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テオとエリアスの幸福な食卓  作者: 穂高絢乃(こむぎこ)
一章 変わり果てたけど生きている
12/16

12 おいしさの秘密


 テオドゥーロは思いきり手のひらに爪を立てた。自身の指が肉を破る感覚と自身の手のひらが抉れる痛みが同時に脳に押し寄せ、その場しのぎの理性が感情を覆った。


「な、何がー?」


 ひきつった口元をぎしりと動かしながらテオドゥーロはごまかした。しかし、エリアスはいっそう距離を詰めてくる。


「俺嬉しかったよ、テオに美味しいって喜んでもらえて」

「だから、何が?」

「何がじゃねーよ。人を食べるのが好きだって自己紹介してただろ」

「え? した?」


 思考が追いつかない。爆発的に全身を満たしていく本能を追い出すのに必死で、言われたことをただ聞き返すのが精一杯だ。

 ぐっと身体を寄せてくるエリアスの胸を押し返そうとするが、今触ればそのまま身体を引き裂いてしまいそうで思わず後ずさった。背中や首筋を流れていく汗の感触をなぞって気をそらす。

 顔を背けていても、エリアスに見つめられていることが気配からはっきりと分かる。


「ッた、食べないよ」


 エリアスの顔を見ないまま、テオドゥーロは上擦った声で宣言した。声に出して自分に言い聞かせないと負けてしまいそうだった。


「美味しかった。でももう食べない。エリアスはと、友達だから」

「なんでだよ」


 拗ねたような声とともに、エリアスはテオドゥーロの手首を掴んで持ち上げる。さっきから極端にぶるぶる震えているのがエリアスは気になっていて、掴んでみれば案の定その手のひらは抉れ血に濡れている。白くちらついたのは脂肪の層か、否、骨だろう。自傷によって理性を保っていたのだと容易に想像がついた。

 だからなんでこういうことすんの、と、エリアスは小さく独りごちた。

 手首を掴まれてたまったものじゃないのはテオドゥーロのほうだ。必死に耐えていたのに触れられてしまった。思わず小さな悲鳴が漏れ、電撃のような欲望が奔り血みどろの手のひらが痙攣する。エリアスの腕を反射的に捻りあげるが、食いちぎる前にそれが左腕なことに気付き思いとどまった。


 ――駄目駄目ダメ左腕はッ、左手の薬指はエリアスが帰って来れなくなるから絶対駄目!


 触れられたのが右腕だったら(たが)が外れていたことを確信しながら、テオドゥーロは慌ててエリアスの腕を解放する。が、改めて手を掴まれてしまう。触るなと思いきり振り払いたかったのに、掴まれた手はほんの少し震えるだけだった。


「テオドゥーロ」

「は、なして……お願い……」

「テオドゥーロ、聞いて。俺、なんであんたがテオだってわかったと思う?」

「え……」


 テオドゥーロは眉間にしわを寄せたまま、俯いた視線をいっそう足元へと落とした。自分のブーツがじりじりと後退すると、スラックスから爪先だけ見えたエリアスの素足がそれ以上の距離を近づいてくる。


 ――あれこいつ裸足だ、そうか、俺靴用意してあげてなかった。


 わずかとはいえ思考が逸れる、そのまま無理やり思考回路をねじ曲げる。彼を殺す食欲などこのまま消えてしまえと思いながら、予想していなかった問いを小さな声で復唱した。


「エルが俺を、俺が『テオ』だって……わかった理由」

「そう。オレンジっぽい赤髪とか目の色だとか、その名前とか。笑うツボとか。表情がコロコロ変わるとことか、表情そのものとか。笑顔とかさ。面影は色々あったから、正直あんたを見てすぐテオを連想した。

 でも決定的だったのはあんたが俺を食べたときだ。あんたが――俺のことを『ご馳走様』って呼んだから」


 エリアスはテオドゥーロの血まみれの手のひらを握ったのと反対の手で彼の顎を引く。強く噛まれていた唇が僅かに開き、血が垂れる。赤く軌跡を残して垂れるそれは、腹を空かせた獣の唾液のように見えた。

