第38話 『排水の陣』
「僕は、もう......終わりです......」
乱雑な室内。
四隅に押しやられ適当に平積みされた書物や、用途の定かでない器具があちこちに転がる部屋の中央で、やけに悲嘆に暮れる声が聞こえる。
随分と鑑賞に耐えないその響きを見降ろして、気難しげに眉根を寄せる桃髪の女は、
「んん! 冷静になるんだフュフテ、決めつけるのはまだ早い。一過性のものかもしれないだろう?」
「いいえ! もう何度も......試しました。......でもッ!
全然、ちゃんと出てくれないんです! ずっと! お尻から、垂れ流しの状態で! 何をやっても制御できない......まるで、馬鹿になってしまったみたいにッ!」
落ち着きを促すも、暗い表情で床にうずくまる尻から反発を受けた。
男にしてはやけに長い下まつ毛に雫を湛えてわなわなと口元を震わせるのは、自身のアイデンティティに重大な障害を引き起こし焦燥に駆られる少年、フュフテ=ベフライエンだ。
「シャルロッテさん。助けて、下さい。......助けて......助けてくださいーーッ!!」
聞くものに惨めさしか与えない残念な声をあげて、尻が狂人にすがりつく。
今フュフテの尻は、人生最大の危機に直面していたのだった。
※ ※ ※ ※
数日前に遭遇した魔都での一戦。
そこで死者を操る悪魔と対峙したフュフテは、全ての力を尻穴から絞り出し、尻が壊れることも厭わず限界まで魔法を酷使し戦った。
その後バニード達の拠点に帰ってきてからは、戦いによって疲弊した身体を充分に休める事に専念しており、先日やっとのことで傷が癒えたかに見えた頃合い。
何日も寝たきりで鈍った体と尻をほぐそうと早朝から鍛錬がてら中庭に出てきたフュフテは、グググ体操で下半身の準備を整える。
そして、いつものように軽く尻から一発かまそうと。
具体的にはサマンサの花壇の野菜たちに魔法で水やりをしようと照準を合わせ、なんの気負いもなく当たり前に尻を突き出した。
が、しかし。
「っ!? あれ? なんか詰まってるのかな?」
常であれば美しいアーチを描いて降り注ぐはずの水魔法が、あろうことか泥酔したおっさんが撒き散らす吐瀉物のようにみっともなく穴から流れ出るという事態に驚愕。
だが、この時点ではフュフテはまだ多少の混乱で済んでいた。
というのはあまりに尻から大量出血した場合、血が凝結したものが中にしつこくこびり付いて悪さをするというのが、経験上稀にあったからだ。
ところが、幾度か繰り返す内にどうもおかしいという事に気付く。
そうして慌ててシャルロッテの研究室に飛び込み、事情を説明して検査をしてもらった所、とんでない事実が発覚してしまったのだ。
「フュフテ。君の尻は、どうやら大変なことになっているようだ......ッ!
そうだな......分かりやすく言えば、『尻が防衛本能を持った』という所だな」
「防衛本能? ど、どういう事ですか? 詳しくお願いします!」
四つんばいになってウネウネと自動する触手のような鞭を受け入れていたフュフテは、その体勢のままシャルロッテに問いかける。
平常心を失ってせっつくフュフテとは対照的に、冷静な尻学者は、
「その前に、君は尻の構造についてどのくらい知っている? いや、別に知らないなら知らないで構わないが、少々難解な話になるかもしれない。
それでも聞きたいか? ふむ、ならば説明しよう。
もし途中で分からなくなったなら、最後に結論を言うからそこだけ聞いてくれたまえ。
いいか。今回問題となっているのは君の尻の中身、いわば通り道に関してなのだが、まずは構造についてだ。
実は肛門内部の皮膚は大きく二つに分かれているんだ。『肛門上皮』と『直腸粘膜』。違いは痛みを感じる知覚神経が通っているかいないか、だな。
そのちょうど間に『歯状線』というものがあり、ここを境に痛みを感じるかどうかが分かれる。
このノコギリみたいな形状の線の内側が直腸で無痛、外側が肛門で有痛といった造りだな。
まあ、大体そういった境界線がある、というくらいで認識してくれればいい。
それで、何がおかしいかと言うとだ。
フュフテ、君の『歯状線』は高濃度の魔力に侵され過ぎたせいで、異常な変質を遂げてしまっている。
本来であればそのギザギザの表面に肛門線という名の分泌線を有する窪み、肛門小窩を備えるだけの役割のそれが、防衛機能を持ってしまったんだ。
おそらくだが、想像を絶する激しい痛みを幾度も繰り返したせいだろう。
肛門を痛みから守るために、排出物に過剰な制限をかけてしまっている。
具体的には、正常であれば平行に数カ所の窪みが並んでいる筈なんだが、君のはまるで城門のように三層の隔たりが形成されているようだな。
いわば、第一門、第二門、第三門、といったところか?
