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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

恩寵の魔女は、無情で優しい呪いをかける

作者: 鏡宮琳音

初めまして。鏡宮琳音と申します。初投稿ゆえ、拙いところもあるとは存じますが、何卒宜しくお願い致します。

私の物語でお楽しみいただければ幸いです。それでは、どうぞ。

 むかしむかし、あるところに、お金持ちの商人のおじさんがいました。

 おじさんは、キラキラしたお宝が大好きでした。お宝を手に入れるためならば、悪いことでも何でもしました。

 ある日、おじさんは噂を聞きました。『一つだけ、どんな願いも叶えてくれる』、そんな少女がいるというのです。おじさんは、迷わず少女に合うための方法を試しました。

 噂は本当でした。少女は、それはそれは美しい微笑みを浮かべ、おじさんに問いかけます。

「私は恩寵の魔女。なんでも一つだけ、願いを叶えてあげる。願いは何?」

 願いを聞くと、少女は笑い、霧のように消えてしまいました。青色の、バラのマークを残して。

 そして、おじさんはたくさんのお宝を手にしました。しかし、幸せは長続きしませんでした。おじさんの大切な娘が、突如消えてしまったのです。あのときとおなじ、バラのマークだけが、彼女の部屋に残っていました。

 あんなに欲しかった、山のようなお宝も、いまでは何の価値もないように感じます。

 おじさんは、後悔しました。ですが、もう何をしても、娘は帰ってきません。おじさんは悲しみながら、ただ宝の山を見つめることしかできませんでした。


「どうして魔女は、娘を消しちゃったの?」

 少女はベッドの中、無邪気に問いかける。母親は少し考える素振りをしてから答える。

「そうね。努力しないで幸せになんてなれないって、分からせるためなんじゃないかしら。おじさんが悪いことをたくさんしてきたから、懲らしめるためでもあったかもしれないわね」

「……? おかあさま、難しい」

 むくれてしまった娘を見て、母親は優しく微笑む。そして、そっと頭を撫でた。

「ごめんなさいね。つまりね、ずるをしちゃだめ、ってことよ」

「そっか、分かった!」

 それはそれとして、元気に目を輝かせている少女はまだまだ眠ってくれそうにない。今夜も手こずりそうだと、母親は心の中で溜め息を吐いた。


 そう。恩寵の魔女は、御伽噺の中の存在である。誰もが知っている、子供のための絵本の住人だ。他の絵本と同様、子供たちの情操教育のために生み出された存在。

 ――そのはずだった。


「こんばんは、可憐なお嬢さん」

 バルコニーの真っ白な手摺に降り立つ。月明かりを背に受けつつ、目の前の少女に微笑みかける。

「さぁ、叶えてほしい願いは何?」

 非常に残念ながら、恩寵の魔女は、存在する。

 私は、恩寵の魔女だ。






 降り立ったものの、綺麗で大きな屋敷に物怖じしそうになる。高貴な身分の人だったらどうしよう。いや、冷遇された使用人の方が可能性は高いか。そう考えながら、私を呼び出した主を見る。

(あ、これはダメだ。高貴な人の方だ)

 月明かりで輝く白い髪。紫水晶(アメジスト)を思わせる、淡い紫色の輝く瞳。そして、シンプルだが柔らかそうな綿のシュミーズ。どこからどう見てもお嬢様だ。思わず笑みが引き攣る。もし無礼なことをして捕らえられでもしたらどうしよう。牢から抜け出すことくらい容易いが、それはそれで大騒ぎになりそうだ。全員の記憶を消すのは流石に苦労する。できればそれは避けたい。

「魔女様。本当にいたのですね」

 肌まで真っ白な少女は、頬を真っ赤に染めた。目を細め、淡く色付く唇から熱い息を吐く。まるで、見惚れるように。私は益々帰りたくなった。女神のように美しい少女から、こんな顔を向けられたくない。惨めな気分になる。

(髪も目も真っ黒だし、そばかすだらけの顔。嫌だな)

 絵本では随分と脚色されて、恩寵の魔女は美しい少女だ、と書かれている。けれど、本当に美しい少女というのは、こういう子を指すのだろう。精一杯の笑顔を浮かべても、魔法を使って多少の演出を施しても、これにはどうしたって敵わない。

「こんばんは、可憐なお嬢さん」

 声が震えた。いけない。ぎゅっと手を握り締め、気合を入れる。いつものように、マントを翻す。中から、光でできた青い薔薇の花びらが無数に飛び出し宙を舞う。大きなつばのとんがり帽子に手を掛け、やっぱり離した。今日は、被ったままにしよう。都合よく顔を隠せるから。高貴な人の前で帽子を被ったままでは失礼だろうか。そう過ったが、取り敢えず気づかないふりをした。

「さぁ、叶えてほしい願いは何?」

 我ながら気恥ずかしい演出だ。本当はやりたくない。けれどこうすれば、嫌でも私が魔女だと思い知るだろう。青い薔薇は、恩寵の魔女の印。存在し得ない青い薔薇すらも作り出せるという証明でもある。だから、お師匠様は私に言ったのだ。必ずやるように、と。

