9 元気
「完全復活しました」
扉に寄りかかりながら腕を組んでいるエリアスが宣言した。お互いの面識を確認した次の日の昼、おはようと言いあった直後のことだ。
席についてオーナメントを弄んでいたテオドゥーロは少し固まったあと、「えっ!?」と立ち上がった。
「ふ、復活って死体からってこと? 悪い俺また食べてた? 無意識に食べてた? 寝てるうちに食べてた?」
「違う違う、精神的な意味で」
「なんだよびっくりした……」
テオドゥーロが放った軽いパンチをエリアスが笑いながら手のひらで受ける。
昨日、結局二人は夜通し語りあっていた。
「化物になった俺でも仲良くしてくれる?」
そう問うたテオドゥーロに、エリアスが苦笑したまま「いやそれは当たり前だろ……」と告げたからだ。
「しょうもないこと聞くなよなあ……」
「なーんーで呆れてんだよ! てかその顔絶対納得してないだろ!? なんで自分のことは号泣で俺のことは即受け入れてんだよ!」
「俺の問題とお前の現実は別じゃんか。テオが化物だろうと魔物になろうと気にしないよ。大体人食いになってたことよりアホだったテオドゥーロがそんな貴族みたいになってるほうがびっくりするわ……」
「おまっ、お前ええええ! 心配したのに! 俺一生懸命慰めたのにーッ!」
お子様よろしく癇癪を起こしたテオドゥーロは毛布を取り上げてエリアスをぐるぐる巻きにした。案の定無抵抗を決め込むエリアス。しばらく様子を見てから身柄を掘り出すと、どうやら涙は跡だけを残してなんとか止まっている。
テオドゥーロは上品にハンカチを開いて顎に残る水滴を取り、優しく目尻をぬぐってやったあと、残りの跡は力任せにめちゃくちゃにしてやった。ついでに両手で髪もぐしゃぐしゃにした。
顔を合わせたふたりはどちらともなく噴き出して、エリアスは眉を下げて静かに、テオドゥーロは花が開くように笑った。お互いの心境や姿、そして肉体がどう変わろうと、懐かしい友情だけは変わらないことがわかって嬉しかった。
「エリアス今貴族っつったけど本当にそーなんだからな。アホのテオドゥーロはなんとノーアン王家の親類の息子ってことになってたんだぜ」
テオドゥーロは言う。
両親を亡くして孤児院に入った直後に人攫いに遭って奴隷になったこと。大体今の見た目の年齢になったころに病気になってゴミのごとく捨てられたこと。ゴミ捨て場で高貴な錬金術師の夫婦に身体を拾われたこと。
その夫婦にあらゆる機械やら魔物やら術式やらと結合させられ合成獣として蘇生したこと。
夫婦は息子を亡くしたことが受け入れられず面影のある誰かを身代わりにしたかったらしいこと。不老のキメラのまま十年ほど夫婦の息子として過ごしたこと。
食人衝動に気づいて夫婦も使用人も全て食べてしまったこと。
以後ひとりでこの豪邸に暮らしていることなどを、軽い口調で話した。
一通り話を聞いたあと、泣き止みはしたものの未だ表情に暗さの残るエリアスは、この世の終わりのような声で呟いた。
「お前がいなくなって……どんだけ探しても見つからなかったけど……やっぱり奴隷にされてたんだ」
「ん、大変だったよ。捕まって即声帯潰されて売り出し文句『絶対に反論しない奴隷です!』だからな。物理かよ! って。"お父様"と"お母様"にキメラにされるまでずっと一言も喋れず生きてきたんだぜ俺、想像つかないだろ!」
テオドゥーロは明るく笑ったがエリアスは憮然とした顔だ。テオドゥーロが失踪した当時、戦争を控えた情勢も相まってエリアスにはなんとなく『誘拐されて奴隷にされたのだろう』とわかっていた。わかっていたのにどうにもできず、案の定奴隷として手酷く扱われていたことに無力感と落胆を覚える。
今でこそ彼は笑っているが、さぞ苦しい思いをしたことだろう。エリアス自身も似たような扱いを受けていたからこそ、やりきれない思いが湧いて止まなかった。
エリアスは悔しい気持ちを噛み潰しながら「喉治してもらったの?」とせめてもの明るい話題を振った。
本当は、誰かの身代わりとして蘇生させられ食人を快楽とするような化物に変えられてしまったことにも憤りを感じていたが。
