14 イェルド様
早くに目を覚ましてどこかを散策しているのだろう。そんなことはすぐに想定できたし、エリアスが自分を置いて遠くへ行ってしまうとは思えなかった。そうではなくて、テオドゥーロの腹の底が急に冷えたのは、『親友との再会なんて最初からなかったんじゃないか』とよぎってしまったからだった。
思えばあまりに夢みたいな幸福だった。
旧知の友人と偶然再会して、時間の流れを共有できる存在になっていて、ちょうど同い年程度の姿で、自分を覚えていて、殺しても死ななくて、変わり果てた自分を笑って受け入れてくれる存在。
エリアス=ハーランドという名前の……思い出から生まれた妄想?
テオドゥーロはぞっと肌を粟立てる。
今まで忘れていた彼という存在を、思い出しただけなのかもしれない。彼との日々があまりにかけがえのないものだったから、夢うつつになって、『もしも今あいつと再会できたら』と空想していたのかもしれない。本当はとっくの昔に彼は人間のまま死んでいて、化物の自分に親友などいないのかも――。
テオドゥーロはぶるぶる震えながら寝室を飛び出した。
「エル、エリアス! 俺だよ! ただいまっ……どこにいるんだよ? エル!」
名前を叫びながら屋敷を走り回るが、あの黒髪の青年がどこにもいない。慣れた廊下がやけに長く、部屋の一つ一つが地平の果てほど広いような気がした。そうでなければ、返事がない意味がわからない。
都合のいい幻覚だったのだろうか。目に映る微笑も耳を震わせた声も舌を滑る美味も、全て自分で作り出した妄想だったのだろうか。テオドゥーロは浅い息を繰り返しながら、滲んだ涙を強く拭う。幸せにしたいだとか死んでほしくないだとか、一度人としての感情を思い出してしまった彼は、エリアスがいない寂寥を鮮明に想像できてしまった。
「……こんなに呼んでるのに聞こえないの? それとも最初からいなかったの? そんなはずないよな? エル……エルゥゥゥッ!!」
「なんだなんだ大声出してどうした」
「ギャーいた! うわあああん!!」
扉の影からひょっこりエリアスが現れる。廊下に向かって盛大に慟哭していたテオドゥーロが振り向きざまに号泣した。
「エルー、エルいたー! やっぱりいたあー! ちゃんといた……っ……、うわーん!!」
「え、本当にどうした?」
「うええええん」
タックルばりの勢いで抱きつかれ一、二歩圧されてギリギリ右足で踏みとどまるエリアス。もう少しでうしろに倒れるところだった。
猫に両手で飛びつかれたねずみの気持ちになりつつテオドゥーロが満足するのを待つが、コートを着たままの友人は何故かわんわん泣いている。自分が泣いていたときのことを思い出し軽く背中を撫でてやると、いっそう腕に力を込められた。肺が潰れた。
解放されるや否やよろめきながら自身の膝に手をついて咳きこむエリアスと、空いた腕で一生懸命目をこするテオドゥーロ。
「ゲホッ……なに、どうした? おかえりテオ」
「なんでもない! ……ただいまぁ」
エリアスが呼吸を落ち着けながら顔を上げると、テオドゥーロは心底嬉しそうな顔をした。
◆
「エリアスこんな暖房もないとこで何してたの? 寒いだろ?」
「別に……あそうだ暖炉。テオお前、どこもかしこも火つけっぱなしだったけどいいのか?」
「あれは暖炉の中でもペチカっつー種類でさ。火が奥のほうで燃えてるから燃え移らないし、冬のあいだずっと消さねえの。そうでもしないとノーアンじゃ寒くて暮らしていけないからさ」
「はー、確かに暖房ない部屋だと息真っ白だもんなあ」
「うんうん。……で、こんなに息が白くなる寒い廊下でエリアスは何を俺から隠してるのかなー!?」
「あっ!」
当たり障りのない雑談で話を逸らしつつさりげなーくテオドゥーロの背中を押し出していたエリアスの手をかわし、テオドゥーロは両開きの扉を勢いよく開く。見せたくなかった『イェルド様』の絵画と相対するや否や、テオドゥーロはひっくり返りそうな勢いで笑い出した。
「ぶはははは、なんだこの部屋懐かしー! お父様とお母様のイェルドちゃんルームじゃん! お前よくこんなん見つけたなあ! こんなヤバい……んふふっ、あははは!」
