6 薄情
「なあ、改めて自己紹介させてよ。俺はテオドゥーロ——テオドゥーロ=ヴァルガスっていうんだ。
知っての通り人を食べるのが好き。うっかりこの屋敷に迷い込んだ人とか、そこの森で行き倒れた人とかをね。
エリアスもそのつもりで連れてきたんだ。純粋な善意じゃなくて悪かった」
「行き倒れてたところを拾って介抱してくれたのは事実だし、なんも悪くないでしょ。普通に感謝してるよ。助けてくれてありがとうな」
エリアスは片手で頬杖をついて大人びた微笑をしてみせた。
テオドゥーロが大袈裟に「うっ! 眩しい! いい奴!」と顔を覆う。
「俺人助けしてお礼言われるの大好き。嬉しい」
「いやどの口が言うんだよ」
「エリアスを食べたのと同じ口ですけど」
「こいつやばー」
エリアスが頬杖をついたままケラケラ笑う。
その笑い方が鈴になって胸の内をころころ転がるようで、テオドゥーロは心底嬉しくなった。
——なんか俺、こいつとすごい仲良くなれそうな気がする。こいつの自己紹介が終わったら、ずっとここに居てくれよって言ってみようか。
うわつく心持ちに大げさな咳払いで終止符を打ち、珍しく衣装に似合ったうやうやしい一礼をしてみせる。「おー」と拍手してもらえたのが嬉しかった。
エリアスは首を傾げずに口だけで尋ねる。
「俺も立つ?」
「立たなくていいよ」
「じゃあそのまま。助けてくれてありがとう、テオドゥーロ。俺はただのエリアスだよ。脳より心臓より左手の薬指が核で、死んでも蘇ります。おわり」
「えー?」
既に知っていることだけであっさりエリアスの自己紹介は終わってしまった。
『もっとお前のことが知りたいのに』とテオドゥーロが抗議の声をあげるより早く、エリアスが腕を組み足を組んできっぱりとテオドゥーロに告げる。
「それよりテオ、なんか俺に言うことないの」
その声にはテオドゥーロが口にしようとした言葉よりよほど抗議の意思が詰まっていた。つり目がちなオッドアイにじとっと見つめられ、テオドゥーロは首を傾げる。
出来るだけ丁寧に必要なことは伝えたつもりだった……が、エリアスの目を見ていたら肝心なことを忘れていたと気づいた。
『美味しかった』と感想を口にはしたが、何よりお礼を伝えていなかった。
その命を賭してくれた食材には感謝を、というのは、彼が物心つく前からの考え方だった。丁寧な所作より豪華な歓迎より、心からの笑顔で接するべきだったのだ、きっと!
「——エリアス! ありがとな!」
「違う他に」
「一刀両断かよ」
違った。
渾身の笑顔をばっさり切り捨てられたテオドゥーロだが、髪をしんなりさせている場合ではない。エリアスは腕を組んだまま顎を引いて次の言葉を待っている。大事なご馳走様は機嫌が悪そうだ。
「んー……あ、なんでそんな美味しいの?」
「……」
「あっはい。違うな。そういうことじゃないなその顔はな。えーと……どっから来たんだっけ。帰りたいところある?」
「……」
「髪型変えた?」
総スルーである。
それでも、テオドゥーロを注視する紫と緑の瞳から、無視しているわけではないのはわかった。言い忘れているのは相当大事なことだということも。
不服そうとは言え、エリアスの表情は真剣だった。
——お礼じゃない。謝罪でもない。まだ出会って数日なのに、言い忘れた重要なことなんて他にあるか?
そんな思考がテオドゥーロの思考をかすめ、そして爪痕を残す。
違和感。
まるで、脳の隅に小石が転がってきたような、些細な、それでいて確かな。
何に対するどんな違和感か考えるより早く、エリアスが表情を変えた。空気が抜けたように口元を綻ばせ、強張っていた眉が下がる。
オッドアイの瞳を細めるさまは酷く儚げで美しかったが、姿かたちよりも寂しげなその表情、僅かな感情の揺れのほうが、テオドゥーロの心に強く突き刺さった。
「……そっか」
ささやくより小さな声でエリアスが漏らす。忘れちゃったならいいや、と。
それから机に手をついて立ち上がり、置きっぱなしになっていた服を明るく持ち上げた。
「つーかこのシャツ趣味じゃないんだけど他のねえの? ヒラヒラして女みてー。あんたは立ち振る舞いが上品だから着こなせてもなー、俺みたいのはなー」
へらへらと笑いながら背を向け立ち去ろうとするエリアスの手首を咄嗟に立ち上がって掴む。
思えば、少しずつ片鱗はあった。
彼の匂いを懐かしいと感じたこと。妙に仲良くなれそうな気がしたこと。桁違いなほど『美味しい』と感じた理由はただの偶然だったのだろうか。彼はいつからテオドゥーロを『テオ』と呼び、テオドゥーロ自身も違和感なくそれを受け入れていただろうか。
「髪型……変わったよな。身長差もこんななかった。目の色片方変わった? でも……そんくらいだ……」
振り返らない黒髪の後ろ姿に、遠い故郷と幼馴染の幻が重なる。
利発そうで不敵な笑い方。不機嫌なときも笑うときも目を細める癖のこと。