エリアスの心中が世界の破滅みたいなことになっているとはつゆ知らず、テオドゥーロは無邪気に首を傾げた。
「治ったんかなー? 『声が出るようになっただけ』だと思うよ。今の俺のこの声、本来の声じゃないかもね」
あーあー、とテオドゥーロが発声してみせる。
エリアスとテオドゥーロが一緒に過ごしていたのはお互い声変わり前で、声までは正確に思い出せない。すらりと背が伸び優雅な立ち振る舞いも身につけた今のテオドゥーロは、明るく適度に低くさっぱりとした声をしている。
姿に対して何も違和感がない、むしろよく似合った声だが、エリアスは『件の息子に似せて調整された声なのだろうか、そんなところまで他人のエゴの犠牲になっているのか』と地獄の底のような気持ちになっていた。
全てを悪い方向に捉えてしまう程度には、エリアスのメンタルは死んでいた。……ことを、本当はテオドゥーロなりに察していたのかもしれない。テオドゥーロはエリアスの頬をつつきながら笑いとばした。
「ま、しゃべれんなら何でもいーわ! せっかく再会できたのにお前の名前も呼べなかったら悲しいしな!」
「俺だってわかんなかったくせに……」
「だから生きてると思わなかったんだって。悪かったって、許してくれよー!」
両手で肩を掴んでがくがく揺さぶる。子供の頃から比べればお互い大きくなったはずなのに、『エリアスちっちゃくなったなあ』と思った。
テオドゥーロ自身が気にしていないことを気に病んで落ち込んでしまう親友を見ていると、ふつふつと暖かい愛しさが湧いてくる。伏せられた視線を隠す黒い睫毛を眺めながら、あーこいつ本当美味しそうっていうか美味しかったっていうか見てると腹減るわー、と思った。
今すぐ首をねじって千切れた動脈に口をつけて全身の血を飲み干したい。抉った眼球を口の中で転がしてめいっぱい玩んでから潰したい。歯で肉を骨から削いで、骨だけになったらそれすら噛み砕いて呑み込みたい。
しかし相手がいつになく落ち込んだ幼馴染なら話は別だ。食べるわけにはいかない。食べても元どおりに生き返るならよくない? という明け透けな下心もなくはないが、それをエリアスに伝えて悲しい顔をさせるのは本意ではなかった。
強気で聡明だったはずの親友はただでさえ心身ともにすり減りきって小突いただけでも死にそうなのだ。自分の欲を満たすより相手の幸福を優先したい――テオドゥーロが永らく失っていた、あるいは奪われて久しかった感情のいくらかを自然と取り戻す程度には、彼にとってエリアスは大切な存在だった。
「エリアスは? 元気だった――わけないか。話すの辛かったらいいよ」
体を揺さぶっているうちに肩から落ちた毛布を改めて被せる。
吐き出すことで楽になれるとは限らない。テオドゥーロは無理にエリアスの顔をあげさせたりはせず、安心させるようにぽんぽんと軽く頭をたたいてやった。
エリアスは深いため息とともに溶けるように囁いた。
「……元気だったよ」
「いや嘘つけお前」
「ふふ。うん、嘘。元気なんて……一日も湧いた覚えない。ずっと面白おかしく殺されてばっかだったよ……」
エリアスはぽつぽつと語った。
戦争に駆り出され捕虜になったこと。余興で施された不老不死の魔術に中途半端に適合してしまったこと。
不死の身体を兵器に応用できないか、偶発的だった不老不死の術を技術として確立できないか、魂の存在を明らかにできないか、等々あらゆる実験の被験体にされてきたこと。どの実験も今ひとつ成果をあげられず、その憂さすら散々その身に受けてきたこと。
だんだんと実験体から見世物へ、扱いが変わっていったこと。
様々な団体や『飼い主』の元を転々と売られてきたが、あるきっかけにより逃亡に成功し、ここまで人目を避けて餓死や凍死を繰り返しながら逃げてきたこと。
「そんで優しい人に拾ってもらったと思ったらまさかの幼馴染でしたとさ。終わり」
「二回もぶっ殺されときながら俺のこと『優しい人』って表現するあたりお前の人生の苦労が垣間見えるな。
