第34話 『ヒップのYOU』
世の中には「出し惜しみ」という言葉がある。
単純に「なかなか出さない」とか「出すのをしぶる」といった意味合いで使われる事が多いが、そもそも何故出すことを拒むのだろうか?
その解答のひとつに「惜しむ」という一語が示す通り、出すものが自分にとって「大切で愛しいもの」だから、という理由が上げられるかもしれない。
人によってそれは、お金だったり、労力だったり、心だったりする。
差し出す事によって「各々の対価に釣り合うものが得られるか?」という逡巡を無意識に抱くからこそ、往々にして出し惜しみは行われるのだ。
フュフテの場合、最初に惜しんだのは「名誉」であった。
森の民として著しく美しさに欠ける尻魔法を行使する事はすなわち自身の醜さの露呈であり、他者の前で披露するなど言語道断。考えられない選択だ。
しかしフュフテは幼馴染の命を救うため、つまり誰かの「命」を得るために、最も大切であった名誉を捨て去った。
次にフュフテが惜しんだのは、自身の「命」だ。
目の前で散り行こうとする存在と、病に侵された尻。一体どちらを取るのか?
悩みに悩んだ末、そこで選び取ったのは、ひとつの「信念」である。
誰に何を言われようとも、自分の正しいと思ったことを貫き通す、という強い意志。
危うく病に倒れそうになるというヒヤリとした場面もなくはなかったが、お陰で二人の人間の心を救えたのは大きな成果であったと言えるだろう。
そして今、フュフテが惜しみながらも決然と捨てようとしているのは、自身そのものとも言える「尻」だ
。
翻せば、当初あれほど恥じ入っていた尻を「大切もしくは愛おしいもの」と認識しているという時点で、フュフテ自身の自覚の有無はともかく客観的に見れば大きな進歩でもある。
単純に、死ぬよりはこれから披露する技によって引き起こされる痛みの方が遥かにマシだ、が本当の理由かもしれないが、だったら敵に背を向け尻をまくって逃げ出せば済む話。
それをしないのは、決して失いたくないものがあるから。
フュフテが、バニード達からの「信頼」を、選び取っていたからだ。
身を削って、仲間のために全力を尽くそうという姿勢。
命を賭して、勝機を生み出そうとする心意気。
リスクを負ってなお、何かを守ろうとするその姿を見て、一体誰がフュフテを笑うことなど出来るだろうか?
もっとも、現実は非情なもので、結果を残せなければ単なる匹夫の勇に過ぎない。
力を出しきらず殺されてしまっても、それは同意義だ。
だからこそ、フュフテは自身の「尻」をかけて悪魔に挑むのである。
最初にフュフテが捨て去った「名誉」。
望んでも安易に手に入るものではない。
己の信念を貫き、他者の信頼を裏切ることなく結果を残し続ける者だけが、それを他者から勝ち取れるのだ。
皮肉な事に、フュフテは真っ先に捨てたはずのものを、今となってようやく獲得し始めようとしていた。
果たして、本人はそれに気づいているのだろうかーー。
白濁の海に溺れる獲物目掛けて、悪魔の断罪の一条が振り下ろされる。
災いをなす原因と想定されるモノの呼び名。
漠然と擬人的に「悪魔」と呼称されるその存在にとって、自身の行動を阻害するものは等しく罪である。
理性はもつが悟性はもたない、要するに論理的な思考を行う能力・知力がないこの悪魔にとって、フュフテは単なる障害物であり目に付いたからには条件反射で排除すべき対象。
感性を持たないが故に、その美醜も分からずただ目の前の肌色が邪魔なだけなのだ。
豚から放出した大量の液体を撒けば、獲物はその場から動けなくなる。
あとは、犬で撃てば死ぬ。猫で叩けば死ぬ。
それが全てで、それで充分だ。
ひとたび触れれば瞬時に肉を裂き押し潰す棘鞭が地を打つのと同時に、それに合わせて撃ち出されていた犬の三連砲撃が炸裂。
戦略など何もない、力押し以外の何物でもない攻撃は、それでも反撃の術を持たない弱者には致死性の脅威そのもの。
間近で衝撃と大爆音に飲み込まれるフュフテを見て、悪魔の神経に触る笑い声が場に満ちる。
もしもこの声を先入観に囚われず冷静に聞ける者がいたとすれば、そこには何の感情も込められていない事に気付いただろう。
何故ならば、感性を持たない悪魔からは感情が生まれる事はないからだ。
ではなぜ笑い声をあげるのか?
