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普段ならお茶をしている間には近づいて来ない夫が来たことでイレットは訝しんだ。
その後ろに領地に隠居している祖父母の姿を見てイレットは顔色を悪くする。
夫であるヘイデルは当主ではあるが出自は分家だ。
一度、家を離れたとはいえアングサッド家の直系だという意識があったから我が儘も押し通した。
「お、お祖父様、お祖母様、お見えになるのでしたらお知らせくださればよろしいのに」
「きちんと当主であるヘイデルには伝えましたよ」
「っ」
素知らぬふりで視線を合わせようとしない夫をイレットはいつものように睨みつける。
しかし祖父母がいると思い出すと淑女としての笑みを向ける。
「常日頃から貴族婦人として、当主を支える妻として心得ていれば何も慌てることはありませんよ。それとも何か疚しいことでもあるというのですか? イレット」
「い、いえ」
「ヘイデルから聞きましたよ。コリーナに縁談の話が来たと、それもコルガング侯爵家というではありませんか。めでたい事とは思いませんか? イレット」
「お、もいます」
「そう。貴女もそう思うのね。それでね、不思議な話を友人から聞いたのよ。なんでもその縁談を壊そうとしている者がいると、聞いたことがあって? イレット」
「それ、は」
挨拶をするために立ち上がる機会すら失ったイレットは祖母からひとつひとつ確認される。
自分が他の貴族たちに手紙を送っており、その内容まで知られていると悟ったイレットは言葉を失った。
詳しい話をすると促されてイレットは祖父母たちと共に応接室に入る。
ヘイデルはイレットが手紙を送っていた相手に謝罪するための手紙を書くために席を外していた。
「イレット、息子夫婦もわたくしたち夫婦も貴女に貴族としての責務と義務を教えたと思っていたわ。民から納められた税で遊んで暮らすものではないと」
「遊んで暮らしてなどいませんわ。きちんと」
「きちんと? 交友のある婦人たちとおしゃべりをすること? 夜会で着飾ってダンスを踊ること? 貴女、領地の孤児院を回ったことはあって?」
「えっ?」
「慰問することが義務だとわかっていて? バザーで刺繍入りのハンカチやレース編みを寄付することも必要だと、そう教えてきたはずよ」
イレットも幼いころは姉たちに連れられて孤児院に通っていた。
だが、幼いがゆえに何故、孤児院に行かねばならないのか分かっていなかった。
分からないまま伯爵家に養子にいき、そこでは伯爵夫人がその責務を担い、何度かイレットを誘っていたが何かと理由をつけて断るイレットに諦めてしまう。
実家に戻ってからはヘイデルがフォローしており自由気ままに過ごしていた。
「だとしてもヘイデルが教えてくれたら良かったのよ。それなのに、わたくしがいなければアングサッド家の当主になれなかったのに、愛妾など作って、子どもまで」
「マーゴット様は愛妾などではありません。きちんと国に認められた第二夫人です。そして、ルキシエル王国の王女様であらせられました」
「あんな女、愛妾で十分よ。人の旦那を色目を使って奪ったのよ。ヘイデルもヘイデルよ。外交に託けて浮気したのよ」
「貴族令嬢としてきちんと教育をしたはずだというのに忘れているのね」
「お祖母様」
「貴族の結婚は政略であることが多いわ。だから二人子どもができたら夫婦共に恋人を作っても構わないと、それに当主に限って複数の妻を持つことも認められている。法律によってね」
きちんと籍を入れることは珍しいが外に恋人がいるというのは珍しいことではない。
さらにヘイデルはイレットのことを立てて外交先の王女から言い寄られても妻がすでにいるので、と頑なに固辞していた。
その誠実さに王女も最初は身を引いたが、諦めきれずに好意を伝え続ける。
そこに両国の思惑が重なり、王女をスカラッタ王国に嫁がせる代わりに、有事の際はスカラッタ王国からの援軍を送るという話がまとまってしまった。
普通なら王女が嫁ぐのは王族なのだが、当人がヘイデルのことを愛しており、ヘイデルも一年も顔を合わせていれば絆される。
「だとしても本当に二人目を持った貴族は少ないわ」
「そうね。でも国からの命令に逆らえばアングサッド家は没落していたわ」
ヘイデルとマーゴットは確かに愛し合っていたが、それもヘイデルが外交官として滞在している間だと割り切ってもいた。
そこに国の命令を交えたことで事態が複雑化しただけのことだ。
マーゴットはヘイデルの妻であるイレットのことを立てて表には出ようとしなかった。
「ルキシエル王国の王族の血を引くコリーナは両国の友好の証でもあるの。それを害することがどれほどのことか分かっていて?」
「だ、だとしても、サンドラでもいいじゃない。同じ侯爵家なのよ」
「イレット、わたくしの質問に答えなさい。コリーナを害した者はどのような処罰を受けるか」
「りょ、両国の友好にひびを入れたとして、貴族籍の剥奪」