 じっと少女を見つめ、言葉を待つ。少女は近づいてきた光の青薔薇に手を伸ばし、触れた瞬間溶けて消えると、目を輝かせた。そして、勢いよく振り向いた。

「私を、花にしてください。斯様に」

 困惑。花? この光の花? これになりたい? 意図が掴めない。けれど、少女は多くを語る気はないのか、それきり黙ってしまった。仕方がない。覗かせてもらおう。

「無粋な真似をして申し訳ないけれど、見させてもらうよ」

 貴女の、過去を。






「なんてこと、瞳の色が……」

 生まれたての少女を抱いた乳母が、初めて目を開けた顔を見て絶句する。それから、部屋を飛び出した。向かった先は、少女の両親の元。二人も少女を見るなり、目を丸くした。

「淡い、な。随分と」

 父親が渋い声で呟く。確かに少女の瞳は、白っぽい淡い紫色だ。対して父親の瞳は、濃紫。親子揃って紫色の瞳なんて珍しい。

(あ、あれか。紫水晶伯爵(カウント・アメジスト)

 確か、そんな異名で呼ばれている伯爵家があったはずだ。あの家の子供は、必ず紫の瞳を持って生まれる。他では滅多に見られない色だから、女神の寵愛を賜る家とされているとか。実際、本来ならば遺伝するような色ではない。しかも、嫁いだ娘が他家で子を成しても、紫の瞳では生まれないのだから、何か特別な力が働いているとしか思えない。

(本当に謎だ。まあ、私が言えた話ではないが)

 だが、そんな家だからか。瞳の色は重要なのかもしれない。

(なんか、嫌な予感がするな)

 私は指をくるくると回す。青い煌めきが生まれ、すべてを埋め尽くしていく。

 そして、次のシーンへ移動した。




 少女は庭園を歩いている。隣にはそっくりな男児。少女より少し大きく見える。二人は菫色の、揃いの衣装を着ている。

(兄、かな?)

 少年は、父親よりも深い濃紫の瞳をしている。本当に宝石が埋め込まれているかのようだ。少女の手をぎゅっと握り、エスコートするように庭園を進んでいく。

「ねぇ、お兄様」

「なんだい、可愛いライラ」

 不意に、足を止めた少女――ライラというらしい――が少年を見上げる。合わせて足を止めた少年は、軽く屈んで目線を合わせた。

「わたし、ダメなの? 目の色が、薄いから」

「……誰に、言われた?」

 少年は笑みのまま固まった。ライラは俯きながら、小さな声で言う。

「えっと、メイドさんたち」

 少年は笑みを深めると、ライラの手を強く握り締めた。

「お兄様、痛い。怒ってる?」

 泣き出しそうな声でライラが言うと、少年はパッと手を放し、顔を覗き込む。

「ごめん、違うよ。ただ、今日はもう部屋に戻って。僕が呼びに行くまで何があっても出ちゃ駄目だ」

 さあ行って、と少年がライラの背中を押す。ライラは不安げに瞳を揺らしながら、館の方へと走っていった。




 少し飛んで。ライラは部屋の中。ずいぶん大きくなっていて、10歳前後か。遠くから、楽し気な笑い声が聞こえてくる。

 ライラは窓の外を覗き込む。庭園で、パーティーのようなものが開かれている。輪の中心には、兄らしき少年と、小さな少女。

(恐らく妹かな。顔がそっくりだし、瞳が紫だ)

 綺麗に着飾った二人は楽しそうに来客たちと談笑していた。シュミーズ姿のライラがそれを羨ましそうに見つめている。

 不意に、後ろからノックの音がした。ライラが扉を開けると、メイドが立っていた。手にトレーを載せている。

「ライラお嬢様、お食事をお持ちしました」

 それだけ言うと、許可も取らずに部屋に踏み入り、サイドテーブルにトレーを置く。そして、ライラが何か言う間もなくすぐに部屋を出て行った。

 トレーには、豪華な食事が盛られていた。恐らくパーティーで出した料理の一部なのだろう。

「一人で食べても、美味しくないんだけどな」

 そういって、ライラはフォークを手に取る。プレートを見ると、外でも食べやすいように作られた料理が並んでいる。キュウリのサンドイッチに、ワイン煮にした肉のパイ、プチトマトとチーズをピックに刺したカプレーゼ、ポテトサラダをローストビーフで巻いて、上から紙で止めたもの、ピックを刺した1口サイズのステーキ。どれも手で食べられそうだ。そして、これだけはライラ用に作られたのだろう。デザートをつくる際に出た残りであろうフルーツたちが、刻まれてゼリーの中に沈められていた。

 ライラはそれらを口に運んでは咀嚼する。ただそれだけだ。無表情のまま、味わうでもなく、ただ、食べていた。外から笑い声がする度に、少し動きを止め、それでも振り返ることはなく、黙々と食べ進めて完食した。

 ライラは暫く黙ってトレーを見つめていたが、やがて、トレーを手にして立ち上がった。ゆっくりと扉に近づくと、ほんの少しだけ開けて、隙間からトレーを押し出した。扉から手を放す。重たそうな扉は独りでに閉まり、音を立てた。扉が閉まる音と、ベルの音を。ドアにかけられた銀色のベル。扉が開く度に、必ず鳴る。だから、ライラは出られない。

