3 食卓は幸福
なんとエリアスの体調は3日足らずで全快した。
「マジぃ?」
「俺生命力つえーからさ」
「マジかよぉー」
行き倒れていた日は死んだように眠りこけ、次の日もずっとぐったりしていたのにも関わらず、その次の日には元気にベッドの上で足を組んでいた。
弱々しかった目元はつり目気味のキリッとした印象に変わり、口調も笑い方も年相応——テオドゥーロと同じく17歳程度だろう——な力強さを取り戻している。短くすっきりした黒髪に深緑と紫のオッドアイ。どことなくミステリアスな雰囲気を持つ彼は、一言で言うとイケメンだった。
「マジかよお前怪我とれたら超かっけーじゃん」
「あはは、あんたほどではないかな」
リボンでひとつに纏められたテオドゥーロの後ろ髪を手に取ると軽く目をつむって口づけしてみせるエリアス。所作もイケメン……というよりチャラかった。
テオドゥーロがわざとらしく目を輝かせて乙女よろしく両手を口元に持ってくる。ぴょんぴょん跳ねた赤銅色のくせ毛には段がついていて、長い部分はビロードのリボンでひとつに結んで背中に流している。臙脂に薄いストライプの入ったベストに胸元には黒いリボン、足元はヒールのついた黒い革のロングブーツと、全体的に貴族然とした格好だ。それでも、彼の豊かな表情が服装のかたさや高飛車さをうまく消していた。
丸い瞳や人懐っこい性格とあわさって、エリアスには彼の後ろ髪が犬のしっぽのように見えた。
「はわわー」
テオドゥーロが裏声で恋に落ちた女の子の真似をしてみせると、今度こそエリアスは屈託なく笑った。
◆
「……なぁ、恩人のあんたにこんなこと聞くのも悪いんだけどさ。あんた名前なんだっけ」
「俺の名前?」
「そう。出会い頭名乗ってくれたのは覚えてんだけど、あの時頭ぼーっとしてちゃんと聞き取れてなくて」
二人掛かりでエリアスの全身の包帯を外しながら、ふと思い出したようにエリアスが切り出す。
テオドゥーロは手を止めてエリアスを見た。
「拾ってきたときお前死にそうだったもんなあ。そりゃ聞こえないよなあ。俺の名前はテオドゥーロだよ」
「テオドゥーロ」
「そう。言いづらいっしょ」
「テオドゥーロ……」
エリアスは口元に手をあて、何度かその名前を繰り返し、テオドゥーロの顔と見比べる。
不思議そうな顔をする彼に、エリアスは怪訝な顔で首をかしげた。
「俺はエリアスって名前なんだ」
「? 聞いたよ。ちゃんと覚えてるぞ」
「そう……そっか」
「なーんーだよー」
包帯ごしのエリアスの肩に笑いながら拳を押しつける。その手首を両手でつかんで、エリアスは意味ありげに微笑んだ。
「いや、まあ……お礼をしなきゃいけないと思って」
——きた。
と、テオドゥーロは内心湧き立った。
テオドゥーロが行き倒れを積極的に屋敷に迎え入れるのは決して親切心などではない。
感謝され、見返りを得るためだ。
しかし対価を求めていることなど悟られてはいけない、あくまで明るく、愚鈍に。そうは分かっていても、エリアスに握られた手首に汗が滲むのがわかった。
「お礼?」
自分自身の声が上ずっていないかテオドゥーロにはわからない。笑顔が歪んでいないかどうかも。
エリアスは「そう、お礼」と続けた。
「俺さ、今まであんまり優しくされてきてないんだよね。だからテオドゥーロが助けてくれて嬉しかった。役に立てるならなんでもしたいくらい」
「……なんでもとか気軽に言わないほうがいいよ? エリアスかわいいんだから」
テオドゥーロの手のひらが包帯の内側に滑り、鎖骨の上をなぞる。そのまま緩やかにベッドに押し倒しても、エリアスは身じろぎひとつせず「かわいいなんて言うのあんたくらいだぜ」と冗談めかして笑うだけだった。
「……ほんとにいいの?」
恍惚とした顔で、それでも最後の理性を瞳にたたえて、テオドゥーロは尋ねた。エリアスは身体をベッドに沈めたまま蠱惑的に目を細め、テオドゥーロの頬に触れる。その動作と表情は肯定以外の何物でもなかった。
全身の血液が一気に沸きあがるのを感じながら、テオドゥーロは片手でエリアスの目を覆い、そして——ひと思いに白い喉元を噛みちぎった。