「それですめばよろしいですけどね。よくよく考えなさいね。貴女の考えなしな行動でサンドラの嫁ぎ先はまともなところは望めないでしょう」
サンドラを妻として迎え入れれば王家に対して不敬とも言える言動を繰り返す母親がついてくる。
王家だけではない、ルキシエル王国の王女を蔑むような発言も繰り返している。
これは家の中やごく一部の貴族だけが知っていることで、大事にしたくない貴族たちは知らぬ存ぜぬを通していた。
「どうして」
「貴女が出した手紙ですよ。王家が認めた結婚に対して不満があるとわざわざ手紙にする。今や公爵家、侯爵家はアングサッド家を見放しています。交易に関してはヘイデルのことがありますので続いていますが、社交界に関してはどの家もアングサッド家を招待しないでしょう」
「侯爵家を締め出すなんてあり得ないわ」
「アングサッド家の不興よりも買いたくない不興があるのでしょう。今までは家の中でのことと何も言わずにいました。貴女が自分自身で気づくまでと、ですが悠長なことを言っていられなくなりました」
「ヘイデルが悪いんじゃない。ヘイデルがわたくしを愛さないから」
「従順にあれとは言いません。しかし、貴族としての責務を放棄した者を愛せるはずがありません。これからはわたくしの傍にいていただきます。いいですね」
婚約が正式に結ばれるまではイレットに邪魔をさせるわけにはいかない。
長男は母親の行動に嫌気がさして入学と同時に寮に入ってしまった。
サンドラはコリーナのことを嫌ってはいるが、視界に入らなければ何もしない。
今はイレットに隠れて子爵家の次男と交際をしている。
勝手気ままな生活ができなくなったイレットは不満を溜め込んでいたが、祖母に直接言う気概は無かった。
代わりにヘイデルに祖父母に領地へ帰るように言えと顔を合わせるたびに言うが、分家出身の自分が養父母に意見を言えないと躱されている。
マリーに連れられて手紙を送った相手に釈明をする日々を過ごしている。
「お久しぶりですわね、マリー様」
「ご無沙汰をしてしまって申し訳ないわ」
「いいえ、こうやって来てくださったんだもの」
「そう言っていただけると嬉しいわ。それで孫娘のイレットが送った手紙なのだけど」
祖母に連れられて参加するお茶会では、手紙の内容はお腹を痛めて生んだ娘可愛さで書いたことで大目に見てほしいという説明行脚だった。
イレットは黙って座っているだけで一言も発言を許されなかった。
相手が同じ侯爵家のこともあれば格下の伯爵家のこともあった。
プライドだけは高いイレットは伯爵家に謝罪とお願いをするということが我慢できない。
久しぶりに旧友を温めるからとイレットは先に家に帰された。
疲れたイレットは自室に戻るために階段を上ると着飾ったサンドラと出会う。
数か月ぶりに会った娘だが、夜会も無いのに違和感があり声をかけた。
「サンドラ、その恰好はなんです? 今日は夜会も無いでしょう」
「恋人に会いに行くのよ。時間に遅れるからそこをどいてお母さま」
「ちょっと待ちなさい。恋人なんて聞いていませんよ。相手は誰です?」
「子爵家の次男よ」
「ししゃく、け・・・じなん? あり得ないわ。即刻別れなさい」
「何よ。お母さまは言ってたじゃない。政略結婚なんて愛のないものではなくて、本当に自分を愛してくれる人と一緒になりなさいって。だから私は私を愛してくれてる人と一緒になろうと選んだのに、あんまりだわ」
サンドラは階段を下りると用意されていた馬車に乗り込んだ。
その様子から昨日今日の付き合いではないことが分かり、イレットは慌ただしくヘイデルのいる執務室に向かう。
ノックもせずに扉を開けるということが不調法であることは抜け落ちている。
「どういうことですの」
「なんだ?」
「サンドラのことですわ。よりにもよって格下の子爵家の次男・・・長男ではなく次男が恋人だと出かけたではありませんか」
「そのことか。今更だと思うが、サンドラは付き合い始めた当初に相談したと言っていた」
「なんですって?」
「夜会で夜風に当たっているときに声をかけられたと、そして相手は子爵家で次男だから好意を寄せられても侯爵家である自分とは釣り合わない、と。それで母親である君から断りを入れて欲しい」
サンドラの婚約者探しに躍起になっていたころにそんな相談をサンドラから受けたような気がしたイレットだ。
身分差にめげることなく声をかけられるくらい魅力があると箔がつけば良いと思いイレットは交際は許可した。
それはサンドラにとって将来を約束しても良いと解釈することになり今も続いている。
「すでに子爵家からは婚約の打診があるが、それはサンドラ自身が断っているらしい」
「当たり前です。あの子には相応の身分を持つ男性に嫁ぐべきなんです。それを領地も持てないような男ではサンドラが苦労することは目に見えています」
サンドラが婚約を断っているのは求婚されることに喜びを見出しているからだ。
子爵家の次男が根気よく付き合っているのは、いずれ結婚すれば莫大な持参金が手に入るという打算的思考があり、サンドラを心から愛しているわけではなかった。