 ドアの前に蹲り、息を殺すライラ。暫くそうしていると、遠くから足音が近づいてきた。カチャリ、と固いもの同士がぶつかる音。そして、先程のメイドの声。

「お嬢様? おられます?」

「は、はい、います!」

 ライラの声を確かめると、足音は遠ざかっていった。足音が聞こえなくなると、ライラは深く深く息を吐いて立ち上がった。

「もう、眠ってしまおうかな」

 飾り気のないベッドに潜り込む。顔の上まで布団を被れば、外からの声も少しばかり薄れるのだろう。そうして、自分の体を抱くように丸まり、目を閉じた。




 次の記憶に飛んだ時。私はあまりの光景に、思わず目を疑った。

 若葉が芽吹く季節。空が桃色に染まる頃。急激に温度の下がったバルコニーに、ライラは一人、震えながら蹲っていた。相も変わらず、薄手のシュミーズ姿。その手には、儚い姿に似合わぬ太いロープ。目に涙を溜め、真っ赤な指でそれを結んでいく。迷いがない。高貴な令嬢が、こんなロープを触り慣れているはずがないのに。

 ライラが手を止めたとき。ロープの片端はバルコニーの手摺に括られ、もう片端は輪が作られていた。ぐいと涙を拭い、輪に首を通す。折れてしまいそうなほど細く白い首に、全く似合わない。端に寄せてあった椅子を手摺の傍に引きずってくる。震える足で椅子の上へ。手摺の上へ。そして。

 思わず私は、手を伸ばしてしまった。ここは過去の世界。触れられるはずもないのに。

 ライラは、手摺の向こうへと飛び込んだ。

 紫色に光る銀の髪が、天使の羽のように広がった。冷たい雫が雨粒のように舞う。自らの意思で飛び降りたはずなのに、バルコニーに向かって伸びた手。あまり長くないローブはすぐに伸び切り、彼女の首を締め上げる。

 はずだった。

 するり。ロープが、解けた。バルコニーの手摺に結ばれていたロープが、解けて落ちていく。当然、ライラの体も。淡い紫水晶(アメジスト)の目が見開かれ、それから衝撃に備えて固く閉じられる。

 大きな音を立てて、ライラの体は池に落ちた。口の中に水が入り、ライラの顔が歪む。生きる気力のない体は、藻掻きもせずに底へと沈んでいく。

「ライラお嬢様!」

「お、おい待てよ」

 ライラの沈む池に、誰かが飛び込んだ。淡い金髪をショートボブにした少女だ。金髪の少女は、底に沈むライラの体を抱き、水面を目指す。先程、ルフレを呼び止めようとしていた少年が、手を伸ばして二人を引き上げた。

「おい馬鹿妹、無理するな」

 少年の言葉も聞こえていないのか、金髪少女は必死に肩を揺する。

「お嬢様、お嬢様、返事をしてください、お嬢様」

 揺すられ続けたライラが、不意に大量の水を吐き、それからゆっくりと目を開けた。そして、小さく「ごめんなさい」と呟いた。

 遅れてやってきた使用人たちの手で、二人の少女たちは温かい部屋に運び込まれる。半ば無理やり服を剝がれ、毛布でぐるぐる巻きにされて、暖炉の前に連れてこられた。部屋の外で、何やら言い争いをする声が聞こえてくる。

「あの、ルフレ」

 ライラが小さな、本当に小さな声で金髪の少女、ルフレを呼ぶ。

「なんですか?」

「私が死のうとしたこと、皆、気づいてる?」

 ルフレは、優しい笑みを浮かべて、そっとライラを抱き締める。

「気づいてます。でも。大丈夫です。私がずっと、ずっと、傍にいます」

 声が震えていた。手も、震えていた。けれど、ライラは抱き締められたまま、静かに頷いた。

 ライラはその日のうちに馬車に乗せられた。ゴトゴトと揺れる馬車には、ライラを含めて4人。酷く静かだ。誰も話さない。話せない。

 どのくらい経っただろうか。不意に、僅かな衝撃と共に、馬車が止まる。うつらうつうらとしていたライラが座席から落ちそうになるのを、ルフレが支えた。

「あ、ごめんなさい、ルフレ」

「いえ。……それより、着いたみたいですね」

 ルフレは、ドアの方を鋭く睨む。御者を務めていた本邸の使用人が、ノックもせずに扉を開けた。

「着いたぞ。……降りてください」

 強い語気で話し始めたが、ライラの姿を認めると敬語に切り替えた。ルフレがライラの身体を守るように抱き、ゆっくりと立たせた。後ろに掛けていた先程の金髪の少年が、先に降りて手を差し伸ばす。

「僕で申し訳ないですが……、お手をどうぞ、お嬢様」

 ライラは彼の手を取り、馬車を降りる。その後ろにルフレ、そして黒い髪の青年が続く。

 そこは、門の前だった。左右には、身長の倍ほどもありそうな高さの外壁が続いている。御者は全員が降りたことを確かめると、屋敷の門を開けた。大きく重たそうな門が、不気味な音を立てて開いていく。身を強ばらせたライラを、ルフレが抱き締める。後ろにいた金髪の少年が、抱えていた分厚いショールを2人の肩に掛けた。