 目を見開いたまま言葉を失うテオドゥーロに、ああこいつ覚えてないのかな、とエリアスは屈託のない破顔を見せる。覚えていなくても構わない。例えテオドゥーロ自身が忘れていても、変わったわけではないという確信があったから、エリアスは笑ってテオドゥーロの顎の血を拭った。


「テオ、昔から食べるの好きだったじゃん。大食いってわけじゃなくて、ひとつひとつすごくありがたがって食べるっていうかさ。『ご馳走』にわざわざ『様』までつけて喜ぶのテオくらいだって笑ったら『俺にわざわざ食べられてくれる命なんだぞ! ごはんを大歓迎したっていいだろ!』って言い返されたりしてさ」

「……あぁ」


 思い当たる節があったらしいテオドゥーロは微かに頷いた。瞳は依然として見開かれたままだが。「な?」とエリアスが嬉しそうに続ける。


「ずっとあんたのこと『テオじゃないかな、そんな訳ないかな』って思って見てた。けど、あのとき確信できたんだ。あんたはテオドゥーロ=ヴァルガスその人だって。

 絶対そうだって。俺の親友は生きてたんだって」

「……俺は全然気づかなかった。思いもしなかった。お前がエリアス=ハーランドだって……エルだったなんて。名前も聞いたのに、お前だって面影はあったのに、俺は大事な友達のこと食材にしか見えてなかったんだよ」

「もういいよ、思い出してくれたし、覚えてなくても俺が頼んだこと守って指残してくれたじゃん。そんで、テオのことだからきっと指以外は残さず食べてくれたんだろ?」


 コンッとブーツのかかとが壁にぶつかる。弾かれるようにテオドゥーロが振り返ると眼前は壁だ。

 元々客室の扉に寄りかかって話していたはずの二人は、いつの間にか扉のわきの隅へテオドゥーロが追い詰められる形になっていた。もう退路がない。どうしよう、と泣き出したくなる反面、テオドゥーロは諦めのように衝動に従おうとしてもいた。

 エリアスの手のひらがテオドゥーロの頬をするりと撫でる。その手を掴み上げそうになって、耐えて、せっかく耐えたのに向こうから震える手のひらを絡みとられてしまう。目があえばにこりと微笑みかけられる。いいんじゃないか、と思ってしまった。エリアスは不死者(アンデッド)なのだ。食べても死なない。一度殺してしまえば完全に蘇り、体が欠損する心配もない。

 エリアスはテオドゥーロの食人衝動に理解を示している。それも、昔から変わらないと言いたげなほど肯定的に。誘っている。わざと触れて、なんとか耐えようと流した血を愛おしげに拭って。それならもう受け入れたっていいんじゃないか。一思いに四肢を千切って顔を抉って、最愛の『ご馳走様』として扱ってもいいんじゃないか――。


「だ、めです。食べません」


 甘い誘惑の霧を吹くように、テオドゥーロは震える声で口にした。頬に触れられて顔は逸らせないが、せめてもの抵抗にかたく目をつむる。

 まぶたに映るのは昨晩のうなだれたエリアスの姿だ。見たことがないくらいにか弱かった。テオドゥーロはあんなに怯えたエリアスを知らなかった。愛おしい、苦しんでなお生きようともがく彼はもちろん狂おしいほど愛しい。それでも、自分の体を傷つけてでも手を下さなかったのは、『親友』という関係性を壊したくなかったからだ。

 食べないとはっきり伝えられ、エリアスは肩を落としながらそれでもテオドゥーロを見る。

 テオドゥーロは目をかたくつむったまま涙を落として言った。


「俺は……お前をぐちゃぐちゃにしてきた奴らと同じになりたくない……」


 五体を引き裂かれたと言っていた。指を確保しておくためにしょっちゅう左の手首を落とされたと泣いていた。不死だからと痛みを無視されたことも、感じる恐怖を軽んじられたことも、苦しそうに頭を抱えて語っていた。

 テオドゥーロは、そんなエリアスの肩を支えたかったのだ。取り囲んで弄んで彼の命を搾取する加害者側になどなりたくない。その一心で、テオドゥーロは今まで自身の感情の全ての核だった『食欲』を捨てようとしていた。


