第39話 『Don't worry』
己の身に降りかかった特大の困難に酔いしれ、さめざめと泣くフュフテは、シャルロッテの手によって研究室から連れ出された。
自分にも他者にも立ち止まる事を許さない彼女は、いつものようにフュフテの襟首をひっ掴み強引に引きずって。
「今は誰にも会いたくない」と意思表示を見せる尻が、廊下との摩擦で抵抗の狼煙を上げている。
そうしてだいぶ尻が熱をもってきた頃合いに、居館の一室へと到着。
大家族が一堂に会して食事を取るのに適した長テーブルの、空いている席の一脚に火照った尻少年を乗せたシャルロッテが、スタスタと自分の席へと向かうと、
「みな、聞いてくれ。突然だが、フュフテの尻が問題を抱えてしまった。これは由々しき事態だ!」
すでに着席し食事真っ最中の面々へと、情報共有を目的とした声をかける。
「どういう意味だ、シャル? 詳細を聞こう」
シャルロッテと最も距離のある対面から問いを返したのは、右手にスプーンを握りシチューを掬っていたバニードだ。
最愛の妻お手製の茶褐色のソレに喉を鳴らしつつ、左前方で暗く俯くフュフテを一瞥するバニードに、
「一言で言えば、魔法が上手く発動しなくなった。具体的には全ての魔法が目標へと発射されずに、尻から垂れ流しになる。
先日の魔都内部でのフュフテの行動については凡そ聞き及んでいるが、以降は同様の働きを望むのは非常に困難だ。これはかなりの痛手だろう?」
「! 垂れ流しだと!? それは、大変なことだな......。ほかに身体に異常などはないのか? フュフテ」
「あ、はい。今のところは......。垂れ流し以外に、問題はないみたいです」
シャルロッテが説明を。
それを受けて、フュフテの体調を気遣ったバニードは、「そうか......」と少し考える素ぶりを見せた後に、
「確認なのだが、垂れ流しになるというだけで魔法自体の発動は可能なのか?
例えば治癒魔法。以前にシリンが飲んだ『おひねり』であれば、垂れ流しでも問題はないと思うのだが?」
「いい質問だバニー。その点に関しては幸いな事に、フュフテは全く魔法が使えなくなった訳じゃない。
過負荷による後遺症で肛門内部に障害物が出来、それが邪魔をして一切の照準が定められなくなった、というのが最も正しい表現だ。
だから、尻から『おひねり』をヒリ出すようなモノであれば以前と同じく使用出来るだろう。
しかし『屁』や『お漏らし』といった、指向性を要する代物は難しい。攻撃魔法については、言わなくても分かるな?」
肝心の治癒魔法について言及を。
フュフテの代わりに全ての解説を引き受けているシャルロッテは、こんな時でも生き生きとしている。
そんな二人のやり取りを黙って聞くフュフテは、じわじわと這い寄る不安に身を固くする。
「もしかしたらお払い箱になるのでは?」という思いが内で湧き上がり、まともに皆の顔を見る事が出来ない。
今の自分は、いわば魔法士として致命的な欠陥品となってしまったのだ。
ただでさえ大きなハンデを背負っていたのに、さらに垂れ流し属性まで付与されるという事態。
シャルロッテの言う通り、出来る事といえば尻穴からシチューを捻り出す事くらいのものだ。
こんな身体を必要としてくれる奇特な人物など、いる筈がーー。
そこまで考えて暗澹たる思いとなっていたところ、
「フュフテ、これを見るといい」
唐突に促され、フュフテはテーブル上に視線を上げる。
そうすると、手元の器の茶色い液体をぐるぐるとかき混ぜていたバニードが、どろりとした汁を掬い上げると同時に大きく身を震わせ、その場でスプーンを取り落とした。
「私も、君と同じく後遺症が残っていてな。身体の感覚がかなり鋭敏なままなのだ。あと数日はこの状態が続くだろうな。
どうだ? 食器ひとつまともに持てない男は、随分と役立たずだとは思わないか?」
顔にまで飛び跳ねたお汁を拭い、苦笑いを浮かべるバニードは、
「そんな男が隊長なんぞを務めているのだ。より有能な君を放逐するなどある筈がないだろう?