それは、悪魔の本能というべきもののせいだ。
鳥が生まれながらに飛ぶことを知っているように。
対象の感情を揺さぶることで精神を乱し己の勝率を上げる術を、教えられる事なく自然と行っているだけに過ぎない。
白の大海に穿たれた窪みには、ついさっきまで動いていた目障りな存在は跡形もなく、空白を埋めようと周囲の白水が流れ込むばかり。
ますます大きくなる笑声は、次なる獲物を誘い込むための餌で。
それを行う人面と、暴力を振るう準備に取り掛かる獣面という四つ首を巡らせる悪魔の声は、
ーーボシュッ!
すぐ真横で鳴った、空気の抜ける音に次いで生まれた、高速のひざ蹴りで強制的に中断。
無防備であった悪魔の五体が不意打ちで吹き飛ぶ。
が、思考という停滞を生まない悪魔の対処は迅速。
四つの目を持つ視野の広さは、襲撃者をあっさりと捉えて、その突撃の軌道を予測し地に撃ち落とすべく棘鞭を発射。
見事というしかないタイミングでの薙ぎ払いは空中で回避するなど不可能、のはずであったが、
シュボボボッーー!
再びの空気音を奏でて襲撃者は宙空で軌道を変える。
その有り得ない動きに反応が遅れた悪魔目掛けて、
「ッ! グ、ガ......ッ」
バフンッ! と大噴出を上げて突き入れられた強烈な蹴りが直撃。
この戦いで初めて悪魔が苦悶の声を漏らし、盛大に仰け反った。
予想外の強打を浴びて床を滑り壁際まで飛ばされた悪魔は、壁面に身を打ち付けて勢いを殺すと、上空に浮かぶ邪魔者に焦点を合わせる。
そこには絶対の攻撃で塵となった筈の肌色が、空中でボバリングしながら自身を見下ろしていた。
※ ※ ※ ※
「アアアァァーーーーッ!!」
中空で尻穴からのジェット噴射による停止飛行をしていたフュフテは、激情を込めた雄叫びを上げて再び悪魔へと突っ込む。
便器の上で構える時のように足をやや広げてしゃがんだ状態から上体を無理矢理前に倒すと、必然的に尻穴は地面と水平に。
そこから風魔法による爆発的推進力で直進する様は、砲身から放たれた弾丸にも等しい超加速だ。
瞬きひとつの間に接近した悪魔から犬砲弾の迎撃が。
だがしかし、今のフュフテにはそんなものは通用しない。
「はぁッ!」
球体に接触する直前に、腹筋に力を入れて強引に腰を捻る。
左に大きく振った尻から再度の風魔法の噴出を。
それによって急角度に軌道を変えて犬砲弾を回避。
すぐさま体勢を目まぐるしく変じたフュフテが、尻穴から轟音をぶちかまして悪魔に突貫。
振りかぶった「暗パンチ」を、ちょうど正面にきた豚面目掛けてめり込ませた。
ピギャアアアーー!!