「入ってください」

 4人が中に入ると、御者は外側から門に錠を掛けた。

「物資は後ほどお持ちするとのことだ。逃げ出そうとは、努努思わぬ事」

 そう言って、馬車に乗って帰ってしまった。4人は暫く門の方を眺めていたが、ライラが身震いをしたことで青年が声を上げた。

「屋敷の鍵は貰ってあります。とりあえず入りましょう。……お嬢様のお身体に障る」

 彼は背負っていたカバンから何かを取り出すと、火をつけた。ランタンだ。それを片手に提げ、明かりを頼りに先導してくれた。薄暗い庭園は不気味で、少女たちは抱き合ったまま進む。その後ろを、警戒しながら少年が進む。

 屋敷には案外すぐだ。鍵を開けると、軋みもせずに扉は空いた。恐る恐る踏み入る少女らを置いて、青年はあちこちの燭台に火をつけて回る。明るくなると、そこは普通の屋敷だった。埃が積もっているでも、どこかにヒビが入っているでもない。そこそこ手入れされていたのだろうか。

 廊下を進む。客間はご丁寧にベッドメイクまでされていて、すぐにでも使えそうだ。

「これなら、一先ず夜を明かすくらいは大丈夫かしら」

 ルフレが息を吐く。青年も頷き、ライラに優しく声をかける。

「取り敢えず、お嬢様はお休みになってください」

「でも、私……。情けないけれど、怖いの」

 もうそこまで寒くは無いのに、ライラの手は震えている。青年と少年が顔を見合わせ、それからルフレの背を優しく押した。

「え?」

「一緒にいてやれ。馬鹿妹でも、お嬢様の傍に居ることくらいできるだろ」

「だけど、使用人の身分で、同じ部屋で休むなんて」

 少年が態とらしく溜め息を吐き、首を振る。

「こんな状況で言ってる場合か。それに、()()()()()()()だろ」

 ルフレは息を飲み、眉を顰めた。

「ルーカス兄様の意地悪。そう、だけど。お嬢様、お嫌でなければご一緒してもよろしいでしょうか」

「え、ええ、構わないわ」

 ライラは精一杯、淑女らしく答えた。貴族たるもの、使用人に請うてはいけない。

「なら、ここはルフレに任せます。ルーカス、もう少し付き合ってくれますか。今日中に点検だけでもしておきたい」

 青年の言葉に、少年、ルーカスが頷く。そして、2人のライラに向けて微笑んだ。

「じゃ、良い夜を。……僕は、2人とも愛してるからね。勿論、主人として、家族として、ね」

 手をひらひらと振りながら、部屋を出ていった。残されたライラたちは、なにかする気力もなく。本邸から持ち出したシュミーズに着替えてベッドに入る。勿論、同じベッドに。

「懐かしいわ。昔、よくこうして怒られたわよね」

「そうですね。立場を弁えろって。でも私、今でもお嬢様のこと、主人とも、友人とも思っておりますから」

 やっと心が解れたように、笑みが零れる。ルフレがライラを抱き寄せ、頭を撫でた。甘えるように、ライラも身を寄せる。そして、ルフレのシュミーズをぎゅっと握り締めた。

「ね、ねぇ、ルフレ。私、これでよかったのよね?」

「え? ……あぁ、生きていて良かったって、思ってますよ、心から」

「そうではなくてね。みんな、私を厄介払いできて、喜んでると思うの。だから、これは、正しいのよね?」

 ルフレは口を開きかけ、閉じた。噛み締めた唇から、血が滲む。震えるライラの手を上から握りしめる。冷えきった、氷みたいな手を。

「それよりね、申し訳ないの。ルフレ、ルーカス、アルフィー。3人を、巻き込んでしまったわ。常日頃、私を気にかけていたばかりに。ごめんなさいね」

 枕に染みが広がる。いやに静かな部屋では、鼻をすする音さえやたらと響く。ルフレは背中を擦ってやりながら、きつく目を閉じていた。

「やっぱり、死ねればよかったのに。そうすれば、全ての歯車が噛み合ったはずだったのに」

 それきり、ライラは黙ってしまった。ルフレは何度か口を開き、けれど最後まで言葉は出てこなかった。そうして、夜が明けるまで、2人で抱き合っていた。




(それで、花に? でも、これ、まだ5年前だ)

 寒気がしたが、それでも、叶えるべきかは己の目で確かめる。それが恩寵の魔女の責務。ここは御伽噺の中ではない。私利私欲に溺れる人には恩寵は授けられない。

 次の赤い過去を目指し、ワープする。




 そして、今度は耳を疑った。

「こん、やく? 私に?」

 ライラは首を傾げる。前回の姿よりも、健康的にふっくらとしており、顔色も良さそうで安堵する。黒髪の青年――おそらく彼がアルフィーだ――が、金の装飾が施された封筒を差し出した。

「旦那様から、こちらを預かっております」

 手紙を受け取ったライラは眉を顰め、封蝋(シーリングワックス)を確かめる。お父様だわ、と呟くライラの声は、震えていた。ルフレから手渡されたペーパーナイフで、封を切る。暫く手紙を眺めていたが、やがて深く息を吐いた。

