第26話 『ファーストコンタクト』
その男は、突如としてフュフテの背後へと現れた。
なんの前触れもなく、霞から生まれるに似た無響の出現。
変貌したサマンサにあらぬ疑いを抱いたフュフテが、立ち上がって数歩後ずさった際にたまたま背に何かが触れたことで初めて存在を感知した、招かざる客人。
ぐちょり、という粘質な湿り気と、鼻の奥をツンと突く刺激臭に条件反射で全身の肌が粟立ち、汚物を踏んづけたような悲壮な顔付きになったフュフテは、
「やあ、いい匂いだねお嬢ちゃん。こんなところで、何をしてるのかな?」
今し方の嫌悪感を裏切る非常に物腰の柔らかい声を背後からかけられて、そのちぐはくさにより一層の気持ち悪さが湧き上がって、恐る恐る後ろを振り返る。
すると、満面の笑みを浮かべた中年の男が、情熱的な目付きでこちらを見下ろしていた。
ーーただし、その顔は左半分がなかったが。
「ひぃぁあああああーーーーッ!!」
禿げ散らかした頭頂部から片目を含む左頬までがごっそりと消失し、そこから脳髄と変色した肉を覗かせる男は、片側の目尻に深い皺をたたえて歯茎を剥き出しに笑いの形に。
「あはっ、あはっ」とうわずった音と同時に耐え難い臭気を口から垂れ流してくる姿と至近距離で遭遇したフュフテは、目を限界まで見開いて喉の奥底から悲鳴を上げてしまう。
藪から棒にグロテスクな物体と対面させられて、おまけに抱きしめられるかのように密着した現状に、恐慌状態へとおちいった尻。
そうすると、地獄の特訓によってケツの穴まで染み付いた自己防衛機能がフル稼働し、何かを考える前に反転攻勢へと瞬時に移行した。
男に背を向けた状態で、フュフテの両膝が僅かに前屈。
瞬きの溜めを見せた後、左軸足のカカトが上がると同時に右膝は開き気味に折り曲げられ、半身を振り返る体勢で右足裏に力が収束する。
それに追加で、不愉快な男が主人に接近した事で激憤した暗ぱんさんが、黒のブーツに膨大な熱量をたぎらせた。
「あっちいけえええぇッ!!」
フュフテの拒絶の大音声と共に解放される、突き槍のごとき蹴撃。
雷神の怒りを思わせる稲妻をほとばしらせて打ち込まれた後ろ蹴りが、顔の欠けた男の土手っ腹に高速で埋まると、間近で落雷を聞いたかのような音を轟かせて大穴をぶち開け、盛大に後方へと吹き飛ばした。
バリバリッ! と拡散する紫電がひときわ明るく周囲の石畳と飛び散る肉片を浮かび上がらせる中、未だ帯電して火花放電する片足を上げたままに固まるフュフテは、そこで初めて「はっ!」と思考を取り戻す。
ーーび、びっくりした。
思わず無我夢中で蹴り飛ばしてしまった。
というか、それだけでは済まないくらいに甚大な被害を与えてしまったみたいだが、この男はなんなのだろうか?
