第2話『記録/■■の患者』
———意味不明。それが、少年の世界の惨状に対する感想であった。療養のため眠っていたら、起きてみれば誰もいない。驚くべきことに、病院そのものが消失していた。目覚めた場所は、誰もいないコンクリートの暗い部屋の中。陽の光を求めて、彷徨ってみれば、この始末。灰色の宙に、赤い大地と海。旧約聖書に記された終末に見紛う凄惨さだ。人類の営みは軒並み失われている。文明の累積はこれでもかというくらい、崩されている。
「……マジかよ」
状況把握に使おうとしたスマートフォンも、今や電気を失い、活動する力を失くしている。少年はため息をつく。そして、どこに向かうわけでもなく———放浪を始めた。
少年は、高い知的好奇心を有していた。悪く言えば物好き。疑問を疑問として放置することに嫌悪感を抱き、疑問を解決できたら悦に浸れる。歩く辞書。知的好奇心の怪物。彼の日常は、そんな『欲』を満たし続けるだけのものであった。先生は、それを殊勝な心がけと讃えた。生徒は、それを“うざい”と罵倒した。疑問はなくしたい。それは即ち、適当を許さないということと同義なのだ。
やがて彼は疎まれる存在になった。
史実に在るソクラテスがそうであったように。孤独な探究者。
それが、2014年までの■■陽太の在り方だった。
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病というものは理不尽なものだ。たとえば、風邪。たとえば、インフルエンザ。たとえば、骨折。たとえば———挙げ始めるとキリがないものだが、中には絶対的に死が定められるものもある。それが、歴史的な黒死病であったりだとか、狂犬病といったもの。致死率100%。こちらの事情なんて知ったことないと、自分勝手に死を押し付けてくる。2015年1月1日。陽太が罹患した病も、この類のものだった。
『ん……これはダメですねえ。今までのどのウィルスとも合致しない……症状とも合わない。まったく……新しい症例だ』
———原因不明を聴いた。
『むう……ウィルスの正体がわからなければ、治療法を模索できない。とにかく、今の全力を尽くしますが……』
———治療不能を聴いた。
その言葉に、陽太はひどくもどかしさを感じる。なぜわからないのか。医師たちは三日三晩、新たなウィルスの研究に明け暮れている。なのに判明しない。國が持つ叡智、その全てを結集しても、陽太の病気の原因はわからない。それを聴いて、陽太は絶望する。『わからない』という事実に、とてつもない嫌悪感を抱いた。そうして、抵抗の3ヶ月間が過ぎようとしていた、4月4週目の土曜日。病に伏していた陽太の元に、ある人物が病室に尋ねにくる。
『君が例の患者かい? いっや〜、『医学の大御所さん』にお願いされたら無視するわけにはいかなくてさ〜。急遽、君を担当することになったんだ〜、よろしく〜』
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……陽気な声が病室の外から聞こえてくる。声の主は、勢いよく病室の扉を開ける。……学校に初めてきた小学生じゃないだから……と陽太は内心思いながら、自身のことを担当することになったという女性に視線を向ける。豊満な身体つきだ。女性として完成されている。それでいて、手足は彫刻のように美しい。汚れのない白いキャンパスのよう。青い双眸は、凛としていて気高さを感じさせる。……陽太は、その容姿と発言のギャップに、少々驚いた。
「……なにさその目は。まるで変人を見る視線じゃないか、それは。ああ、私の服装が不思議?」
「いえ……別に」
少年は女性に向けていた視線をずらしながら、小さく呟く。病室を訪ねてきた女性は、白い病室には似合わない、派手でふしだらな服装に身を包んでいる。デニム生地のハーフパンツに、へそが見える丈のTシャツは、扇情的なものを感じさせる。
「自己紹介を済ませておこう。私はシエル。偉大なる医脳からの指令を受けて、貴方を視察することになったさすらいの看護師です」
シエルは黒く、艶やかな髪を揺らして、右手を腰にあてる。
「貴方は大変珍しい病に罹患していると聞いています。
珍しい物好きの私からしてみれば、お宝のようなものなので、推薦がなくともいずれ自分で視察しにくるつもりでしたけど……まあ、予定が早まったってことでね」
看護師を名乗る不審者は、陽太に意識を向けることなく、寝台の隣に置かれた丸椅子に座る。その所作は、やはり慎ましい女性を感じさせる。
———服装に気は遣わないのか、と陽太は内心考えていたが、口には出さないことにした。
「さて、診問でも始めましょうか。難しいことは要求しません。ただ私の質問に答えてくれれば結構ですので」
「……はい」
———どうせ診てくれる先生が変わっても結果は一緒だろう……と陽太は懐疑心を抱いていたが、渋々、看護師を名乗る不審者の診問とやらを承諾する。陽太はそれを無駄と疑っていながらも、人の善意を無碍にすることはできない。結果には期待せず、不審者の診察を受けることにした。