遥か昔、人ではなく労働力として売り払われたどこかの国で、あるいは初めて人を食べた血溜まりの中で、あいつは元気だろうかとぼんやり顔を上げたことを思い出す。
「……『エル』? お前、エリアス=ハーランドか……?」
核心をついた言葉が部屋の静寂を打ち、波紋となって二人の意識に浸透していく。
しばらく背を向けたまま黙っていたエリアスがついに振り返った。優しげに目尻を下げ、にこりと笑って首を傾げてみせる。切なげな表情に喜色をたたえて——エリアスは思いっきり利き手を振りかぶった。
「そ、う、だよっ、この、薄情ヤローがッ!」
「痛ってえええ!」
二人揃って並んでいた背は今やそれなりに差が開き、エリアスはテオドゥーロより頭半個分ほど小柄である。ついでに痩躯で、身体つきだけを見れば未だに少年と表現しても差し支えない。
そんな体格差を差し引いたとしても、本気の怒りと全体重をかけた一撃は相当に重かった。
不意打ちで頬に渾身のパンチを食らったテオドゥーロは床に吹っ飛ばされる。エリアスは冷酷な真顔で、倒れたテオドゥーロの横を足早に通り過ぎていった。
「もう俺はあんたを一生ヴァルガスさんと呼ぶ」
「痛ってえマジお前……えっ? ちょっ、待ってやだやだエル~悪かったよちゃんとテオって呼んでくれよお」
「嫌ですヴァルガスさん」
「敬語やめてえ」
テオドゥーロは慌てて立ち上がると、すたすたと遠ざかっていくエリアスの前に周りこむ。エリアスの方も本気で立ち去るつもりはなかったらしく、退路を塞がれるとぶすっとした顔で足を止め、両手をスラックスのポケットに突っ込んだ。
喉を食いちぎられようが胸を裂かれようが、椅子ごと押し倒され抱きしめられようが、エリアスは無抵抗を貫いていた。
今も変わらず、確かめるように頬や頭をぺたぺた触られても身じろぎひとつせずテオドゥーロが満足するのを待っている。紫色の左目の下を親指の腹で撫でられたときはさすがに静かに目をつむったが。
テオドゥーロは何度かエリアスの目のそばをなぞる。彼の記憶の中では、エリアスは緑色の目をしていたはずだ。
目の色ひとつのために彼に気付けなかったなどとくだらない言い訳をするつもりもないが、どこか怪奇的な印象を与えるオッドアイはどうしても幼馴染の姿と噛み合わない。
どうして瞳の色が変わったかなど知る由もないのに、テオドゥーロはエリアスの変色した瞳を見て『かわいそうに、辛い目にあったんだ』と思わずにはいられなかった。
テオドゥーロは両手でエリアスの頬を包み、顎を上げさせる。エリアスはまっすぐに視線を返した。
「あの……ごめん。エル? ほんとにエルなんだよな? 面影あるけど。強気でチャラいとことか笑い方とかすごいエリアスだけど。ああ、お前だって気づいたら何から何まで本人だけど……ほんとに?」
「俺以外であんたを『テオ』って呼ぶ黒髪のエリアス=ハーランドがいるなら知らね。違う人なんじゃん」
ふてくされた返事が投げ返される。
「でも」
テオドゥーロはなおも食い下がった。本当に目の前の男が幼馴染の彼ならどんなに幸せなことか。そう思うだけに、喉に引っかかる疑問を吐き出さずにはいられなかった。
「エルといた頃からもう百年以上経ったのに……」
エリアスの身体が急激に強張る。「は?」と小さく漏れた吐息は、テオドゥーロには届かなかった。
テオドゥーロは泣き出しそうな笑みでエリアスの額に自分のそれを重ねる。
「俺、エルが生きてると思わなかったんだ。それもこんな同い年くらいの姿で。俺ら十歳とかその程度だったよな? ああでもそっか、今のエル死んでも生き返るのか。だからまだ生きてるのか」
「ちょ、ちょっと待って。テオ、離して」
エリアスがテオドゥーロの背中を叩く。テオドゥーロが身体を離すのを待たずに、エリアスは声を震わせながら笑った。
夥しい血を流しながら身体を食べられたときより余程全身の血の気が引いた。
「百年? 何言ってんの?」
「え?」
「いや『えっ』じゃねえよ。俺ら……せいぜい十六とか十七だよな?同い年だったじゃんか。百年って……何……?」
テオドゥーロの疑問が『信じたい』と願うものだったとしたら、エリアスの疑問は全くの対称で、『信じられない信じたくない』といった怯臆が明らかに滲んでいた。
テオドゥーロは昔からエリアスが狼狽するところをほとんど見たことがなかったし、再会してからなどは半身を食われても不敵に笑っていたはずの男だ。
その彼が縋るように自分を見上げ、手を震わせながら衣服を掴んでくる。
ああ、こいつにも色々あったんだ、と思った。
「——もう少しゆっくり話をしようか。自己紹介なんかいらなかったな。知ってること説明するよ。お互い、身の上話をしよう」
テオドゥーロは片手をエリアスの手に重ね、もう片方の手で短い黒髪を撫でた。
生きている人はかわいい。
かわいい人は美味しい。
他人に対して長らくそんな感情しか抱いていなかったテオドゥーロは、苦しそうなエリアスの表情に自身の胸が締め付けられる意味がわからず、余る想いをどうにかしようとエリアスの身体を抱きしめた。