文字通り腹を抱えて大笑いするテオドゥーロとは対照的に、エリアスは腕を組みながら引きつった口の端を上げた。別人のふりをさせられた親友の肖像画のどこをおもしろがれというのか。
「笑いすぎだろ……」
苦笑の滲んだ声で漏らすと、無邪気に爆笑していたテオドゥーロが無邪気なまなざしで振り返る。
「え、エリアス笑わなかった? この頃の俺の顔爆笑じゃない? 見て、真似」
テオドゥーロがそう告げるや否や彼の瞳からは一切の光が消え、開いていた大口は上品に弧を描いて結ばれる。うっすらと細められた目元からは冷たさも暖かさも感じないのに、何故だか畏怖とともに優しさを感じさせる――そんな『完璧』に『造られた』微笑を浮かべたまま、テオドゥーロは恭しく膝をついた。
目を開くエリアスの手を取ると、姫を扱うような所作で甲に口づけ、深くこうべを垂れてみせる。
「どう?」
そう囁いた声色はまさしく別人だった。
ぞっ、と肌が粟立った。
「んー悪かねーけど……」
エリアスは平静を装った顔でテオドゥーロの手首を引き、立たせる。人形のように微笑んだ彼の腰を片手で抱き寄せると、反対の手で軽く顎を引いた。
「普段のテオドゥーロのほうが男前だと思うな」
わざとらしく小首を傾げながら上目遣いに笑ってみせると、テオドゥーロの顔にぱっと表情が戻る。
瞳は子供のような無邪気さを取り戻し、頬は普段以上に赤くなった。
「チャラいな! エルは!」
「あはは、そう、それ。そっちのテオのほうがいいよ」
「ええー俺のイェルド様結構評判よかったんだぜー? 不気味がられもしたけど」
テオドゥーロは言葉とは裏腹に満更でもなさそうな顔で両手をあげ、エリアスの頬を包んだ、というか潰した。照れ隠しだ。テオドゥーロは昔から人懐っこくてすぐ照れる。
「テオ、戻ろ。俺この部屋好きじゃないわ」
エリアスの頬をこねるのにテオドゥーロが満足する頃を見計らって、エリアスは笑って声をかける。テオドゥーロは頷いてエリアスの手を引いた。先ほど両手で包んだ頬も部屋の冷気にあてられて冷たくなっていたが、指先はもっと冷たかった。
時が止まったような温度の廊下に、明るいテオドゥーロの声が響きわたる。特段大声というわけでもないのだが、テオドゥーロの凛とした張りのある声はよく通った。
「エリアスがそう言うなら鍵でもかけとこうかな。別にどうでもいい部屋だし」
「マジ? なんなら燃やしたいくらいムカついたけど、あの部屋」
「言うねえ!? 人の肖像画をお前容赦ねーな!」
「あは、嘘だよ」
「絶対思ってねー、エリアスひでえー!」
からからと笑いながら繋いだ手を振りまわす。
床に薄く積もった埃はテオドゥーロが軽やかにブーツを運ぶたびに舞い、エリアスの素足が踏みしめるたびにその裏にこびりついた。
「……『お父様とお母様』は美味かった?」
エリアスは尋ねる。
エリアスの手を引くこの友人は、イェルドと呼ばれようがテオドゥーロと呼ばれようが、どちらも変わらず自分のことだと受け取るようだ。ならば『イェルド』の特別な人は『テオドゥーロ』にとっても特別なのだろうか。
テオドゥーロと別れてから百五十年以上。エリアスは搾取されるばかりで、特別も大切も全く感じることはなかった。エリアスの特別は、テオドゥーロだけだった。
いつかは確かに対等だったはずの親友に置いていかれて、傷つくとは言わずとも少し胸が痛んだのだが、エリアスのそれは完全なる杞憂に終わった。テオドゥーロが振り返りながら「忘れた!」と笑ったからだ。
リボンで纏めた後ろ髪がふわりと踊る。繋いだ手に力が込められ、意識的か無意識的か、テオドゥーロの爪がエリアスの手の甲を掻いた。ぴりとした痛みとともに僅かに赤が滲む。
「エルがあんまり美味しいから他のやつの味なんか全部忘れた。でもどうでもいいんだ、今までのことなんて。お前が一番だよ。今までの中で一番だし、未来永劫、一番、エルが美味しい。絶対に」
曇りのないテオドゥーロの声が、エリアスの鼓膜を震わす。
愛おしげに細めた赤銅色の瞳には、確かに狂気が溢れていた。