食い切られた動脈からおびただしい量の血が溢れ、テオドゥーロの喉を潤す。と同時にエリアスの器官にも血液は溢れ、喉を遡って口から噴き出した。
大きな水泡が湧いたような音の直後、テオドゥーロは目隠しの手をずらしてエリアスの口を塞いだ。もったいない。吐かないで。そう伝えたくても、彼は首元から溢れる血を飲み込むのに夢中だった。手を動かしてエリアスの口を塞いだのだってほとんど反射と言ってもよかった。
燃えるように熱い液体が口腔内を満たし食道を通って胃へたまっていく感触がたまらなく快感で愛おしい。こくんと自身の喉が鳴るたび、エリアスの身体が弓なりに跳ねて痙攣するたび、暴力的なまでの幸福感に満たされて頭がくらくらした。
本当なら血が止まるまで飲んでいたいところだったが、どうしてもゆっくり味わうだけの精神的余裕がない。大きく奥へと噛み進む。血で舌が滑る。肉の弾力と、筋繊維がぷちぷちと千切れる感覚が歯に心地いい。
エリアスの身体が跳ねた拍子に、彼の骨をテオドゥーロの歯が勢いよくこする鈍い振動があったが、それすらもテオドゥーロの食欲と心を躍らせた。骨を噛み砕くあの瞬間、歯に響く硬さと髄の美味しさといったら。
手のひらの下でエリアスが何か喘いでいるがそれどころではない。すっかり傷の治った彼の身体は、これ以上ないご馳走だった。
「て、お……テオ」
体制を変えようとエリアスの上体を起こしたとき、かすかに名前を呼ばれ、テオドゥーロは動きを止めた。
食事を始めてから初めてエリアスの姿をしっかりと見下ろす。少し力を入れればじっとりと血が噴き出すほど濡れたシーツ。血染めの布の中に横たわるご馳走は、喉の右半分と肩から胸にかけてが大きくえぐれ、右腕に関しては影も形もない。早々に千切って完食してしまったからだ。
人型を失いつつある状態でまだエリアスに息があることに、テオドゥーロは少なからず驚いた。『自称・生命力つえーからさ』どころの騒ぎではない。とはいえ、息絶え絶えなのは明らかだ。
テオドゥーロはエリアスの唇に自身のそれを重ね、喉に詰まった血液を吸い出してやった。
「なに? どうした、エリアス」
首の座らない赤ん坊のような彼に優しく声をかけると、酷く虚ろではあるものの視線が返ってくる。
——生きてる。こんなんになってもまだ生きてる。かわいい。かわいいなあ。かわいい、愛しい……。
そんなことを考えながら、テオドゥーロはエリアスの返事を待った。吐息が口からも喉からも胸からも漏れていた。
「ゆび……」
「指? 指がどうした?」
テオドゥーロは自身の右手をエリアスの左手に絡ませ、持ち上げてみせた。
エリアスは絶え絶えに「食べないで」と伝える。口のまわりを血みどろにしたテオドゥーロは、叱られた子供のようにしゅんとした。指は身体中で一番細い部分だ。軽い食感がおやつみたいで好きなのに、と思った。
「左手の指全部?」
未練がましく尋ねるとエリアスは僅かに首を横に振る。
「どれ? これ?」
テオドゥーロが手のひらで優しく親指を示す。エリアスは首を横に振った。
人差し指、中指、薬指まで順番に尋ねて、そこでようやくエリアスは頷く。
「薬指? 薬指だけ残せばいいの?」
もう一度頷く気力の残っていないエリアスは長めに目を瞑ってみせる。それだけで十分合図に成り得た。
言葉を伴わないやり取りはどこか悪戯心をくすぐるようで、テオドゥーロは楽しくなる。
「わかった、大事にするからな。他のとこはどこも残さないから。肉のひとかけらだって全部食べるから……」
好意的な感情を抱くほど、死にかけの肉の塊を愛しく思うほど、テオドゥーロの食欲は膨れ上がり、快感もそれに比例する。
彼の最後の懇願どおり、テオドゥーロはエリアスの左手の薬指を根本から折って引き千切ると、それ以外の四本を一気に噛み砕いた。
事切れたのかどうかはわからない。が、エリアスの身体からはぐったりと力が抜けている。
そんな彼の額にキスを落として、テオドゥーロは嬉しそうに呟いた。
「ご馳走様」