耳障りな不協和音に耳を痛めてしまい、慌てて壁を蹴りつけ上空へと離脱。
もともと醜い豚面がさらにグシャグシャに歪んで血濡れとなり、悪魔を三つ首へと変える事に成功。
「やった! ......はぁ、はぁっ。うう、でも、尻が......限界が、近い......ッ!」
ビキビキと悲鳴を上げる尻穴の痛みに脂汗を浮かべて、フュフテは己にあまり猶予が残されていないのを悟る。
一旦地に降り立つが、当然床一面は白濁液でヌルヌル状態。
やはり、こんな地面での地上戦は厳しいと言える。
だからこそ、この空中戦法が非常に有効でもあるのだが。
推進力特化の風魔法を尻穴から噴射させることで編み出されたこの三次元的戦闘スタイルは、フュフテがアルシオン山脈での一年の修行を経て体得したもの。
一度だけ見た母ニュクスの転移魔法による戦闘法を、自分なりにアレンジしたものでもある。
変幻自在とも言える高速の動きは、そう容易く捉えられる代物ではない。
そこから繰り出される攻撃は、暗ぱん強化の肉弾戦に加えて中距離・遠距離の尻魔法と選択の幅も広く、流動的な戦略を可能とする優れもの。
ただしその分、リスクも非常に高い。
「もう一度、次は、猫面を、潰す......ッ!」
ひび割れそうになる肛門に喝を入れてフュフテは再度、空の人となる。
人ひとりを上空に打ち上げる程の魔法が安易なものである訳もなく、一度の噴出で消費される魔力は莫大。
いくらフュフテの魔力総量が規格外とはいえ、そう何度も使えるはずもなく。
ゆえに、短期決戦が望ましいのだ。
幸いにも悪魔の攻撃手段はそう多くない。
豚面を潰したことで広範囲に汁液をぶっかけられて地面に落とされる心配がなくなり、後は猫面の棘鞭を最優先に警戒すれば良い。
犬砲弾は躱しやすいから被弾さえ気を付ければ大丈夫。
明確に標的を定めるフュフテは、縦横無尽に振るわれる鞭の乱舞を尻の急加速と急停止で凌ぐ。
その度にかかる重力で肛門は大ダメージだが。
「あうあッ! っ!! ッつああああぁぁぁーーーーッ!!!」
頬やドレスを掠める線撃に赤い血筋を散らして、フュフテがアクロバティックに気迫を放つ。
黒のドレスがひらめく度に確実に悪魔へと痛手を与えつつも、致命傷だけは紙一重に回避を。
軌道を変更する度に肛門が裏返るほどの激痛に耐えて繰り出される拳と足技に、さすがの強者もダメージを蓄積させていく。
「ぐぅ! うう.....ッ!」
悪魔の攻撃は決して生易しくはない。
どころか、一度でも直撃すれば即死ものの脅威。
フュフテだからこそ、この空中戦が可能なのだ。
己が変わることを決めた日からずっと。
病めるときも、健やかなるときも、尻と共に生きる事を誓ったフュフテだからこそ。
手から出す通常の魔法士には、とても真似など出来ない。
理由は単純明快。
手だけで身体全体を支えるのは、不安定この上ないからだ。
それに比べて、尻は座るだけで身体全体を安定させられる。
地上でもそうなのだから、空中ともなれば言うまでもない事。
おまけに、フュフテは常日頃から肛門の向きを気にして生きている。
いつ如何なる時も尻穴を標的に向けられるように、という厳しい鍛錬を己に課しているのだ。
然るが故に寸分の狂いもなく最適な角度で肛門を操る事が出来、今なお華麗な戦闘を継続させている。
ーー尻魔法士の名は、伊達ではないのだ。
「ーー!」
悪魔の長衣がはだけて毛むくじゃらの肉体が露わとなり、そこに打ち込まれた打撃が鬱血と軋みを生む。
同時にフュフテの尻穴は限界を迎えつつあり、絶え間なく肛門が裂傷と血糊を作り出して。
「ほあああァァーーッ!」
気が狂ったかのような絶叫を奏でる肛門の魔術師が、棘だらけの先端の棍棒を全力で蹴りつける。
暗ぱんさんの強化ブーツをしても防ぎきれない痛手で右足を血濡れに負傷するが、その代償の成果として棘の頭を壁面に埋もれさせ、決定的な隙を演出。
間髪入れず肛門を振り絞っての超噴射で、悪魔の頭上に躍り出た。
「沈めッ!」
前転の要領で、その場で暴風のごとき輪旋。
凄まじい遠心力の乗った重撃のかかと落としを猫面に振り落とすと、フュフテの限界間近だった右足と引き換えに、頭部を木っ端微塵に粉砕させた。
「......ハァッ、ハァッ!」
残る頭は二つ。
重力落下から床を自転して悪魔から距離をとったフュフテは右足と尻穴の酷痛に呻きを上げ、自身に残された余力の少なさに歯噛みする。
動けたとしても、精々あと一撃が限度だろう。
だとしても、フュフテの役割は悪魔の足止めにある。
魔本による亡者の供給を停止させただけでなく、豚面に加えて猫面まで破壊し攻撃力を大きく削いだ。
戦果としては既に十分と言える。
身体のあちこちから血を滴らせ、一部からは大量出血で満身創痍となったフュフテがよろめきながら身を起こすと、相手もゆらり立ち上がる。
フュフテと悪魔のせめぎ合いは、いよいよ最終局面を迎えようとしていた。