第35話 『滅びの言葉』
満身創痍の身体に鞭打って気丈に立ち上がったフュフテだったが、不穏な空気を感じ取り警戒に身を引き締める。
眼前の悪魔は攻撃手段を二つも潰された事で弱体化を余儀なくされ、戦力を大幅に減じたはず。
もう暫くすればバニード達もこちらに参戦し、後は全員でかかれば戦局は揺るがないだろう。
そう思えるくらいに、相手は大きく疲弊しているように思える。
なのになんだ、この湧き上がる悪寒はーー。
まだ何かが起こりそうな予感。
嫌な予想ほどややもすると的中してしまうのは、日頃の行いのせいだろうか。
特に悪い事はしていないのに絶え間なく襲う苦難をいつも受け止めている尻は、危険な予兆を嗅ぎ取ってピリピリと。
幾多の困難を経て不本意にも会得したこの第六感とも言うべき尻穴の感覚は、ボバリング戦法によって崩壊寸前の痙攣とはまた違うもので、経験上決して無視出来ない警告にも似た合図だ。
これが起こる時は大抵良くない事が始まってしまうため、より一層の注意を払うべき。
そんな、普通の人間には全く共感できない謎理論を展開するフュフテの前で、
バサバサバサ、と悪魔が足元に書物をばら撒き始めた。
「......え?」
今までのように本のページを毟り取るわけでもない。
生者か死者かも分からない鎧の戦士を召喚するわけでもない。
ただ無造作に、己の武器である十を超える数の魔本を床にいくつも放り投げる様は、見方を変えれば観念したかにも見える姿で。
悪魔の意図がまるで読めないフュフテが、念のため何かしらの攻撃が来るのに備えて身構える。
しかし、その選択は間違いであった。
ぶちりッ!
突如、生々しい音を鳴らして残る最後の犬面を引きちぎった悪魔が、それを片手で掴み振り回す。
断面から飛び散る黒色の血液が周囲の書物を禍々しく濡らすと、ひとつひとつがカタカタと動き術者に向かって這い寄り始めた。
「ーー不味いッ!」
自身の対応が過ちであった事を悟ったフュフテが、大急ぎで尻穴に風魔法を収束。
肛門が外れる程の勢いで、天高く舞い上がった。
「アアアーーーーッ!!」
事は一刻を争う。
激痛すぎて大事な器官がポロリと落っこちたような絶望感を抱きながら慟哭の叫びを放つが、それも仕方がないとの思いで急上昇。
見る見る内に天井付近に到達した所で、プスリ、と尻穴からの噴出が止まる。
どうやらガス欠のようだ。
だがもう充分に役割を果たしてくれたと肛門に感謝し、その場でくるりと反転。
硬い天板の感触を足裏に感じながら、眼下の悪魔を見上げる。
頭上では、一番近くに落ちていた魔本のひとつが悪魔へとたどり着き、足に触れるや否やズブズブと融合する光景が。
瞬時に黒の波動が大気を震わせ風圧を生み、悪魔の全身に凶悪な威圧がみなぎるのが見えた。
「あれはやばい......ッ! なんか分かんないけど、やばいッ!」
とりあえず「やばい」を連呼するフュフテは、明確に言葉には出来なくとも、このままあの魔本を悪魔に吸収させてはいけないという事実だけを理解する。
原理がどうとか、根拠は何かとか、そういう次元の話ではないのだ。
とにかくアレをやめさせなければ、こちらが死ぬ。
身を突き刺す死の気配。
戦いに身を置くものだけが感じ取れるその独特の感覚が、魔本を己の糧とした事で悪魔から爆発的に膨れ上がるのを察知して、フュフテは冷や汗と一緒に自由落下の体勢へと入った。
すぐ真下の悪魔と視線がかち合う。
悪魔の表情はすでに笑い顔から程遠く。
明確な殺意を持って上空の尻を敵と認識しており、それを受けたフュフテは、こんな状況でありながら奇妙な高揚感を抱く。
ーーこれだけの強者が、自分を相手に本気を出そうとしている。
言葉のやり取りなど一切ない。
意思の疎通など望めないし、望みたいとも思えない異形の相手。
互いが互いを排除するために力を振るうだけの、血塗られたこの場限りの関係。
にも関わらず、ふつふつと湧き上がるこの気持ちは、一体なんなのだろうか?
未だ嘗て味わった事のないこの感覚は、不思議と心地よいもので。
自分の臆病さが鳴りを潜めた訳ではない。
現に今もなお、自身の生死を賭けた命のやり取りに恐怖を感じているのは確か。
だがしかし、それを遥かに凌駕して胸中に灯るこの激情に名を付けるとすれば、これは「戦士の意地」と言うべきものなのかもしれない。
ならば、今はそれを貫き通すのみーーッ!