 エリアスは寂しそうな上目遣いでテオドゥーロを見上げる。


「同じじゃないだろ……」

「同じだよ。なんで分かんないんだ――よッ!」


 ぽつりと漏れた呟きを合図にテオドゥーロは目を開き、力任せにエリアスの腕を引くと身を翻しながら壁に押しつけた。二人の体勢が完全に入れ替わる。左手首を折らんばかりに捻り上げ、骨が軋むのも構わず首を押さえつける。気管を潰されてエリアスが小さく呻いた。


「俺は今すぐにでもお前を殺したいよ。殺したいけど楽には殺さない。なるべく長く生かしたい、だってそのほうが美味しいから。身体を綺麗に残してもやれないよ。殺すだけ殺して捨て置くなんてもったいないこともできない。埋葬なんて許さない。蘇ってもまた殺して肉片にバラして食い散らかして、お前が戻ってくるの待って何度でも繰り返すよ。

 これのどこが『親友』だ?」


 みし、と首の骨が軋んで、エリアスが苦悶の声を漏らす。かかとが浮いて、足にうまく力が入らなくなる。テオドゥーロ自身も、抉れて肉の露出した手のひらでエリアスの手首を押さえつけるのは痛かった。

 けれど彼の痛みはエリアスのそれとは比べ物にならない。

 不老だが不死ではないテオドゥーロは、殺されたことなどなかった。


「……それでも、同じじゃない」


 上擦った吐息を漏らしながらエリアスが告げる。肉食の魔物すら射殺すような視線で「なんで?」と問うた眼前の男に、エリアスはふっと余裕の笑みを浮かべた。

 首を絞められ息は絶え絶えで、爪先しか床に触れていない足は震えている。目元も苦しげに歪んでいる。それでもエリアスは笑って言った。


「だって、テオドゥーロ……俺のこと結構好きだろ」


 手のひらから滴る血がエリアスの腕を伝い、服の中を通って肘を濡らす。

 しかし血の滴など微々たるものだ。テオドゥーロの両目からぼろぼろ落ちて絶えない涙に比べたら。


「あいつらが……そんな顔で、泣くかよ。それだけで、全然違うんだよ」

「……そんなこと言ったらエルだってそうじゃん。わざわざ痛い目にあってまで俺に好き勝手させてくれて、俺の事超好きじゃん」


 テオドゥーロが鼻をすすりながら手のひらに力を込めると、エリアスが上擦った咳とともに目を閉じる。それでもまだ踏み切れない目の前の食人鬼をからかってやりたくて、エリアスは苦しげに薄目を開くと挑発的に笑ってついでに舌も出してみせた。ばあか、と言いたかったが、そこまでは肺に酸素が残っていなかった。


「……バカ」


 思い描いていた言葉が自分のものではない声になり鼓膜を打つ。それがテオドゥーロの返事だと気づく前に、エリアスの首は平時と百八十度違う方向に捻じ曲がっていた。

 関節でばっくり骨が外れ、その周りを噴水のような血液が彩る。熱い血潮が髪を顔を首をシャワーのように濡らしていく。大きく口を開けば唇どころか喉の奥まで鮮血に洗われていくようだ。


 こく、こくんと喉が鳴る。鉄臭い香りが鼻を抜けて、全身を快感が駆け巡る。あらぬ方向に捻れた首筋に添えていた手を離し肩を掴んで引き寄せる、文字通り首の皮一枚で繋がっていた頭が振り子のように揺れる。遠心力と重力で千切れたそれが床に落ちる前に、はっと気づいて慌てて両手で抱きとめた――すると今度は支えを失った首無しの肢体がドサリと音を立てて倒れる。


「あ……あぁ……エル、エリアス……俺のエル……。好きだからお前を殺しても許してくれるって? 大事なお前をこんな姿にしてるのに? 血まみれで、動かなくて……こんな……」


 テオドゥーロは崩れ落ちた体を追いかけるように膝をつき、肩を抱いた。当然手放された頭が落ちて転がる。バラバラになったエリアスのあっちこっちに翻弄されていたテオドゥーロだったが、今度は頭を追いかけることはしなかった。

 笑ったまま目の光を失った親友の顔を見ることもせず、自分の紡いだ言葉の続きも忘れて、テオドゥーロは一心不乱に目の前の肉を貪っていた。

 掴んだ肩を胴体から引き剥がし、滴る肉にむしゃぶりついて噛みちぎる。繊維を歯で破ってぬめる肉片を舌で舐めとって、指の間を腕を滴る血に唇をつけて残らず啜る。


 ――ああ美味しい、美味しい、美味しいなんて美味しいんだ!