魔力という超常の力によって形状が変化したというのは非常に興味深い所ではあるが、負荷の少ない通常の排泄ならともかく、『魔法を出す』という高負荷の行為には致命的な障害となってしまった。
この三つの門が妨害しているせいで、君の尻魔法は今までのように放つ事が出来なくなっているのだろう。
つまり、結論をいうとだ。
君の肛門はおかしくなってしまった。
通り道に三つの門が出来たため、魔法が垂れ流し状態でしか使えない。
以上。これが私の見解だ。どうだ? なかなか絶望的じゃないか?」
ペラペラと淀みなく検査結果を述べたのち、新しい研究議題を見つけたかのように好奇心で瞳を輝かせた。
一方で、そんな驚天動地の新発見を聞かされたフュフテは、あまりの衝撃にお尻を震わせることしか出来ない。
まさか、自分の肛門がそんなことになっているとは!
そう言いたげな目元は点になるまで見開かれ、お口はいつも以上にあわあわとしていて。
「門って、何ですかそれ......な、治るんですか!? ちゃんと、開門してくれるようになるんですかッ!?」
「それは分からない! まずはより正確に調べる必要があるからね。さあフュフテ! 今から実験だ! どのくらいの負荷で制限がかかるのか、存分に調べようじゃないかぁっはぁぁッ!!」
シャルロッテに食ってかかるも、研究欲に支配されてしまった彼女のテンションには敵わず、フュフテは首根っこを引き摺られるようにして屋外へ。
それから数日間シャルロッテ監修の元、中庭で検証を行う羽目になったが状況は一向に改善されず、ほぼ全ての魔法が垂れ流しになる、という結果が示されただけであった。
そうして冒頭に帰るわけであるが、フュフテがこんな状態になってしまった主な原因は、悪魔戦の際に使用した禁術のせいである、というのがシャルロッテの予想である。
フュフテ自身もうすうすと「もしかしたら」とは思ってはいたが、他者から指摘されると「やはり」となってしまうのは否めない。
ーー滅びの魔法『禁断の果実』
あの時の状況を思い返して、フュフテは己に問いかける。
どうして、あんな無茶をしてしまったんだろう? と。
師匠のニュクスからは使用を禁じられていたのだ。
「今のお前ではとてもじゃないが術に耐えられない」
そう言われて、二度と使うなとまで念を押されていたのに。
もともとこの魔法はニュクスから教えられたものではなく、自分が独自に編み出したものだ。
幼き頃、母ニュクスから味わった恐怖の体験。
どっかの都市を半壊させたという話と、それを再現しようと途中まで形成された術式を見て、それを参考にひとりコソコソと研究していた魔法だ。
しかし、そんな強大な魔法が未熟な魔法士に扱える訳もなく、出来上がったのは危険極まりない自爆魔法とでも言うべきまがいものであった。
それをどうしても試してみたくなり、ある日訓練の際に使用したのだが、その時も尻がボロボロになりニュクスの懸命な治療によってなんとか事無きを得た。
そして、めちゃくちゃ怒られた。
その時のニュクスの怒りはとんでもないもので、破門されなかったのが奇跡だ。
まぁ、その後の罰は破門されたほうがマシなくらいに過酷なものではあったが。
自爆魔法の『マルス』は、端的に言えば威力を特化させる代わりに全ての制御を犠牲にした魔法。
体内の魔力回路を焼き尽くすくらいに高濃度・高速度で循環させ、砲身ごと吹き飛ばす勢いで射出するという気狂いじみたシロモノなのだ。
よって、一度目の時も副作用として魔力回路がおかしくなり、数日は魔法の威力がガタ落ちになってしまった。
もちろん術者の力量次第では、こんな危険な魔法でも十全に扱えるだろう。
オリジナルを扱えるニュクスであれば当然。
自分と同じ威力を維持しながら無傷で放つなど、きっと容易な事に違いない。
だがしかし、自分にはまだ荷が重かった。
ましてや、すでに負荷がかかり過ぎて限界状態の尻で『マルス』を使ったのが非常に不味かった。
超えてはいけない分水嶺を跨いでしまったため、尻がおかしな事になってしまったようだ。
後になって、「もっと他に良い方法があったのではないか?」そう思ってしまうのはしょうがない。
死力を尽くして戦った事について後悔はないが、一時のテンションに身を任せて考え無しの行動を取ったことに関しては反省するべきだろう。
いや、そんな事はもうどうでもいい。
反省がどうとか、そんな安易な話じゃない。
自分の魔法士生命がかかっている時に、冷静に考えろなんて、とても無理だ。
もしも、このままずっと尻が治らないのだとしたらーー。
うずくまり頭をかかえるフュフテは、絶望に打ちひしがれたような表情で。
シャルロッテの足元で、ひたすらに後悔の涙を流している。
尻からしか魔法が使えない『尻魔法士』は、その魔法を失いそうになった事で、今やただの『尻士』にジョブチェンジしようとしていた。