第40話 『喰いもの』
フュフテにとってシリンという少女は、実はあまりよく分からない人物だ。
まだ出会って数日というのも勿論あるのだが、同じくらいの付き合いのマイケルやシャルロッテなんかは充分に人となりを把握出来ている。
サマンサとバニードにしてもそうだ。
にも関わらず、彼女だけは今ひとつ見えてこないのは何故だろうか?
それはひとえに、シリンが寡黙だから、という理由もあるかもしれない。
この騒がしい面子の中で、彼女だけは自発的に口を開くことがほぼ無くフュフテも何を話しかけていいものか戸惑うばかりであり、互いに言葉を交わす機会が際立って少なかった。
よって今の極小の判断材料でシリンを理解するのはどだい無理な話であり、それ故に意図せず今のような空気を作り出してしまったとも言える。
「......聞きたい? 楽しい話じゃ、ないよ? せっかくのサマンサの料理が、美味しくなくなると思うし」
「そうだな、食事中にするにはあまり相応しくないだろう。シリン、無理に話さなくてもいい」
短くない沈黙の後に漏らされた静かな声は、平静を装いながらも隠しきれない哀傷を覗かせていて。
緑玉の双眸に伏せられた睫毛で陰影を濃くする彼女はそれでも他者への思いやりを忘れておらず、それがなおのこと痛々しさを生んでいる。
バニードは当然事情を把握しているのだろう。
被せられた追句はシリンを慮るものであり、また同時にそれを聞かされる事でフュフテへ訪れるであろう影響も考慮しているのか。
といっても、ついさっきまで茶褐色の汁物を掻き回しながら「垂れ流す」と連呼した上に、快楽で身を震わせていた男が言うには、少々説得力に欠けるものではあるが。
「あ、いや! なんか、ごめんなさい。ただの思い付き程度なので......気にしないでください」
「うん、ごめんね? いつか、話すね......」
疑問を述べる直前まで柔らかな弧を描いていた眉を斜線へと変えてこちらを伺うシリンに対し、フュフテはそれ以上の追求を諦める。
本音をいえばかなり気になる所ではあるが、ここで食い下がっても誰も得はしなさそうだ。
「あんたはほんと、空気の読める子だね。誰かさんとは大違いだよ!」
「ち、ちげぇんだ! 俺だって、あんな事情があるなんて思ってもみなかったし! 不幸な事故だったんだっ!」
重苦しい様相を見せ始めた場を強引に吹き飛ばすようにサマンサが快活な声を響かせると、槍玉に挙げられた野菜が葉っぱを揺らす仕草であたふたと動く。
空気というものを吸って吐くしか能のない少年は、随分と挙動不審であったことから過去に何かをやらかしたのだろう。
大方、好奇心に駆られてずけずけとシリンの内情を踏み荒らしたに違いない。
だがしかし、デリカシーを母親の体内に忘れてきたマイケルであっても場合によっては役に立つようで、彼の条件反射の叫びは沈殿する重さを払拭するだけの効果をもたらした様子。
シリンを含めて、皆の表情を明るくすることに成功したのはある種の功績といって良いかもしれなかった。
とそこで、折しも各自が食事の終盤に入っていたこともあってか、
「マイケル。君に頼みたいことがある。通信の魔道具を至急手に入れてきてくれ。高価なものだから護衛にシリンと、あとフュフテも行ってくるといい。
この都市は初めてだろう? ついでにそのみすぼらしい服も新調したらどうだ?」
今の今までひとり別世界で食事を満喫していたシャルロッテが、突如思い出したかのように口を開く。
それは彼女以外の者からしたらひどく急な提示であったが、シャルロッテの脳内では論理的な思考を経た後の発言のようで、相手が自身の提案を否とする可能性などみじんも想定していないのか。
話は以上だと言わんばかりに再び食器を動かし、一度言葉を落としただけの口元を塞ぎにかかる。