 口内に残る服の残骸を不快に感じる余裕もなく吐き出し、無我夢中で赤い断面を食い破る。骨も小さく折って、あるいは小気味良く噛み砕いてガリゴリ咀嚼する。人の形が徐々に崩れて赤く濡れた肉塊になっていく酸鼻な光景すら愛おしい、そう、食事は五感で楽しむものなのだから。その瞳で姿かたちを愛でて、指先で皮膚の切れ目をなぞって剥がして、むせ返るような香りを肺いっぱい吸い込み、紅蓮の水音に耳を踊らせながら、その舌で最上のご馳走様を転がす。

 ――美味しい。美味しい。他の誰よりも何よりも、今まで食べたどんなものよりも美味しい。

 ——なのに。なのに。


 ——なのに、どうして涙が止まらないんだろ。


 無我夢中で友人の屍体を貪りながら、テオドゥーロは視界の歪みに気付いていた。

 溢れる涙が頬を洗う。冷たい。徐々に熱を失いつつあるとはいえ血潮はこんなにも熱いのに、頬が冷たくてたまらない。そして瞳の奥が焼けつきそうに熱い。たまらない美味で胸がいっぱいなのに、なぜか苦しくて仕方ない。肉を解体して掴んで口に運ぶ手が止まらない。けれど、震える。血に濡れる指先が震える。肉を裂くたびに視界が眩む。

 血の滴る心臓に口をつけて中身を飲み干し、弾力のあるそれを噛み砕き咀嚼し、嚥下してから、


「……ああ」


 テオドゥーロは小さく呟いた。

 血みどろの腕で床に転がった友人の頭を引き寄せ、血みどろの胸に抱きしめる。瞳から落ちる涙すら、顔の血をなぞって赤く染まっていった。


「美味しいよ。エル。お前が誰よりも美味しいわけだよ。わかった……なんでお前だけが特別なのか……」


 思えば、人が死んで泣いたのは久しぶりだった。

 両親が死んだときは声をあげて泣いたはずだ。けれど、それ以外は? 奴隷だった頃どれだけ仲間が死んだだろうか。ゴミ捨て場へ運ばれていく肉の塊を見て何を考えていたか、テオドゥーロは覚えていない。食人衝動に気付いてから、ご馳走様を「可哀想だ」と感じたことがあっただろうか。目の前のご馳走様がどれだけ悲痛に命乞いをしようと泣き叫ぼうと、最後まで勇気を失わない抵抗の眼差しをしていようと、「ああかわいくて美味しそうな人だなあ」と思うばかりで、手を止めたことなど一度もなかった。

 肉の塊を愛おしいと思いこそすれ、後悔や辛い気持ちなど血や涙の一滴分も感じなかった。ただひたすら幸福だった。


 動かなくなった人間を見て泣いたのはいつぶりだろうか。

 自分に笑いかけていた瞳が、どこにもない場所を見つめたまま二度と動かないのがつらい。首から飛び出た骨がどこにも繋がっていないのがつらい。剥き出しになった神経が、まだ血の垂れる血管が、痛そうで痛そうで胸が張り裂けそうになる。


 エリアスだけだった。

 身体も感覚も作り変えられ怪物と化したテオドゥーロがこの感情を思い出せるのは、人間だった頃に大切だった彼に対してだけだった。


 余りある食欲、幸福と、呑まれそうになる悲哀。美味の理由と苦しさの理由が同じだったことに気づいたテオドゥーロは、大切な(ごちそう)を抱きしめながら呟いた。


「お前が……お前だけがこんなに美味しいわけだ。俺、エルには……死んでほしくねえもん……」



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