「確かに、私に婚約の話だそうよ。でも、どうしてかしら。悪い条件には見えないのよ」

 手紙をルフレに手渡す。真剣な目で文字を追っていたが、顔を上げると、目を輝かせた。

「お嬢様! 普通の婚約じゃないですか。しかもお相手、伯爵家の嫡男ですって。おめでとうございます」

「私もそう聞き及んでおります。顔合わせを1週間後にとの事です」

 そう言って、アルフィーが書類入れ(ドキュメントケース)から1枚、書類を取り出す。釣書だ。小さめの肖像画が添えられている。

 ここから少し離れた、でもそこまで遠くはないところに領地を持つ伯爵家。そこの長男で、将来家を継ぐことが決まっている。現在は名門校に通っているらしい。成績は上々。嗜み程度に剣も振れるし、器楽にも精通している。オマケに顔も良い。

「え、詐欺……?」

 ライラは目を細め、釣書をテーブルに置いた。こんなスペックの嫡男。言い方は悪いが、これでは女の方から寄ってくるだろう。選び放題なはずだ。ほぼ社交界で知られていない、評判が良い悪いどころかほぼ無いであろうライラに婚約なんてするだろうか。

「もしかして、この瞳が欲しい、のかしら」

 基本的に、紫の瞳は遺伝しない。しないが、もしかすると、という可能性もある。この国では、紫の瞳を持つ者は女神の加護を持つとされている。何としてでも手に入れたい、そう考える人もいるかもしれない。

「私の目は薄くて価値がないけれど、先祖返りとかもあるし」

 アルフィーが何か言いたげに口を開きかけたが、力なく首を振るルフレを見て噤んだ。小さな手をぎゅっと握り締め、潤む目を隠すように瞑っている。アルフィーはいつも冷静だが、冷徹ではないらしい。僅かに眉を下げると、さり気なく空いたカップについて指摘した。二杯目の紅茶を淹れるために部屋を離れた隙に、アルフィーがライラに耳打ちする。

「こちらの伯爵は、旦那様とご友人なのです。ですから、悪いようにはされませんよ」

「でも、だったら尚更、ヴィオラに声がかかるはずでは?」

「ヴィオラ様はまだ7つです。伯爵令息は15ですから、13歳のお嬢様にお声がかかったのかと」

 ライラは俯き、テーブルに置かれたままにされた空のカップを見つめた。

「私、このカップみたいなの。伯爵令嬢としての十分な教養も怪しいわ。身分に見合うのは見た目だけ。空っぽよ」

 その見た目も十分ではないのだけれど。そう言ってから、勢いよく顔を上げて笑みを浮かべた。

「あ、ごめんなさい。ね、アルフィー。私、大丈夫よ。心配しないで」

 その時。ルフレがティーセットを手に戻ってきた。アルフィーは、もうそれ以上何も言わなかった。




(あれ、次の赤い過去、随分後だな?)

 この会話から三年後だ。赤い過去は、ライラにとって、忘れたいほど嫌な記憶。それも、未来を変えかねないほどの。だから、先ほどの会話が赤かったということは。

(この婚約は、きっと、上手くいっていない)




「もううんざりだ」

 男が机を思い切り叩く。ライラが肩を揺らし、俯いて目線だけ男に向ける。

「毎日手紙は届くし、返信しないと催促が山のように来る。女と話すだけで激高する。もううんざりなんだよ」

 後ろに控えていたルーカスとルフレが顔を見合わせた。真っ青な顔で震えるルフレを見て、ルーカスの方が部屋をそっと抜け出した。

「大体、結婚したとして、お前に何ができるんだ? 人と会えないのでは、社交もできない、屋敷の管理もできない、領地経営もできないだろう」

「そ、れは。でも、私、貴方様をお慕いしていて」

 青い唇から、震えた小さい声が零れる。

「愛なんていらない。貴族の妻に必要なのはそんなものではないと、お前も分かっているだろう」

 ライラは淡い水色のドレスを握り締めた。瞳が揺れるが、零すまいと顔に力を込める。

「ですが、婚約は両家の契約。ここで白紙にはできないはずです」

「私の父には話をつけてある」

 ライラは呆気にとられ、固まった。そして、一粒の涙が頬を濡らすと、男に寄り縋った。

「待ってください。貴方がいないと、私、また独りぼっちなの」

「そんなこと知らない。もう俺に関わらないでくれ」

 ライラを振り払い、男が手を振り上げる。床に倒れたまま、目を瞑り、頭を庇うよう手で覆う。そして、鈍い音が、部屋に響く。

「申し訳ございません。じきに伯爵がいらっしゃいます。話はその後にお願いいたします」

「な……」

 ライラを庇うように、アルフィーが間に割って入ったのだ。男の煌びやかな腕時計が青年の額に傷をつけ、赤い液体がカーペットを染める。

「アルフィー。大変だわ、血が」

 ライラは立ち上がろうとし、よろけて蹲った。男に合うため、着飾っていたのが災いした。不慣れな高いヒールの靴で突き飛ばされたせいで、足首が赤く腫れている。――幸い、かもしれない。

