プロローグ-1『カーンへの旅路』
パリを発ってから、約2日。陽太はバイクに乗りながら、『白紙』の地表を走っていた。当然、この終末期に優れた文明の利器は残ってはいない。なので、彼の乗っているバイクは一体なんなのか、という話になるのだが。
「目的座標まであとどれくらいだ? アトゥム」
白いポロシャツに黒いパンツ。黒いマントを羽織り、ヘルメットすらつけていない陽太は、バイクに視線を向けて話しかける。
『この調子でいくと3時間。けどそろそろ休憩をとった方がいいから、実質的に5時間かな?』
陽太の問いに、どこからともなく声が返ってくる。
「辛いな……。ま、けどアトゥムにはほんと助けられてるよ」
一瞬苦悶を漏らして、すぐさま少年はアトゥム……と呼ばれた黒い車体のバイクに感謝を告げる。陽太の乗っているバイク。それはアトゥムが変容した姿だった。初見では陽太も驚かされた。可憐な天使がイカつい二輪車になるなんて、誰が想像できよう。当の本人は、『人類を補佐する機械なんだから、当然じゃん』と笑い飛ばして見せたが。
空は何一つ変わらない快晴。大気圏の向こうの太陽は、熱風の威力を弱めていながらも、力強く存在を誇示している。この惑星が侵略者に破壊されてから、『海』というものは消失している。原理はわからない。ただ日本大陸とユーラシア大陸の間に存在する太平洋が茶色い堆積物にまるまる置き換わっていた。この事実から、陽太は『同じく他の海洋も置換されている可能性がある』……と仮説を立てている。
そしてこの惑星には、生存者たちの結界が存在する。
それこそが生存圏。陽太たちの目指している『目的座標』にも、それは存在している。その地点とは———
「けど、ステラ博士が言ってたことは本当なのか?」
ステラ博士。
先のパリ研究所探索で出会った、政府直属研究科の生き残り。彼女は陽太と別れる前に、この座標を彼に託した。
『嘘じゃないと思うよ。人工密度———『人類存続度は上昇していってる。近くに生存圏があるのは間違いないよ』
人類存続度。いわば、人口密度。探索範囲にどれだけ人間が存在しているかを示すパラメータと想像してくれたらいい。
「そうか……ま、お前が言うんなら正しいだろうけど。もう少し走ってから休むか。どうやら監視の眼は緩んでるみたいだからな」
日本の記録書にはこんなことが記されていた。
“空に眼アリ。我々は、彼を失明させねばならない”……と。正直なところ、怪文書であるが———彼はこれを『宇宙から地球を監視していた侵略者がいた』と捉えた。それは今も変わらない。何者かに撃ち落とされ、その視力を奪われたのだと。
陽太はその言葉を最後に黙ってしまった。アトゥムもまた、『車体』の運営に集中する。
★★
『白紙』となった地球でのドライブはとてつもなく退屈だ。なぜなら、風景の変化がないからだ。この上なく単調。街を練り歩く人々の変化や、立ち並ぶ建物の変容もない。このような状況で娯楽を求めてしまうことに罪悪感を覚えるが、それでも吐露したいときは来るものだ。
「退屈だなあ」
陽太がそう呟いたのは、先ほどの30分後だ。目的地には着々と近づいている。目的達成への前進よりも、現在進行形の退屈さへの陰鬱が暴発した。
「ラジオとかあったらいいんだけどなあ。アトゥムが分身できたら、オレ……そうだな、ワイヤレスイヤホンとモバイルバッテリーになってもらって……」
うちに秘めていた願いの数々を吐露する陽太。
『私だって分身できたらしたいですよ。人間の補佐……補助が目的なのに、手段が乏しいことに不満を感じているのは事実なんですよ。ただそうなると、寿命が短くなるので……本末転倒ってやつなんでしょうね』
機能を増やすと、本体の寿命が縮む。陽太はその『欠点』に対して『そこさえなんとかなればなあ』、なんて心の中で意見してみる。
「生存圏に専門の技術者とかいればいいんだけどな。けど、そんな都合のいい話期待しても無駄か」
『ワンチャンス……くらいには期待していてもいいんじゃないですか?』
「そうするとしっぺ返しが怖いし……」
『しっぺ返し』ってなに? と?マークを浮かべるアトゥムと、なんやかんや言って心の中では期待をさてられない陽太。二人の雑談は、案外滞りなく進んでいった。そして、彼らの会話が止まったのはそれからたった数分後。陽太が不意にバイクを止めたことがきっかけだった。
『どうしたの?』
「……いや」
アトゥムの問いに、陽太は返事を淀ませる。ぎこちない返答に、アトゥムは疑念を抱きながら、自らの視線を陽太の視線と重ねる。そして、陽太の停止の理由に符号がいったのか、『そういうこと』と内心で納得する。
陽太はバイクから降りる。主が降車したのを確認したアトゥムは、愛らしい幼女の姿に戻る。陽太の視線の先には、少女がうつ伏せに倒れている。年若い、身長の低い少女。肩まで届く髪は鮮烈な赤色。身に纏う純白のワンピースは血で赤く染まっている。弱っているのは、誰から見ても明白だった。陽太は逸る気持ちを抑えられず、走り出してしまう。
『あ、ちょっと待ってよ! 陽太!』
「目の前で人が倒れてるんだ、待てない!」
振り返ることもなく、一心に少女の元へ走り寄る陽太。再三言おう。彼は、お人よしだ。見知らぬ人間に意識を向けられる、どうしようもない善人なのだ。
少女の右隣に座り込んだ陽太は、彼女の上体を右手で押し上げて息を確認する。
———頼む。生きててくれ! 目の前では死なないでくれ!