一方、未だ尻が不調となったショックから完全に立ち直れていないフュフテは「ええ……面倒くさい」と、口にこそしないものの内心をはっきりと顔に出してしまっていた。
確かにシャルロッテの言う通りフュフテはこの都市に来たばかりで、彼にとって興味深いものが街中には沢山あふれている。
また現状の打開策のために暗黒のぱんつこと「暗ぱん」さんも彼女に預けていたので、服も黒ドレスから度重なる修行でボロボロの上着一枚に戻っており、見栄え的にも機能的にも新しい着衣は当然必要ではある。
が、正直に言って、今は都市観光に興じる気にはとてもなれない。
それほどフュフテにとって、「魔法が使えなくなった」という状況は死活問題なのである。
だいたいにして、そこら辺にぽいと打ち捨てて置ける類の悩みであればいざ知らず、どこで何をしていても絶えず元凶が自分の後ろに張り付いているのだ。
常に自身と共にある、下半身の相棒。
時には荒ぶり、猛り、たくさんのモノを噴き出して、幾度もさまざまな場面でそびえ立ってきた。
自信の象徴。フュフテが一人前の魔法士の男として持つ立派な武器が、ある日を境に利かん坊になるという悲劇。
言ってしまえば相棒は突然、不能となってしまったのである。
急遽、下半身の障害者へと変わってしまった若い男に対して、それを気にせず「観光でもしていろ」とは、まともな神経をしていれば簡単には口にできない。
他人に無頓着なシャルロッテだからこそ、平然と言えるのである。
そして当然の如く、いの一番に名を呼ばれたマイケルに異議を唱える選択などありはしないし、自己主張の乏しいシリンにしてもそれは同様。
つまりは誰一人としてシャルロッテに意見することなく、三人はなんともいえない顔で食事を終えると、そのまま連れ立って外出準備へと取り掛かっていった。
※ ※ ※ ※
「なぜだ? シャル、通信魔具の話など私は何も聞いていないぞ?」
「あたりまえだ。言ってないからな」
バニードとシャルロッテ、二人だけが残る食卓。
肉と格闘する事こそが本懐であり、それ以外に時間を寸時も割きたくないという風にいけしゃあしゃあと宣うシャルロッテへ向けて、バニードの口からため息がこぼれた。
存外に大きく聞こえたそれに対し、
「何が不満だ? キミたち現場の人間が得た情報を元に精査して最適解を模索するのがこちらの仕事だ。その結果、遠距離間の通信手段が必要であるという結論に達しただけの話。
それのどこに問題があるというんだ? 魔道具が高価に過ぎるという話か?」
「それについて異論はない。シャルが必要だというなら必要なのだろう。だが、説明くらいはして欲しいものだ」
シャルロッテが心外だとばかりに目をすがめるも、バニードからは淡々とした返答が。
そうして両者の間に僅かな沈黙が訪れる。
と言っても、それは居心地の悪さとは無縁の。
どちらかといえば馴れ合いに等しい気安いもので、「さっさと言え馬鹿」「自分で考えろ阿呆」という視線の応酬にようやく折れたシャルロッテが、
「はぁ......要するにだ。最悪のケースを想定した場合、高額な消耗品を使ってでも互いに連絡を取らねばならない状況に陥る可能性が高いという事だ。
おかしいとは思わなかったか? 魔都内部で遭遇した悪魔。フェリシオンの鎧を解放する程の相手が深部でもない場所に現れるというのは、明らかに不自然だ」
「それはそうかもしれんが、可能性が低いというだけで偶然もあり得るだろう?」
件の悪魔戦について、腑に落ちない点を示す。
楽観的な憶測で物を言うバニードに対し、
「私は学者だ。偶然と必然について語る気はないし、結果が原因よりも先行するという考えは持っていない。
故に、偶々魔都を探索した日に偶々助けを求められて偶々異質な悪魔に出会った、という経緯には興味がないんだ。
重要なのは、悪魔が発生した原因のみ。