石床で大の字に倒れている中年の腹部からは、白い煙と高熱で肉が焼けた臭いが立ち昇っていて、迷宮内に何処かから流れ込んでいる風に拾われ、辺りにゆっくりと広がっている。
割と距離が近いため、人が焼ける独特の悪臭を嗅ぎ取ってしまい吐きそうになっていると、
「なんて、ひどいことをするんだね。イケナイお嬢ちゃんだ。これはオシオキしなきゃいけない、ああ、おしおきだおしおき、おしおしおしおき、おきおしおしおきーーーーぃぃアアッハアハ!」
ムクリ、と上半身だけが不自然な動きで起き上がり、両足を投げ出したままに歌うように「おしおき」と連呼する散らかったハゲは、いきなり全身から腐った汁を噴き出してヌメヌメと哄笑し出した。
今まで目にしたどの男よりも気持ちが悪い有様に、今度こそはっきりと怖気で身体中にさぶいぼを立てていると、座っていた男が狂った笑いを発しながら獣のように四足歩行体勢になる。
「ーーッ!」
ベシャリ、と爛れた肉を地面に打ち付けたと同時に、触れるのも嫌悪するヨダレを撒き散らしながら両手両足で駆け出す狂人。
思いのほか素早い動きに、見る見る内に接近されて、このままでは勢いよく押し倒されてどうにかなってしまう。
嫌だ、気持ち悪い、触りたくない、避けなきゃーー。
そう思いながらも、あまりの異様さに対する拒絶反応でその場に縫い付けられてしまったフュフテが、半泣きの顔で身構えると、
「ーーとても素晴らしい腕だフュフテ。やはり君は私の見込んだ通りの戦士。だが、ひとつ君に伝え忘れていたようだ」
すぐ真横から涼やかな声がしたのと同タイミングで、重量物を振り下ろす重音と猛烈な風圧が巻き起こり、すぐ眼前にまで迫っていた気色の悪い汚物が真っ二つに弾け飛ぶのを目にする。
「こいつらは魔臓を潰さなければ動くことを止めない。狙うのは常に一点。最短最小の動きで急所を突くのが最善手だ。
といっても、全てをひとりでやろうと思わなくていい。君はひとりじゃないんだ。私達の存在を忘れてはいないか?」
あっさりと危機が去ったことに呆然とするフュフテは、それを行ったひとりの男の声を聞き、その姿を目で追う。
強者の風格漂う厳かな足取りで今し方切り裂いた肉片に歩み寄り、床から何かを拾い上げた男は、振り向きざまにフュフテへとそれを放り投げる。
緩やかな放物線を描いて自分の手元に落ちてきた魔石を慌てて受け止めたフュフテに、口端だけで微笑みを形作る男は、他でもない。
シャルロッテ、マイケル、シリン、そして遂にはサマンサと、危ないメンバーを束ね率いていることから、「そんな人物がまともである筈がない!」と勝手に思い込んで決め付けていた人物。
聖王国の枢機卿という、高位の人物お抱えの専属部隊。
戦闘斥候部隊隊長、バニードその人だった。
僅かに目にかかるくらいの長さの白い髪をサラサラと、色素の薄い肌に調和させているその風貌は、美形というよりかは精悍、といった面立ちで、それに相応しい鋭い赤の眼光が細目から姿を見せている。
全裸の竜族イアンほどではないにしろ、それなりの長身が身につけているのは、明らかに一級品だと分かる黄金色の鎧。
ちょうど片手で持てるくらいの長さの戦斧が二本交差している胴体の模様は、まるで鎧に斧が埋め込まれているかのような一風変わったデザインで。
「カッコいい......」
今さっき敵を切り裂いた片手斧をくるりと回し腰元の装着具に納めるバニードを見て、フュフテは湧き上がってきた感想を正直に口にした。
思えば、こうしてフュフテが素直に男を賞賛するのは初めてかもしれない。
何故ならば、今までフュフテが出会ってきた男連中はそのどれを見ても、少々風変わりに過ぎる部分が多々見受けられたからである。
変態アダムトに始まり、ネズミ男のドロス。
喋る股間のイアンに、無神経なオスタ。
最近では視線も行動もなにかと煩わしいマイケルと、軽く思い返してみても碌な人物がいない。
そんな中で、初めてといっても良いまともそうな大人の男。
その上、自分の危機を颯爽と救ってくれた、頼もし過ぎる戦士でもある。