そっか……、行き倒れてたエリアスを拾ったとき『危なく凍死するとこだった』って思ったんだけど、エリアスにとっては日常茶飯事だったのか。辛い旅してんなあ……」
「んー。今回は雪山入ってすぐ追い剥ぎに殺されたから、ずっと薄着だったしな……。そこそこのスパンで死んでたよ」
「めっちゃかわいそう。好きなだけ服持ってけよ……ん? お前そんな状況だったのに俺のお気に入りの服にケチつけたのかよ! テメー!」
「ふはっ、バレちった」
黯い表情でなるべく簡潔な言葉を選びながら語っていたエリアスがここでようやく笑った。テオドゥーロももちろん本気で怒っているわけではない。目の前の彼の表情が綻んだことにほっとして、つられて口元が緩んだ。
エリアスはテオドゥーロの後ろ髪を手にとる。生まれつきの癖が残ってはいるものの、長い赤髪は少しも指に引っかかることなくするりと滑る。
しなやかな髪を人差し指に絡ませて遊びながら、エリアスは苦笑気味にテオドゥーロを見た。
「俺に着こなせる訳ないじゃん、テオみたいな優雅で綺麗な服。こんなに似合ってるあんたの横でさ」
決して冗談や皮肉ではなく、心からの言葉だった。
幼い日の無邪気な明るさや面影は残っている。人としての倫理観を失った部分はあれど、散々『人ではないもの』として扱われてきたエリアスには些末なことだ。
懐かしい、話していると楽しい。一緒にいられることが嬉しい。それなのにどうしてか隣に並ぶことをためらうような、どこか目を逸らしたくなるような気持ちになる。相反する気持ちがゆるく胸中を満たして、うまく処理ができない。
例えようのない感情は『羨望』と呼ばれるものだと、エリアスは気づけなかった。
「ほんとに似合ってんなぁ……別人みたいだ……」
眩いものを見るように目を細める。
慣れない絶賛の言葉は切なげな囁きとなり、あえかに尾を引きながら部屋の空気に溶けた。
テオドゥーロはそっとエリアスの頬に自身の手を添えた。笑いとばせる場面ではなく、遠慮がちな否定も胸を張った肯定もできず、かけるべき言葉が見つからなかったからだ。
「俺は俺のままだよ?」
呟く。つい先程『変わってしまった』と言ったばかりなのはテオドゥーロ自身も受け取るエリアスもわかっていたが、それ以外に何も言葉が見つからなかった。
矛盾した言葉の芯はエリアスへの気遣いただひとつだ。一緒にいるよ、味方だよ、大丈夫だよ、うまく口にできなかったそんな想いは確かにエリアスに届いたようで、エリアスは微かな声に安堵を乗せて「そう」とだけ呟いた。
沈黙。
ゆるく重い静寂の後に、先に口を開いたのはエリアスだった。
「――会えてよかった」
止まっていた涙がもう一度頬を滑る。伏せられていた視線はしっかりと上がり、テオドゥーロを認めている。深い緑と変わってしまった紫の双眸がまたたくたび、静かに滴が落ちた。
「テオドゥーロが……俺のこと思い出してくれてよかった。
今までのこと全部、やっと……やっと救われた気がした……」
諦めや安堵、消えない徒労感、過去の苦痛、今の虚しさ、確かな幸福感……様々な感情を孕んだ声は、穏やかな溜め息のようだった。疲れきった笑顔ではらはら涙を落とすエリアスに見つめられ、テオドゥーロの胸の内に熱い感情が湧いた。愛しさとも怒りとも悲しみともつかない、複雑な激情が。
「……この程度で救われん、なッ!」
テオドゥーロはエリアスの顔を掴むと思いっきり頭突きをした。二人の目の奥に火花が散る、その火花すら吹き飛ばす勢いでテオドゥーロは大声を出す。ちなみに当のエリアスは頭突かれて「いっ……」とうめいたあとは勢いに気圧されぽかんとしていた。
「まずエルは俺を覚えてたのに俺がエルを忘れてたことにもっと怒れ! 五、六発、いや四、五十発追加で殴れ!」
「そんな殴ったらこっちも疲れるだろ」
冷静な指摘がテオドゥーロを襲う。しかし効いていない。聞いていない。テオドゥーロは強くエリアスの肩を揺らした。
「今まで散々だったぶんこれから取り返すんだろ? じゃあ俺と再会したことなんてスタート地点じゃん! なんかやりたいことないわけ!?
