ウイスキーと猫
復帰用短編。
風が強く、雨が降っている深夜のことだった。窓をぴしぴしと、何度も木の葉が叩いた。
私はひどく皺のある白髪の老女の横で体を丸めて船を漕いでいた。普段なら活発に動き始める時間帯ではあるけれど、今日に限ってはやけに眠気がひどかった。
ドンドンドン、という音でばっと立ち上がり、そして戸の方へと歩いていく。私は老女の先を歩きながら、彼女が警戒しながらもきゅっと唇を結んで、そして扉を開けるのを見守った。
立っている男はこちらに向けて、ナイフも、拳銃も握っていなかった。困惑したような表情で、荒れたままの髪型をさらしている。
「あのう、その……」
「まあまあ、こんな夜中に、しかも外はこんな天気でしょう。さあ、入ってちょうだいな。あたたかいミルク、それとも一杯のウイスキーがいいかしら」
「え、いや、ありがたいのですがね。私はちょっと電話を貸してくれないかと頼みに来たんです。道に迷ってしまって」
男の逡巡したような様子に、彼女は畳み掛ける。
「あら、そうなの?ごめんなさいね、うちには携帯も、電話機もないの。でも地図はあるし、道案内はしてあげられるわ。今夜はどちらにしろ動かないほうが良さそうでしょう。この天気なんですもの、あなたが温まるくらい、神様は見逃してくださるわ」
老女はにっこりと笑って、それから一度奥へと引っ込んだ。私はおろおろとしている男をじっとにらみつけたが、その視線にも居心地悪そうにしているだけで、一度私のほうに固まった笑顔で手を挙げて見せた。私が鼻を鳴らして応対すると、がっくりと肩を落としてあたりを見回し始めた。
無遠慮なやつ、と思うが、まあ、老女がこの家に突然来訪した人間を招きいれることは初めてではない。ここいらの地理は分かりにくく、道がちょっと複雑なものだからかなり迷う人間は多いのだ。強盗をしようったってめぼしい金目のものはみんな他人の手に渡してしまっている。老女を狙う訳がない。
彼女は常々私の頭をなでて、「いいこと、ディスタス。私に何かあったらあなたは逃げるのよ」と言ってくれるが、あまりそのつもりは無い。
生まれたところでは私は皿を投げられたり、石を投げられたこともある。卑しい卑しいと貶められ、それでも食べるためにゴミを漁り、そしてさらにひどいことを言われる。
悪循環だった。
老女が墓地にて私を気まぐれでも拾ってくれたことが、最大の幸運だろう。
「君はこいつが誰だか知っているかい?」
まだ若き老女(違和感のある表現だが私は彼女の名前をはっきりと聞いたことが無い)と、その夫が写った写真を手にとって、それから首をごてんと傾げた。優雅さのかけらもない行動に私は辟易したが、それでも問いに答えようと口を開きかける。
「あらまあ、ディスタスと仲良くやっていたの?……あら、その写真」
ちょうどよく老女の声がかぶさったので、私はそれに引き下がる。彼女は綺麗なグラスと茶色の液体がたぷたぷ揺れる瓶を持ってきていた。どうやらミルクではなくウイスキーにしたようだ。ミルクはこの間確か切らしたといっていたような気がする。
「す!すいません、勝手に見てしまったりして……」
「あら、いいのよ。そうねえ、悪いと思うのだったら、年寄りの昔話にでも付き合ってくださらないかしら。ここには尋ねてくる人も少なくって、退屈していたの」
くるりといたずらっぽい笑みを回されて、彼はかまいません、と微笑んだ。
「その写真の男は私の愛した男。最初で最後の恋人で、夫で、家族だったわ。息子も娘もいたのだけど、みんな都会に置いてきてしまった。思い出すと辛いだけですもの」
「それは……」
「でも、今私にはディスタスがいるんだもの、問題ないわ」