陽太の心の中の叫びに応えるように、少女は目をゆっくり開ける。あまりにも弱々しい呼吸———震える左手を空に掲げながら。
「———かあ、………さ」
「アトゥム!」
「承認!」
少女の息を確認した陽太は、間髪おかず、天使の名を大声で叫ぶ。それは、『治療行為を始めてくれ』という合図なのだ。そして、そこから怒涛の治療行為が始まった。
▼△
20分の救命活動。アトゥムに備え付けられた『医療措置機関によって、少女は命を繋いだ。『白紙』惑星:ノルマンディエリアの近傍で、3人は座り込んでいる。
「ありがとうございます。お母さんに“人類は全滅した”って聞いてたから……助けてもらえるなんて、思ってなくて」
毛布で身体を覆い隠した少女は、弱々しい声で切り出す。その言葉には、少しの警戒が含まれたままだ。それに対して、陽太は若干の笑みを浮かべながら、
「オレもまさか生き残りがいると……いや、最近会ったばかりだったな。傷はもう大丈夫なのか」
言葉を返す。彼の表情には歓喜が漏れている。
「はい。おかげさまで」
「ふふん! 私の能力サマサマだね! あとで揚げパンだ!」
「要検討だな」
アトゥムは、嬉しさを体現するように羽根を上下に揺らす。その様子を優しい目をしながら眺めていた陽太に、少女は話しかける。
「あの、あなた達は一体……? いえ、助けてもらって、嬉しいんですが」
「オレ達は———謎を解くために、この地球を渡り歩いてるもんだ。そうだな。アカギ……って、呼んでくれたらいい」
「———アカギさん」
少女は言葉を詰まらせる。
「君の名前は?」
「リアム。私のお母さんがくれた名前」
その返事は重みを感じさせる。陽太は、少し顔を曇らせて——一瞬躊躇してから、話題を切り出す。
「リアム……、いい名前だな。それで、なんであんなところに倒れてたんだ?」
「……私の家が……襲われて………」
少女の身体が小刻みに揺れる。まるで何かに怯えているように。その双眸には悲壮と恐怖が宿っている。陽太はまだ早かった、と頭をかきながら、
「いや———まだいい。……無理はするな」
少女の言葉を遮る。
「アトゥム、結界はれるか? 少し離れた場所で休憩しよう」
「了解」
陽太の問いかけに簡易的な返事をして、アトゥムは“バイク”へと変じる。人のざわめきがとうに消え去った惑星に、猛々しいエンジン音が響く。その変容に、少女は目を見開く。
「すごい……」
「だろ? 2100年の叡智ってやつらしい」
『作ってから人には感謝、だね〜。ほんと、人助けできて嬉しいよ』
「……その状態でも、喋れるんだ……」
呆然とするリアムに、陽太はリュックサックから取り出した赤いヘルメットを被せる。
「危ないから、これつけとけ」
「……ありがとう」
出立の準備ができた二人は、バイクにまたがる。数秒の間のあと、二人を乗せた二輪走行車は、休息地に相応しい場所を目指して走り出す。
▼△
ノルマンディには、今の地球に似合わない絢爛な都市がある。その絢爛都市の見張り塔から、陽太たちの行動の一部始終を監視している者がいた。
「……随分と楽しそうだな、あいつ。地球が死んでも、そこまで健気でいられるのは、なぜなんだ?」
黒いフードを被った少年は片手をズボンを突っ込んで、忌々しげに呟く。その言葉には疑念と、嫉妬が含まれている。そんな彼の背後には、妖艶な衣装に身を纏った、背丈の高い女が立っている。
「妾の僕、仕事ミスってんじゃん。誰だっけ、担当。タニモト」
女は苛立ちを声に乗せながら、言葉を紡ぐ。
「始末担当はアレ———いえ、57番です」
タニモトと呼ばれた少年は、振り向きながら答える。その答えを聞いて、女はその可憐な顔立ちを醜悪に歪める。
「あああの女か! 57番は生意気なくせに仕事はできないつっかえない奴だよね〜! 妾にも口答えしたことあったし、正直ムカつくんだよね!そうだ! あの白衣の女に申し込んで死刑にしてもらおうかな!?」
叫ぶ。叫ぶ。嫌なやつを処分できる名目が生まれて狂乱する長身の女。少年タニモトは、脳裏である人物の名前を浮かべている。
「……リゼさんか」
「そう! あの女は処刑人と素晴らしいよ! いや、彼女というより、彼女の技術なんだけど———」
「『オックスフォードの異端児』……世界が誇る頭脳だったんですから、当然でしょう。それよりも、捕縛しますか?」
タニモトの声色が変わる。真剣みを帯びた問いかけに、女は狂乱の舞を止めて、少年に背中を向けてこう告げた。
「よろしくね。貴様は優秀だから、期待しているよ」
「———ありがたきお言葉」
「じゃあ私は虫を痛ぶってくるよ! わるーい子には折檻が必要だもんね〜!」
子供っぽい、無邪気を感じさせる声と共に、女が見張り塔から去る。
▼△
誰もいなくなった見張り塔。
少年はフードを外し、空を見上げながら呟く。
「———赤城陽太」
タニモトは一瞬、彼との記憶を懐かしむも、すぐに脳裏から消し去る。今の自分には必要のない記憶だ、と。自らを戒めるように。そうして、少年も見張り塔を去った。