「オアアアアアァァァーーーーッ!!」
とっくに限界を迎えたはずの尻から、根性を捻り出す。
が、フュフテの気迫に反して、身体は言うことを聞いてくれない。
大量の『お漏らし』を撒き散らし、情熱的な『あいさつ』を振りまいて、壊れるくらいの『超噴射』を連発してきた。
尻穴はもちろんのこと、そこにエネルギーを供給する魔臓も、もはや限界に達しているのだ。
口から魔素を吸引しても、万全の状態と比べて明らかに反応が悪い。
その上、臓器が千切れそうな痛みを返してきて、意識が飛びそうになる。
痛みが魔臓の動きにブレーキをかけ、これ以上は危険領域だと制限をかけているのか。
ーーこのままでは、とても足りない。
こんな力では、あの悪魔に対抗するには弱すぎる。
どうやら自分には、まだ覚悟が足りていないらしい。
グググ先生との修行で身につけた力は、もう全てを出し切ってしまった。
尻の治癒魔法の『天使』の数々。
尻の激痛と引き換えの『諸刃』の尻技。
これ以上の、「安全」を確保した上での戦う手段は、何一つ残されていない。
残されているのは、「危険」を省みない、本当に最後の手段。
母ニュクスから禁じられている、自分にとって唯一つの禁術。
だが、それを使えばーー。
複雑な想いを抱き、瞼を瞑る。
生半可な覚悟では、到底発動することなど出来ない魔法。
それこそ、何もかもを失ってしまうかもしれない。
今よりも未熟だった頃とはいえ、過去に使用した際は危うく死にかけてしまった上に副作用に苦しむ事となった。
状況を鑑みればあの時よりも条件はなお悪く、本当に何がどうなるか見当もつかない。
もし師匠ニュクスに知られるような事があれば、殴られるどころでは済まないだろう。
ーーこの一戦に、それだけを賭ける価値があるのだろうか?
目を瞑っていたのは、時間にすればほんの一瞬。
しかし、その間に極限の集中力で思考を走らせたフュフテは、自問に対する答えを確かに叩き出した。
少しずつ自重で落下速度を増しながらに開く金の瞳は、ただ眼下の敵に応える事だけに全てを燃やす決意を秘めて。
忘れたのか。
あの地獄の日々を。
思い出せ。
死んだ方がマシだと思える苦しみを。
まだ、口から血を吐いてはいない。
まだ、大事な臓器が破れてはいない。
まだ、尻穴から内臓がはみ出る痛みで、発狂してはいないのだ。
まだイケるッ!
あの赤鬼の修業の日々に比べたら、こんなものは痛みでもなんでもないーー!!
「もっとッ! 熱くなれえええぇぇーーッ!!!」
拷問に等しい過去の記憶を強烈に呼び覚ましたフュフテが、脳内の痛みのリミッターを外す。
そうしなければとても生きてはいけなかった環境の所為で刻まれた防衛機能をフルで発揮したフュフテは、後先を考えずに己の身体全てを犠牲にして。
魔臓が、出してはいけない音を発しながら死力を生み出す。
魔力の供給ラインが、熱量で灼け付きつつも懸命に力を繋いで。
肛門が、最後の断末魔を長く引き伸ばして、真っ白にご臨終した。
「ーー『禁断の果実』ッ!!!」
フュフテの放つ、滅びの呪文。
崩壊するのは、敵か、尻か。はたまたその両方か。
空中で両足を曲げて、屈んだ姿勢を作るフュフテの中心。
地獄の桃扉を両手で裂き開いて姿を表す破滅の穴から、灼熱の塊がモリモリと顔を出した。
ほとばしる赤光が網膜に鮮烈を焼き付け、瞬く間に世界が緋色に染まるのを、この場の全ての者たちが見上げた次の瞬間ーー、
「ーーーーッ!!!!」
ブババババババーーーー!! という常識外れの噴出音と並行して赤い爆弾が一斉投下。
天から降り注ぐ雨粒にも等しき密集を見せる灼熱の塊は、逃げ道の一切を許さない濃密な絨毯爆撃。
その一つ一つが地に触れる度に破壊と閃光を上げて、目にする者の視力と聴力を無理矢理に奪い去る。
標的にされた悪魔は堪ったものではない。
吸収する筈であった書物の半数が爆撃で灰燼に帰し、魔本を身に蓄えて強化した筈の肉体が絶え間ない被爆に曝されて。
一向に止まない業火の雨が、術者の味わってきた苦痛を余すところなく思い知らせるように悪魔へと次々に降り注いだ。
ーーどのくらいの間、続いていたのかも分からない。
気が付くと終わりを迎えていた空爆の後には、肌を焦がす熱気と赤熱した大地。
火の粉を其処彼処で舞い上げる火煙の中で、悪魔の姿を見つける事叶わずに。
そんな壮絶な現場の片隅で、
「フュフテッ!」
ようやく亡者と鎧戦士を排除し終えたバニードとシリンの二人が、地に倒れ臥す金髪を見つけて全力で駆け寄る。
地面で仰向けに意識の無いフュフテは、全身がぼろ雑巾のように。
だがそれよりも深刻なのは。
「ひどい......」
「なんという、無茶を......」
元の肌色が分からないくらい真っ黒に焦げてしまった尻と、目を背けたくなる程に酷い有様の肛門を認めて、二人が悲痛な声を漏らす。
ピクリとも動かないフュフテの様子に焦るバニードは、
「シリンッ! フュフテを連れて先に帰還しろ! この状態は普通ではない......魔法士生命どころか、命に関わるかもしれん。
ここは任せろ......アレとは、私が決着をつける......」
すぐそばのシリンにフュフテを託して、おもむろに背後を振り返った。
屈んだ状態でフュフテの黒い尻を恐る恐る触ろうとしていたシリンが、ハッとしたようにバニードの視線の先に目を向ける。
黒煙の中に光る、二つの赤い瞳。
その全貌を未だ現してはいないものの、こちらに向けられるその重圧は、四つ首であった時とは比較するのも馬鹿らしくなるレベルで。
戦慄を覚えて身震いするシリンとは対照的に、力尽きた尻をもう一度見やったバニードの眼差しは隠しきれない熱量を発して、悪魔よりも一層赤く燃えていた。