私はなでられながら、べん、とその枯れ木のような腕を払った。あまりなでられるのは好きではない。それならむしろ、横に寄り添うだけのほうがいい。
「その……旦那さんのほうは、どうして?」
「そう、そうね……なんと言ったらいいのかしら。不幸な事故だったのよ……彼は私の愛したたったひとりの……」
目頭をそっと押さえて、それから彼女は今の今まで忘れ去られていたテーブルの上の瓶とグラスに手を伸ばし、とぽとぽと注いでからグラスを勧めた。強烈な酒精の匂いに、ひくりと男は喉を上下させる。
ここまでの運転でひどく疲れていたんだろう、期待するようなもの欲しげなまなざしで、じっとグラスを見てから老女に許可を取るように視線を向けた。
彼女はもはや取り繕うこともせずにうなだれているだけだった。
「じゃあ、すいません。いただきます」
グラスを傾けて、それからじんわりと効いてくるアルコールに恍惚とした表情を見せる。
「美味しいですね、これ。一体どうしてでしょう、ふだんよりずっと、気持ちがいい」
老女はじっと枯れ木のように座ったまま一点を見つめ、呆然としていた。その目の端から零れ落ちた涙はかさかさの皮膚に吸い込まれて消えていく。男はしばらく一人で静寂をごまかすようにぼそぼそと喋り飲み、そしてあっという間に男の顔が真っ赤になっていく。
「……きもち、が、いぃ、あぇ?な、んれ、おれあ……ぁあ?」
私はそっと椅子から崩れ落ちていく男をじっと見つめた。老女は全く動かない屍のようになったまま、崩れ落ちた男をガラス玉のような目で見ていた。グラスが音を立ててはじけ、私の足元まで破片が飛んでくる。
老女の夫は、酒が好きな男だった。
ブランデーやウイスキーを何杯も何杯も飲んでは、翌朝けろりとした表情で今日の晩何を飲むか算段をたてている。
ある茸の成分には、二日酔いを増幅させたり、そのせいで昏睡に至らしめる茸がある。そして、森で採れた茸のバターソテーを酒と一緒に出した老女は、自分で採った『美味しい茸』を口にした。私はかつて青い眼をした友に「僕の同居人なんだがね、彼はたまにこういう茸に手を出していた。酒飲みはやめておいたほうがいい茸さ」と教えられたからだ。
老女は酒をやらない。ただ、老女の夫はもともと吐く息が臭いことから内臓もあまり強くなかったことがうかがえた。昏睡して、いくばくも無く死んだ。
「ぁ、ぅ、あうあう……」
もはや狂気をたたえた老女は一体こいつに何をしたいのだろうと思う。夫の死を再現すれば、あるいは、助けられる瞬間を作りたいとでも思ったのか。毒の入ったウイスキーを飲ませ、そして男が死んでいくのをじいっと見て、そして何も無かったわ、また同じ、また同じなのと泣きながら私の頭をなでるのだ。
そりゃあ、何も無いし、同じではない。
老女は忠実に夫の死を再現したわけじゃない、夫は老女が手ずから取った茸と、自らの嗜好によって死んだのだ。
私はカウチの上から床に下りる。尻尾でその頬をなでれば、あごががくりと落ちた。下唇の端からすうっと透明な糸が滴り落ち、床にしみを作った。
「あご、こ、おぉおおお……」
かへ、かへと喉に何か詰まったような呼吸を繰り返す。老女はただ、無機質な目で彼を見つめる。がりがりと床を引っかく音が聞こえる。ねずみの侵入音と一緒で、癇に障った。だが、それもじきに止まる。彼はもはや助からない。今まで六人ここへ来たが、男は全てウイスキーを飲んで死んだ。彼もまた一緒だ。この小さな箱の中に閉じ込められたまま、静かに死んでいくのだ。
「……にゃおん」
私はそう一つ鳴いて、静かにその場を後にした。
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