5 ワンモらない
雪に真っ赤な足跡がつく。
煌めきを纏うような、無数の小さな血痕を伴って。
泥だらけの子供のような笑顔のテオドゥーロは両手でエリアスの薬指を握りしめ、羽根のはえたステップで屋敷に舞い戻った。
暖炉にたくさん薪をくべて部屋を温め、熱くしたお湯で贅沢に返り血を流し、手持ちの服の中で二番目に気に入りのものに袖を通し、一番気に入りの服は綺麗にたたんでテーブルの上に置いておく。とっておきのシャツは彼に貸す用だ。
ついでに小さなモミの木をかたどったオーナメントやキャンドルや拾ってきた木の実なんかも机の上に飾っておいた。
全ては彼の帰りを思いっきり歓迎するためだ。
うきうきと準備をする間テオドゥーロは片時もエリアスの薬指を手放さず、嬉しそうに握ったりポケットに入れておいたり、何故か頭の上に乗せて歩いたりしていた。
「さあ、帰っておいでエリアス」
思いつく限りの飾りつけを終えたテオドゥーロは、優しくひいたやわらかいシルクのハンカチの上に、冷たく固くなった肉片を置いた。引きちぎれた断面から滲んだ血が純白のシルクをわずかに赤く染める。
——エリアスって死んでもまだ周りに美しく色をつけられるんだ。すごいなあ。なんてかわいい死体なんだろう。
しかも、これから生き返っちゃうなんて。エリアスはほんとにかわいいな。
テオドゥーロは両手で頬杖をつくと愛しいご馳走様の帰りを今か今かと待った。
しかしどれだけ熱視線を注いでみても、満面の笑みがだんだん真顔に戻っていっても、両手でついていた頬杖が片手になっても、まばたきの回数が増えても、ついに待ちくたびれて机に伏せてしまっても、エリアスは戻ってこない。
テオドゥーロは机につっぷしながらぐるぐると不安を巡らせていた。
——薬指じゃなかった? 左手じゃなかったとか? いや、確かに口では言ってなかったけど、あの指で間違いない……はずなのに。
なんで全然戻ってこないんだろ。こんなに時間かかったっけ? また埋めなきゃいけないとか? 俺がなにか間違えたのかな。
エリアスは戻ってくるつもりだったのに俺が間違えたから戻ってこれないのかな。もう戻るつもりなかったのかな……。
悲しいからか眠気なのかだんだん目蓋が重くなる。いつの間にか沈んでいた夢の中でテオドゥーロは、何故か子供になったエリアスと走り回って遊んでいた。
懐かしい匂いがする、と思った。
テオドゥーロの屋敷にあるどの香水とも違う匂い——あるいは"気配"と形容してもいいかもしれない。もしくは影と形容できるかもしれない。というか感触すらあるかもしれない。
「……ん?」
長い赤髪をいじられているような気がして、テオドゥーロは重い目蓋をあげる。ついでに顔もあげると、正面に座ったエリアスが、インナーのつもりで用意した長袖のカットソー一枚で微笑んでいた。
「おはよ、テオ。やっと起きたな」
言いながらエリアスはテオドゥーロのしっぽ髪をぱっと机の上に離す。リボンでひとつに纏めていたはずの髪は、『辛うじて三つ編みにしたかったのだろうとわかる程度』にぐちゃぐちゃになっていた。
エリアスの手先が壊滅的に不器用だったのかわざとぐちゃぐちゃにしたのかは分からなかった。
「……エリアス」
「そうだよ。なんだよまた同じやりとりすんのか?」
「……っ」
胸に熱い感情が込み上げてくる。立ちあがる勢いで椅子が倒れる、それどころか衝動に任せて机を踏み越えエリアスに両手を伸ばす。飾ったオーナメントが倒れて割れるのも気にせず、テオドゥーロはエリアスの首元にきつく腕を回した。
椅子ごと押し倒されたエリアスは背中に受けた衝撃に目を細める。椅子の背もたれの装飾のところが背骨に当たってめちゃくちゃ痛かった。
が、それだけだ。
予想していた裂傷の痛みも喉にせり上がる血の感覚もない。
「——あれ? 食わないの?」
無言で肩にぐりぐりと額を押しつけてくるテオドゥーロの背中をポンポン叩く。
「おーい」
離れない。
子供のように抱きついてくるテオドゥーロに困惑しつつ、とりあえずされるがままになっていると、突然テオドゥーロが体を起こした。
「おかえり!!」
そう叫んだテオドゥーロの瞳にはうっすら涙すら浮かんでいる。単純に歓迎されるとは思ってもみなかったエリアスは、不意を突かれて言葉を失った。
胸がじんわり熱を持つ。つられて涙が出そうになるのをこらえて、エリアスは軽く笑ってみせた。
「はーいただいまー」
「おかえり、おかえりエリアス! もー戻ってこないかと思ったよ超不安だったよ帰ってきてくれてよかったー!」
「あはは、そんな?」
「そんな!」
テオドゥーロは改めてエリアスを抱きしめた。笑いながら二度もその命を奪ったとは思えないほど、愛おしそうに首元に頬ずりをする。くしゃくしゃになったテオドゥーロの髪からもエリアスの肌からも血の匂いはせず、ほのかに上品な香水のかおりがした。
どこにも殺意がない、とエリアスは思った。触れる身体にも声色にも、暖かい部屋の温度にも、空気にも。悪意はなくとも確実にエリアスを狙っていたはずの殺意が、どこにも感じられなかった。
「テオ、もう腹いっぱいになった?」
自分を取り巻く空気があまりにも柔らかい。慣れない間が気まずかったエリアスは話題を逸らした。
テオドゥーロは元気よく「ならない!」と大声を出した。
「腹いっぱいには全然ならないけど、食べるよりもエリアスと話がしたくて。お前ちょおおおー美味しかったぞ!」
「美味しかったは初めて言われたわぁ。喜んでもらえて嬉しいよ」
「俺も美味しかった人に『美味しかった』って言ったの初めてだよ。エリアスが歴代ぶっちぎりで一番美味しいけど。
なあ、お前死んでも蘇るの?」
「蘇るよ、何度でも。死体がこま切れにされたって左手の薬指さえ残ってればね」
「すげえ……」
赤銅色の瞳を煌めかせてテオドゥーロが呟く。
高い身長や高貴な服装からは想像もつかない無邪気な反応に、エリアスは軽く噴き出した。
「エリアスお前かわいいなあ~生きてる~なんてかわいいんだお前~」とよくわからないことを口走りながら、テオドゥーロはエリアスの頭をこねくり回す。
しばらくこねて満足したらしく、テオドゥーロは立ち上がって倒れた椅子を元に戻し、しっちゃかめっちゃかになったテーブルの上を軽く片づけ、乱れたジャケットの襟を正した。
椅子を引いてエリアスに着席を促し、彼自身はその向かいに立つ。エリアスが三つ編みを試みてぐちゃぐちゃにした後ろ髪を手櫛で整えリボンを結び直してから、テオドゥーロは凛とした顔で切り出した。