「お嬢様、私は大丈夫です。ですが、足も、お召し物も。一度ルフレを連れてお部屋にお戻りください」

 そう言って振り返ったアルフィーは軽く頭を抱えた。ルフレは完全に正気を失っていた。

「う、うわあああ、ど、どうしましょう。わ、わたし、こんな、こんなことになるなんて」

 血の気の引いた顔に、頬紅だけが嫌に目立つ。ふらりと一歩よろけ、壁にぶつかるとその場に蹲った。悲鳴を上げ、頭を振る。いつもきれいに整えられたショートボブが、ぐちゃぐちゃに掻き乱される。婚約破棄を告げられたライラよりも、よっぽど動揺していた。

「おい馬鹿妹、しっかりしろ。お嬢様のお傍にいられるのはお前だけだろ」

 ルーカスが肩を揺する。涙でメイクが崩れて酷い顔だ。息が上手くできないようで、喉の奥が変な音を立てている。その場の全員が、ルフレから目を離せない。どう考えたっておかしい。侍女がここまで取り乱すなんて。

「ルフレ? どうしちゃったの、貴女らしくないわ」

「わ、私が、わたしが、この結末を、もたらしたのだわ」

 幼子のようにわあわあと泣きながら、私のせいだと繰り返す。収拾がつかなくなったこの状況を何とかすべく、男が声を上げようとした丁度その時。扉が開いた。

「これは一体、どういうことかな。ガットネロ伯爵令息?」

 ライラの父親が、笑顔を浮かべて男を見た。後ろから母親がやってきて、隣に並ぶと、音を立てて扇を閉じた。

 さて。状況はかなり悪い。ライラは床に座り込んでいて、右足は赤く腫れている。そのうえ、ドレスは転ぶときに裾を踏んだのか、無惨に破れてしまっている。アルフィーは、カーペットに染みができるほどの怪我。ルフレは発狂していて二人が入ってきたことにすら気が付いていない。ルーカスは二人の到着に安堵したのか、やっと一粒涙を零した。

「わたくしたちの宝物たちを、こうも傷つけてくれるなんてね。どうしてくれるのかしら」

「こ、これは……」

 最初の威勢はどこへやら、男は青い顔でルフレを見た。偶然、目が合う。金交じりの、濃い青の瞳。怯んだように、男は目を背け、それから俯いた。

「申し訳、ございません」

 頭を下げる。母親はふぅと息を吐きだすと、後ろに控える侍女たちに命令を出した。すぐに侍女たちが二人のライラを抱え、隣の部屋に連れ出してくれた。これ以降の会話は、無理をしてライラたちが聞く必要はない。

「足の具合を見させていただいてもよろしいでしょうか」

「お願いします」

 思わずそう答えて、ライラは口元を抑えた。侍女が顔を上げ、クスリと笑う。それから、黙って手当をしてくれた。固定してもらうと、かなり痛みも和らぐ。ほっと一息を吐くと、後ろからルフレの声がした。

「あ、あの、申し訳ございません、お嬢様」

「落ち着いたのね、ルフレ」

 振り向くと、幾分か落ち着いた様子のルフレが座っていた。まだ顔色は悪いけれど、話せるくらいには回復したらしい。

「大丈夫よ。それより、怖い思いをさせてごめんなさいね」

「そんな、謝らないでください。私、今まで、お嬢様の行動、止めませんでした。本当の侍女は、主人が道を誤りそうになったら、正すものです。でも、私、そう出来ませんでした」

 だから、私が悪いのです。そう言って俯いた。真っ白な指先が、微かに震えている。ライラは口を開いたが、上手く言葉が出てこなかった。

 そんな二人を見て、ライラの手当てをしてくれた侍女が、道具を片付けながら口を開く。

「これは、私の独り言ですが。女主人(レディ)と侍女にとって最も重要なものは信頼です」

 二人の少女は顔を見合わせる。

「過ちを犯すこともあるでしょう。けれど、まだ若いのだから、やり直せます」

 火に掛けられたポットが音を立てた。侍女はそれを火からおろし、茶葉の上に注ぐ。

「お二人は、お互いを責めなかった。自らを責めた。だから大丈夫だと、私は思っています」

 ルフレの煌めく目から、ぽろぽろと涙が零れる。目の周りが真っ赤なのにまた擦るものだから、沁みて呻き声を漏らす。

「うぅ、お嬢様、許してくださいますか」

「勿論よ。私、貴女が悪いだなんてただの一度も思わなかったの。本当よ」

 冷たい手を取る。優しく撫でて温めると、ルフレも微笑んだ。二人の横に、先ほどの侍女がカップを二つ置く。爽やかな香りのフレーバーティー。落ち着く良い香りと、温かさ。

 暫くそうして紅茶を飲んでいると、アルフィーが扉をノックした。

「二人とも。今後のことが決まりました」

 ライラがカップを置き、立ち上がる。ルフレが遅れて立ち上がり、ライラに肩を貸す。が、立ち止まったまま、進む様子がない。

「ルフレ?」

「待ってください。お嬢様、本当に行かれるのですか。わざわざ辛い目に遭いに行かなくても」

 ライラは言葉を遮り、首を振った。

「駄目よ。私のことだから、私が決着をつけるの」

 隣の部屋は、静かだった。男は真っ青な顔でソファに掛けており、横には、いつの間に来ていたのか、男の父親らしき人がいた。その対面にライラの両親が並んで座っている。ライラを見ると、間に座るよう促した。