「では早速。貴方が罹ったというその病……症状はいつから?」
「今年の一月からです」
「災難ですね。で、この3ヶ月間で病状の改善は見られない、と」
「先生もお手上げみたいで……」
「……まあいいでしょう」
シエルは一瞬、寝台で寝たきりの陽太に目を向けて、即座にカルテに視線に戻す。
「結論から言うと、貴方の病気は地球由来のものではありません」
「———は? なんだって、今、せんせい」
陽太は、シエルから放たれた言葉の意味を理解することができない。『地球由来のものではない』。その言葉は———本当にそのままの意味なのか? 陽太は頭の中で思考を巡らせる。シエルは右脚を左脚の上に乗せて、さらに脚の付け根を支えに頬杖をついて、先ほどの衝撃的事実について語り始める。
「貴方の病気は地球由来のものではありません。一般の医師団では、散々リソースを費やして『わかりません』と結果を投げるのが限度でしょうけど、私たちはその先をいっています」
理解の追いつかない陽太を置き去りに、シエルは一方的な語りを続ける。
「視点の多さの違いですね。彼ら医師団は地球規模でしか物事を量れない。可能性の数を絞っているから、結論に達することができないんです」
「…………?」
「たとえば、貴方の左腕。尋常じゃないくらい壊死してるでしょう」
「な、なんでそれを!」
「調査書です。院長に頼んで、作らせました。貴方の腕の損傷ははっきり言って異常です」
それからも話は続いた。陽太にとって一番気になるのはやはり、『自分の患っている病気が地球産のものではない』という話だった。
では、どこからやってきた病気なのか?
これが次にやってくる妥当な疑問である。が、シエルはその答えを彼に教えることはなかった。
『……と、いっても。我々もその正体までは掴めていない。
ただ、似たような事例が昔あってね』
シエルは口角を上げて、肩にかけていたリュックから取り出した『文書』に視線を落として語り始める。
それは300年以上昔の話。曰く、シエルが属する界隈では有名な『事件』。嘘か真か、その真偽さえ不明の大量死滅事例。専門の調査団が設けられたらしいが、たった一つの成果しか挙げられていない。それこそが、シエルの取り出した『文書』。フランスを中心として起きた『黒の17世紀事件』についての記録である。
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「なんですかそれ」
口を開けたのは陽太の方だ。先の『地球産の病気じゃない』発言に驚かされ、さらに『過去の事例』の提示までしてきたシエルに対して、得体の知れない恐怖を抱いている。
「この記録に似たようなことが書かれています。翻訳すれば、『この病の患者は、特定箇所に極端な壊死を有する』的なことが。ほら、今の貴方の状況と似てません?」
シエルは補足説明を加える。それを受けて、陽太はハッとする。
「まあ確かに似てますね。左腕しか壊死してませんし……」
「そう、そこがおかしいんです。地球上のウィルスが発生させる壊死とは明らかに違うのです。■■さんは医学の意識はお持ちで?」
「いや、まったく……」
「では結構。私が説明します」
シエルは長い髪を手の甲で持ち上げて、『文書』に視線を向けながら語り始める。
壊死。細胞の死であり、組織の破壊であり、修復不可能かつ干渉不可の呪い。世代交代のための死……つまりは、後継がいる細胞の死。これを業界ではアポトーシスとも呼び。後継がいない細胞の死。永久的な身体機能の剥奪。これを業界ではネクローシスと呼ぶ。そした壊死というのは、一度起こってしまえば連鎖的に起きてしまう事象。腐ったみかんのように、他の部位を侵していく。なので、自然に壊死が収まるなんてことは起き得ない。シエルは、その点をおかしいと指摘する。
「……地球上の『壊死』とは道理が違う。その相違点が、過去のフランスの事例と似通っているんです」
「はあ……」
頷きながら話を聞くことしか、陽太はできない。
「俗に言うフランス事変。文芸復興の裏に隠された惨劇。
……『壊死』の流行病です」
フランス事変。そんな出来事、教科書にも載っていなかったし、塾でも習わなかった。
「……シエルさん。貴方は一体何者なんですか? 僕の勘ですけど、一般人ではない、ですよね」
「いいえ、私は一般人ですよ。ちょっと住んでる世界が違うだけで」
「嘘だ。普通の人ならそんな結論、出せるわけない!」
「———まあ、信じ難いのは理解できます。それに、あくまで私の意見は推測です。根拠は一つも提示できませんし。まあ、その真偽を暴くのは貴方自身です」
「……!」
「そう言う人間でしょう、貴方は?」
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2015年4月末。
病棟のボイスレコーダーの記録より。