何も心配しなくていい、大丈夫だ。
そもそも、君の役割は治癒魔法にある。垂れ流しだろうと、治癒効果があるなら大した事ではない。
存分に、『おひねり』を垂れ流してくれればいいんだ」
「バニードさん......」
フュフテに対して、「好きなだけ捻り出すといい」と語りかけた。
まさかの感度が上昇したままだという事実に、「お互い大変ですね」と妙な親近感と言葉に出来ない連帯感を感じたフュフテは、感動にうち震える。
さっきまでとは違う、温かい涙を流し始めたフュフテを敢えて見ないようにして、
「シリンはどうだ? 何かあるか?」
自身の右手側。ちょうどフュフテと向かい合う形でシチューをすすっていた群青色の髪の少女に、バニードが問い掛けを。
「んっ......大丈夫、一度飲んでるから。お皿に入れてくれれば、飲むよ? 問題ない」
両手を添えた器をテーブルに置き、事もなげに言い切るシリンは、花のような唇に付着した茶色のものをぺろりと舐めとる。
どうやら彼女は、すでに受け入れ準備が整っているらしかった。
「ハイハイ! 俺も俺も! むしろ皿なんか無くても全然いいぜ!? 直接口をつけて飲むから、安心してくれよな!」
その直ぐ隣から騒がしくするのは、服のあちこちを茶色で汚すマイケル少年。
全く安心出来ない言をのたまう野菜は、「いっそ具材として切り刻まれてしまえばいいのに」と、この場のみなに生温かい視線を向けられている事に気付いていない様子。
「うおー、今日はいつもよりシチューがうめぇぜっ!」
なにやら逞しい妄想を広げてやたらとひとりテンションを上げるマイケルを眺めるフュフテは、「あまり近寄らないようにしよう」と心に決めた。
「ふむ。杞憂に過ぎなかったようだな。これは喜ばしい事だ。もちろんわたしに異論などある訳ないしな。
フュフテの尻とは一蓮托生。穴の奥まで分かち合った盟友だ。これからも全力で突き合う関係を構築していくつもりだ。よろしく、フュフテ」
「はい......皆さん、ありがとうございます」
部隊員の皆が今まで通りにフュフテを受け入れる事を確認したシャルロッテが、強引に話を区切る。
そのタイミングで、ひとり話し合いに参加していなかったサマンサが、肉の載った皿を追加で持ってきた。
サマンサに確認の必要はないだろう。
聖母と呼ばれる彼女がフュフテを拒絶するなど、天地がひっくり返ってもありえない。
とそこで、それぞれに個別で皿を渡していく景色の中、
「あれ? シリンさんは、お肉食べないんですか?」
何故か、シリン分だけ用意されていない事に気づいたフュフテが素朴な疑問を口にした。
ほんの一言。
何気ない思い付き程度のそれに対して、
「ーーッ!!」
一瞬、言いようのない緊迫感が場に満ちる。
一変した空気に戸惑うフュフテが何事かと周囲を見渡せば、真っ先に反応を見せた人物が。
いつもの五月蝿さを途端に引っ込めて息を殺しだした、マイケル少年だ。
挙動不審にキョロキョロと忙しなく周りの顔色を伺う野菜は、変な汗をかいていて。
一方バニードはというと、スプーンを片手に瞼を瞑り沈黙。
プルプルと震える手は、見ようによっては過剰な肉体反応に耐えているだけにも見える。
左に顔を向けると、シャルロッテが我関せずという風態で肉にかぶり付いており、フュフテの疑問に答える気などさらさらない様子。
そもそも、質問自体を聞いていないのかもしれない。
そしてサマンサも、皿を持って立ったまま固まっていた。
何かを言おうと口を開きかけるも良い言葉が出ない、とでも言うように微かに口唇を震わせていて。
ーー最後に、肝心の彼女。
真っ正面のシリンに目を映した瞬間。
フュフテは己の質問が、してはいけない類いのものであった事を即座に悟った。