈴を持っているってことは、リックはここに一度来たんじゃないんですか」
「鈴はあなたが召喚される前に作らせていたものよ。万が一に備えさせたの」
息を飲む。それだとまるで、私が来るのがわかっていたみたいだ。
でもそれは、ファルテの話と食い違う。彼は私が来るのは予想外であったように言っていた。この世界の危機でもないのに現れたのだと。
ファルテはおまえの味方じゃない。
ここにきて、その言葉が重い。
どうしてだろう。
帰れないって言われた時より、しんどいな。
「混乱させている自覚はあるわ。不条理だと思ってくれて良い」
アンは私に謝ってくれた時のように、素っ気なく言った。
「それでも神に誓って、我らメナード家があなたを守る。言うことに従いなさい。これ以上、悪いようにはしないとお約束しましょう」
今度は、その真摯な眼差しがよく見える。
凛々しく前を向いているのは私の体だけれど、そのうちに宿る気高き魂は、眩しいほどに輝いていた。
それは、初めてファルテと会った時に感じた光と、そっくりだった。
「アンさん。あなたが私を心配してるのはわかっています。だからすぐに帰ります。でも、ひとつだけ確認させてください」
「なにを」
「私はファルテのことも信じていて良いですか?」
真意はどうあれ、優しくしてもらった事実が苦しくなるくらい嬉しかった。
だから、彼のことで揺らいでも、信じたままでいたかった。
アンはぱっと口をあけ、なのにそのまま、初めて黙った。ぐっと唇を噛み締めてから、額に手を当てる。奇しくも、リックの家で彼女をわがまま娘と呼んだ時のファルテとまったく同じ仕草だった。
やっぱり兄妹なんだな、とくすぐったくなる。
「……やけにあなたが深刻にしてた理由がようやく理解できた」
うわ、私こんな声出せるんだっていうくらい低くて恨めしそうで怒りを秘めた、呻き声みたいな声をアンは絞り出す。
そして居ずまいをただすと、私に向かって目を伏せた。
「不肖の兄に代わって謝罪する。気遣いはうっとうしいほど寄越すくせに、事情のなにひとつとして、あなたに伝えなかったのでしょう。あれはいつまでたっても成長しないのだから……」
兄のことを出来の悪い弟のように罵って、アンはすばやく行動を起こした。
文机に向かうと引き出した紙になにかを書き付ける。それを丁寧に二つ織りにして、私に差し出した。
「ファルテはあなたを探している。これを見せてやりなさい。あとは建設的な対話になるはずよ」
「ありがとうございます」
謹んで手紙を受けとる。
アンは自分の鈴をからからと鳴らして耳を澄ます。
「……応答はない。拾われてはないのかしら。いいこと? 戻ったのなら、よほどのことがない限りその場に留まっていなさい。ここに来る前からその姿で広場にいたのなら、すでに噂が広がっているでしょう。身の危険を感じたら、鈴を鳴らして。それも出来ない時だけ、魔方陣を使うの。わかったのなら返事は、はい、よ」
「はい」
私は来た時と同じように手をかざした。ベリーピンクの光があふれだす。
そして体が包まれる前に、アンに声をかける。忘れてはいけない大事なこと。
「アンさん。私たち、友達になりませんか。考えてみてもらえたら嬉しいです」
大きく目を見開く彼女に手を振り、私は再び空間を越えた。