「さて。一先ず婚約は、あちらの有責で破棄とする。いいな、ライラ」

「はい。私、このお方がもう怖いのです。婚約継続はできません。お父様にお任せいたします」

 それから、淡々と事後処理が進んでいく。契約違反の違約金。ライラを傷つけた慰謝料。提携していた事業のあれこれ。最後に、破棄の書類にサインをし、ライラは首飾りを外した。ハンカチで軽く拭い、テーブルに差し出した。

「こちらも、お返しいたします。婚約時に頂いたものですので」

 父親をちらりと覗くと、頷き返した。これで、おしまい。息を吐くと同時に力が抜けて、くらりとライラの体が揺れた。母親がその体を支え、優しく肩を抱いた。父親が連れてきた執事が書類を確かめ、部屋を出て行く。それに続いて、男とその父親も部屋を出て行った。

 父親が息を吐き、ライラを見る。

「悪かった。こんなことになるとは。評判のいい男だったから油断してしまった。すまない」

「いえ。私が悪かったのです。私が、上手くできなかったから」

 両手で顔を覆う。そうして、ライラは暫く静かに涙を流した。




 それから数か月後。

「え、こん、やく? またなの?」

 ライラは柔らかな日差しが入るサロンで、カップを片手に首を傾げた。

「そうなのです。私もまだ早いかと思ったのですが、旦那様が是非にと」

 そう言って、アルフィーは釣書を取り出す。ヴォルフモント伯爵令息。名をノア。

「なんだか、聞いたことがあるわね。ソフィアたちが話していたのかしら」

 話題にされても納得の見た目である。ミルクティーのような優しい色合いの髪と、黄玉(トパーズ)色の瞳が特徴的だ。大きな目は垂れ気味で優しそうな印象を受ける。肩幅が狭く華奢で、一見しただけでは女性と見間違えてしまいそうだ。

 後ろから釣書を覗いたルフレが首を傾げる。

「ヴォルフモント伯爵家のノア様? 女嫌いだったのでは?」

「あぁ、そんな話を聞いた気がするわ」

 女嫌いで、なかなか婚約しない美形の伯爵令息。夜会の度に女の子が押し寄せるのだとか。そんな噂を口にしつつも、ライラはつまらなそうに釣書を見ていた。そんなライラを見つめていたルフレが、紅茶を注ぎつつ眉を下げる。

「お嬢様、婚約、嫌ですか?」

「え? いえ、そうではないけれど。正直、もう誰だっていいわ」

 一口サイズのブルーベリータルト指で摘まみ、口に放った。ゆっくりと咀嚼すると、カップに口をつけ、それから息を吐く。

「まあ、お父様の命なら、全うするわ。今度は前みたいにならないように気を付けないと」

 貝殻型のマドレーヌを口に運ぶ。バターの風味を楽しみつつ、くるりと視線を巡らせた。そして振り返る。

「ねぇ、ルフレ。何かあったら、助けてくれるかしら?」

「勿論です。お任せください」

「では、快諾と返事を。顔合わせの日程は任せるわ」

 アルフィーは一礼し、サロンを出て行った。代わりにルーカスがやってくる。

「お美しいお嬢様。本日のパティスリーは如何でしょう」

「とても美味しいわ。ところで、バター変えた?」

「おぉ、分かりますか! えぇ、本邸にそれとなく伝えたら望みの物を届けてくれまして」

 上機嫌で話し続けるルーカスに、ライラは微笑みながら相槌を打つ。とても穏やかな表情で、数か月前の傷は見えない。そんな二人を、ルフレが嬉しそうに見つめていた。




 とはいえ。この過去も、赤色だったのだ。悲しいことに。

(じゃあ、この人も)

 ずきんと胸が痛む。とはいえ、私は恩寵の魔女。最後まで見届けなければ。




「浮気、ですか?」

 ライラは首を傾げる。この日のライラは庭園で、二人の少女たちと共に円卓を囲んでいた。

「あぁでも、事実とは決まっていないの。けれど、そういう噂が立っていて」

「ノア様が、浮気をなさっていると。そういう噂があるのよ」

 ライラは眉を顰める。暫く考え混んでいたが、突如、明るい顔をした。

「それ、10日ほど前からじゃないかしら?」

「どうしてそれを、……痛っ」

 右側に掛けた少女が立ち上がり、勢い余って手をテーブルに打った。もう一人の少女に諫められ、目を潤ませながら、座ってライラの言葉を待つ。

「その件なら、ノア様から伺っているわ。どうしてもそうせねばならない事情があると」

 だから浮気などではない。そう微笑むライラを見て、二人の友人はほっと表情を緩めた。

「そうだったのね。良かったわ」

「それなら、上手くいってるのね」

 ライラは頷き、婚約者について語る。今日、身に着けている髪留めがプレゼントであること。頻繁に屋敷を訪ねてくれていること。数日おきに手紙のやり取りをしていること。

「幸せそうで良かったわ」

「心配かけてごめんなさいね」

 少女たちは楽しげに談笑しつつ、紅茶と菓子を楽しむ。しかし、二人の友人たちは一度、ライラの目を盗んで目を合わせ、頷き合った。真剣な目で。

 茶会が終わると。ライラはルフレと共に余りの菓子を包み、籠に入れた。余りと言っても、ティースタンドに余ったものではなく、キッチンに残してあったものだ。門に向かう途中、幾つか花を摘み、籠に差した。