魔都専攻のわたしが断言しよう。その悪魔は間違いなく人為的手段で引き寄せられたものだ。
ならば理由はひとつ。キミたちの誰か、もしくは全員の命だろうな」
「そうか。だとすれば、仕掛けた人物は限られるな。ブガル猊下もしくはその一派の剣聖の子息が有力......魔石を探して魔都に出入りする我々が、相当に目障りというわけか」
本質的部分をシャルロッテが指摘。
それによって、ようやくバニードは明確な相手を認識したようだ。
「ああ、あの鼻クソみたいな顔した枢機卿殿あたりの可能性が濃厚だな。
といっても、こちら側の枢機卿猊下は耳クソみたいな匂いを撒き散らしてほっつき歩くお方だ。
クソはクソ同士、互いに殴り合いでもして椅子取りゲームをすればいいのではないかと、つくづく思うなわたしは」
「シルーメン猊下の悪口はやめて貰おうか。お前......仮にも我々の掲げる旗印になんという物言いを......。
臭いはともかく人柄も能力も申し分ない、素晴らしいお方だぞ? ......口臭と体臭がキツイだけなのだ、触れないでやってくれ」
「ふん! わたしから言わせれば、国を立て直す前に自分の悪臭を改善すべきだと思うがな? まあそんなことはどうでもいい」
もし本人が耳にしたら盛大なダメージを受けそうな暴言を吐いたシャルロッテは、
「つまり、鼻クソ殿が相手であれば剣聖候補が出張って来るのは確実だろう?
こちらの剣聖候補、シリンでは分が悪すぎる。向こうは躊躇なく殺しにかかってくるのに対し、彼女は人を殺せないんだからな。
敵は剣聖兄弟だけではないぞ? 配下も当然引き連れてくるだろう。キミ一人で相手をするつもりか? 死にたいなら止めはしないがな?
多勢に無勢、ならば王都に救援を求めるしか方法はない。別行動を取るなら、通信手段はあって然るべきだ。
......もういいか? 肉が冷めてしまう」
そう締め括ると、まだ辛うじて温もりを保つ食事へと手をつけた。
かちゃかちゃと音を鳴らす自由人を思案げな表情で眺めるバニードは、ふとそこで、
「それにしても少しばかり予想外だな? そこまで見えていながらフュフテを部隊から外さないとは。フュフテの尻を危険から遠ざけなくていいのか?」
「やれやれ、キミはいつも人の話をよく聞かないからそんな間の抜けたことを言う。いいか? 何度も言っているが改めて言うぞ?
尻とは過酷な試練を経て強く、眩しく、美しく輝きを見せるものだ。
さらに言うならば、フュフテのそれは現時点で考えうる限り最も激しい負荷に耐えて研磨されてきた珠玉の一品!
ならば分かるだろう? それほどの逸材をみすみす腐らせるはずがないことくらい! その上喜ばしい事に、今フュフテには更なる苦境が降り注いでいる。ここで手を休めるなど、どう考えてもありえないんだ!
愚かだ! 愚かに過ぎるぞバニー! キミのそれはまったくもって、考え違いもはなはだしい!
そんな愚策を取るくらいなら、わたしは潔く死を選ぶぞ!?」
率直な感想を口にするが、途端に熱くなり出したシャルロッテを見て己の迂闊な発言を後悔する。
尻に対して人一倍歪んだ情熱を注ぐ狂人に見染められたせいで、容赦なく危険に放り込まれるフュフテに同情を禁じ得ないバニードをよそに、
「あの尻にはもっと多くの苦難を味わってもらわなくては......。
ッ!! こうしてはいられない......ッ! はやく、アレを完成させなければッ!!」
ひとりブツブツと呟いた後、あれだけ夢中だった食事を放り出して席を立ち、室外に走り去るシャルロッテ。
「シャルは......一体どうしたんだい?」
皆への料理を供給し終えて、自分の分を運んできたサマンサの困惑の眼差しに、
「気にするな。いつもの病気だ」
遠い目をしたバニードが、大分冷めてしまった残りのシチューをすくって、「んんっ......!!」と快感の余韻に震えをひとつ見せた。