俺はここで暮らして長いから、出来ることもそこそこ分かってるよ。今まで俺がやらなかったことも二人でやれば出来るかもしれないし! てか多分なんでもできるって!」
もうテオドゥーロの主張はめちゃくちゃだった。
ここがゴールだと言ったりスタート地点だと言ったり、許してくれと言ったりもっと怒れと言ったり。矛盾を重ねに重ねる彼だったが、結局言いたいことは最後の一言に集約されていた。
本当はテオドゥーロにとってどうでもよかったのだ。自分が変わってしまったか否かも、エリアスが人間かどうかも、化物であろうが不老であろうが不死であろうが、分かってほしいことはただひとつ。
「だからっ……、だから元気出せよおおおお!」
肩をぐわんぐわん揺さぶられ頭をわっしゃわしゃに撫でられとにかくもみくちゃにされながら、エリアスは遠い昔のことを思い出していた。
子どもの頃、比べようのないほど酷く落ち込んだことが一度だけあった。
テオドゥーロの両親が死んで孤児院へ入るとき、エリアスはどうにかして自分の家で彼を引き取れないか奔走したがうまくいかなかったのだ。
当時ハスタベルク国の情勢は不安定で、彼らの住んでいた街も例外ではなく、孤児院は捨てられた赤子や親のない幼いみなしごの受け入れでパンク状態だった。十歳だったテオドゥーロは年長のうちに入り、加えて既に満員状態になっている施設に無理やり押し込まれる形になる。いい扱いがされないのは目に見えたことだった。
そうどんなに主張しても頼みこんでも、エリアスの両親を含めた大人は誰も手を貸してくれなかった。皮肉なことに、テオドゥーロと死んだ彼の両親は大変仲睦まじく、対照的にエリアスの家庭は淡々としていてあまり良好な仲だとは言えなかった。
――大好きな親を亡くして泣いている親友にできる限りのことをしたかったのに、何の力にもなれなかった。
そう落ち込むエリアスを、テオドゥーロはあの手この手で慰めたのだ。
――俺が気にしてないことでエルがへこむなってば! これからも友達でいてくれれば充分だっつってんのに、なんで納得しないんだお前はぁー!
そう頭突きを食らったことを思い出す。
相手を慰めようとして空回りして落ち込み、逆に必死に慰められるなど、今思えば迷惑な話だ。
それを今さら謝罪したとして、きっとテオドゥーロは『気にすんなよ』と笑い飛ばして、あんまり引きずると最終的に頭突きされるに違いない。あの日のように。今しがたのように。
ふつふつと暖かい感情が湧く。
エリアスは胸中で『やっと救われたんだよ』と繰り返した。
テオドゥーロが行方不明になって、エリアスは散々泣いた。だから言ったのに! と。
思い描いていた最悪の事態がそのまま現実になってしまった。分かっていたのに止められなかった、何も出来なかった、誰より大切な友達を守れなかった。手を貸してくれなかった大人より管理不足の孤児院より、自分の無力さや愚かしさを呪って悔やんで何日も泣いた。
あの日の枯れ果てるような絶望すら、彼との再会で懐かしい思い出へと昇華されてしまった。
変わったけれど変わっていない。化物でも人間だ。目の前の彼は少し成長しただけの、テオドゥーロ=ヴァルガスその人だ。それがどれほどエリアスの救いであったか、アホで友達思いな愛しいテオドゥーロは知らないのだ。
「元気だよ。元気出たよ、やめろ、バカ」
服やら髪やらをめちゃくちゃにされながら、瞳に涙を浮かべたエリアスは笑う。服従と無抵抗が身に染みていたはずの彼が口だけとは言え反抗したのは、テオドゥーロからの愛情がそれだけ手放し難く、愛おしいものだからに他ならなかった。