「ソフィア、アメリア。これ、大したものではないけれど」

 籠を差し出す。談笑をしていた二人は、嬉しそうに礼を言って籠を受け取った。

「それにしても、いつも来てもらってばかりでごめんなさい。……私、外に出られないから」

 ライラは視線を落とす。友人たちは顔を見合わせると、可笑しそうに笑った。

「あら、私達がライラに会いたくて来ているのよ?」

「そうよ、気にしないで。お礼なら、美味しいストロベリータルトで充分よ」

 ライラは恐る恐る顔を上げ、友人らの表情を伺う。それから、ふわりと花が綻ぶような笑みを浮かべた。

「二人とも、ありがとう。大好きよ。また来て頂戴ね」

 手を振り、馬車が遠ざかる姿を見送る。馬車の姿が消えると、ライラの手は力なく落ちた。

「浮気、ね。まさか、とは思うけれど」

 ライラは俯き、胸に手を当てた。冷たい風が、ドレスのスカートを揺らしていた。




「……うん、これで最後だ」

 私は過去を閉じる。本を閉じるように、パタンと。なんだかすっきりしない。これが最後というのは変だ。普通は、浮気が発覚したみたいな、そういう赤い過去があるはずなのだが。

「まあ、いいか。つまり君は、家族や今の婚約者に疎まれるのが嫌で、消えてしまいたいと」

「もしかして、私の考えが読めるのかしら?」

 ライラは微笑むと、目を瞑る。両手を胸の前で組み、祈るように囁く。

「叶えてくれる、かしら?」

 さて、どうだろう。

「君、本当の願いは違うよね。消えたいのなら消せるよ。けれど、花になりたいっていうのは違う」

「そうね。私はね、彼に私のことを永遠に覚えておいてほしいのよ。()()()ね」

 つまり、ライラは。また裏切られるくらいなら、その前に、ということか。

「彼の前で花になれば、きっとずっと覚えていてくれるわ」

「そうだろうね。そして、対価に」

「ええ。私の命を差し出すわ」

 完璧でしょう? 微笑むライラは本当に美しい。そして、断る理由がなくなってしまった。

「ああ分かった。叶えようじゃないか。後悔しないね?」

「勿論よ。私、もう疲れてしまったの」

 愛すことも、愛されることも、そして、愛されないことも。全部全部、彼女は諦めてしまった。それは残念だけれど、これ以上この儚い少女を傷つけることも躊躇われた。銀色の髪が風にはためき、天使の羽のように広がる。色素の薄い彼女は、この世の者ではないようで。だから、花になって消えることも、自然なことのように思えてしまう。

「でも、一つ約束して。彼が、君のことを本当に想っているのなら、この約束はなかったことにする」

「では、後に私を裏切るとしたら?」

「じゃあこうしよう、彼が君を想っている間は、君を消さない。これでいい?」

「契約成立ね」

 ライラは満足げに頷くと、こちらに手を差し出した。私はその手を取る。酷く冷たい、氷のような手だ。私は丁寧に力を込める。青い光が二人の手を包んでいく。温かい光だ。徐々にライラの手に文様が刻まれていく。ゆっくり、慎重に。そうして、最終的に青い薔薇の文様を刻んだ。目を閉じて、呪文を唱える。光が霧散し、文様も消えた。目に見えなくなっただけだが。ゆっくりと手を離すと、少女はくるりと踵を返した。

「ありがとう、魔女様。今、私、幸せよ」

 それだけ言って、部屋の中へ消えていった。私は暫くバルコニーを眺めていたが、部屋の明かりが消えると、振り返って伸びをする。

「あぁ、これ、受けてよかったのかな。良くないよね」

 魔法は1年で消えるように設定した。けれど。嫌な予感がしている。魔女の勘は当たるのだ。

「でも、私は人の世の理から外れた存在だから。気にしても仕方ない」

 そう、もうどうしようもないのだ。彼女に呼ばれてしまった時点で、こうなる運命だったのだろう。少しでも、彼女が幸せなままこの世を離れられたらいいな、と。それだけ祈ってその場を離れた。






 私は恩寵の魔女。対価さえ払えば、1つだけどんな願いでもかなえる存在。


 私は今日も待つ。誰かが私を、恩寵の魔女を必要とする、その声を。

 不幸の底にいる誰かを、少しでも幸せにするために。恩寵を授けるために。


「さあ、願いは何かな?」


 だから、手を差し出す。これが呪いだなんて、気づかないふりをして。

最後までお読みいただきありがとうございます。

少女は結局、消えてしまったのでしょうかね。ノアは浮気をしていたのでしょうか。

とはいえ、どちらの未来もまた、少女にとって幸せであったことを祈ります。

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