いきなりのサマンサの変わりように動揺してしまった事で、少々バニードに対して失礼な想いを抱いてしまったが、よくよく考えれば直接危害を加えられた訳でもなく、危険な場面ではしっかりとフォローしてくれるのは先刻証明済みだ。
そんな頼り甲斐のあるバニードの株を自分の中で急上昇させたフュフテは、優良物件を逃すまいとする肉食系女子の如き光を目から放って、あざとくもチョコチョコと彼に付いて歩き出す。
ちゃっかりと危ない前線から下がって、最後方のバニードと並ぶ位置に納まったフュフテは、なかなかに強かであった。
奇しくも突然に現れた腐ったハゲにより救われた形で、自分を安全な環境へと置くことができたフュフテは、
「さっきは、助けてくれてありがとうございました。すごく、格好良かったです! 僕が女の子だったら惚れてしまっていたかもしれません」
若干頬を上気させて、無自覚ながらどう見ても憧れの男性に想いを寄せる少女的な微笑をバニードへと向けている。
「ちょっと馴れ馴れしかったかな?」と少し不安になるも、
「それは残念だ。サマンサと出会う前に、ぜひとも聞かせてもらいたかったものだな」
予想以上に親しみやすい返答が返ってきて、フュフテはますます好印象を抱く。
こんな仮定の話という軽い冗談にも自然な感じで付き合ってくれるとは、思った以上に気安い所もある人物であるらしい。
隊列としては、フュフテが後方に下がっただけで特に変わる事はなく、今度は全ての罠をサマンサが排除しているおかげで進行はスムーズに。
その間、フュフテは色々と気になっていた事をバニードとの会話のやり取りから得ていく。
この地下都市では、さっきみたいな動く人や動物の死体、人知を超えた化け物などが、様々な箇所で沸いて出るとのこと。
原理は分からないのだが、それらは過去にこの世界の何処かで死んだ者達。
それこそ数百年前の歴史上の人物から、昨日亡くなった近所の老人まで、無作為に選別されて何処からともなく生まれ、地下迷宮内で一度殺してもまた何処かで蘇る。
地下迷宮の奥深くに行けば行く程に、それらは危険度を増していくらしく、最奥地にはどんな恐ろしいモノが待ち受けているか想像もつかないそうだ。
また、討伐すれば魔臓の位置からは必ず魔石を採取することが可能であるため、この地下迷宮は通常そう容易く手に入らない魔石を大量に集められる場所、という訳だ。
魔を生み出し、魔を得る事の出来る都。
そういった意味合いも込めて、「魔都」と呼ばれている。
「ほおぉーー」とバニードの話を夢中で聞いているフュフテは、どうやら彼を相当に気に入った様子。
ぴたりと寄り添って見上げてくる美少女に懐かれて、妻のサマンサ一筋のバニードも悪い気はしないのか、きちんと部隊のメンバーに注意を割きながらも会話を弾ませていく。
それは、バニード自身の出自にも及んでいるようで、
「私の先祖はフェリシオン=ドエムノという人物で、彼は聖王国の歴史上、最強である剣聖に初めて肉薄した偉大な武人だった。
戦斧を持たせれば右に出る者は居ないとまで言われた、至高の強者。
そしてこの黄金の鎧は、彼から一族に代々受け継がれてきた代物なのだが、困ったことに少々曰く付きのものでな......」
身に纏う黄金の輝きに言及した際に、どこか遠い目をする彼に不思議に思い、それについて掘り下げようとフュフテが顔を上げた所で、
「ーー助けてくれッ!!」
不意に焦燥感に濡れた叫びとともに、前方の十字路から男が飛び出してきた。
「すわ、また変な男か!?」とビクつくフュフテだったが、よく見れば生者に間違いない生気あふれる姿を認めて、ひとまずは安堵。
だが、どう見ても彼の尋常ではない様子に、部隊の面々に緊張が走る。
「頼むッ! 仲間が襲われてるんだッ! あれは、悪魔だッ!!」
悲痛な声で助けを求める男は、ここに入ってくる際に自分達より先に進んでいった四人の探索者。
その内のひとりであった彼は、全身を傷だらけに血で濡らし、恐怖による涙の筋を貼り付けた顔で、フュフテたち一向に縋り付いてきた。