第20話 『洗脳』
「あはぁ......最高のひとときだったよ......私の目に狂いはなかった」
充足感を言葉の端々に滲ませて満たされた感慨を口にする尻学者シャルロッテは、至福の余韻を纏わせてゆっくりと屈んだ状態から立ち上がる。
うつ伏せの状態でピクピクと痙攣し、白目を剥き気を失っているフュフテを見下ろす彼女は、自身の五指に付着した言葉にするのもはばかられる体液の残滓を、ペロリと舐め上げて。
妖しい光で眼鏡をきらりとさせて抑えきれない愉悦を口元に湛える姿は、「猟奇的」という単語が裸足で逃げ出す程に頭のネジが外れた風態。
血痕とも思しき液体が犠牲者の下に敷かれた布に染みを作っているこの状況は、側から見れば無理矢理に無体を働かれた事後の光景にも見えているが、あくまでもこれは同意を得ての行為によるもの。
とはいえ、お互いの認識に大きな差異があったという点は否めない。
さしものフュフテも、よもやアレほどまでにお尻を蹂躙されるとは思ってもみなかったであろう。
シャルロッテの尻に対する情熱は、尋常のものではなかったのだ。
「さてさて。フュフテが目を覚ます前に、エイドリアンから情報を読み取るとしようか」
今さっきの尻の調査で取得したデータを分析するため、シャルロッテは「エイドリアン」と名付けた右手に持つ自身の相棒。
黒光りしながらさまざまな汁に濡れて触手的に蠢く鞭の先端をひと撫でした後に、スタスタと室内を移動する。
大量の書物やら用途不明の魔道具やらがごちゃ混ぜに点在するこの部屋の、やや中央に設置されたデスクの椅子に腰掛けたシャルロッテは、机上の紙片になにやら書き付けを行った。
乱雑に筆を走らせている様子を見るに、記録として残すというよりは自身の考察を纒めるといった意味合いが強いのだろうか。
高速で生成される文字は、本人以外には読み取れないぐらいに雑で判別に難のある字体である。
時折書く手を休めて鞭のエイドリアンに触れている所から察するに、フュフテの穴ぐらに侵入した触手は情報を記録する機能を有した魔道具なのかもしれない。
「うっ......あれ......? 僕は一体、何を......ッアア! なんか、お尻が、熱いッ!?」
しばらく黙々と机に向かっていたシャルロッテが声に反応してして顔をあげると、ちょうど意識を取り戻したのだろう。
起き上がろうとして尻の痛みに気付いたのか、正座の姿勢から状態を前のめりにおデコを床布に接地した形で、フュフテが両手で尻穴を抑えてフルフルとしていた。
正直涙が出そうになるくらい可哀想な姿だが、残念ながら本人の了承を得ての行為なので、シャルロッテを責めるのはお門違いというものだろう。それでも同情はするが。
激しく熱と痛みを訴えてくる尻を抱えて苦しむフュフテは、吹っ飛んでいた記憶を徐々に取り戻した事で、「なんてことをしてくれたんだ!」とシャルロッテをキッと睨み付けるが。
「やあやあ、起きたかフュフテ! キミの尻は期待通り......いや、期待以上の素晴らしいものだった......。
わたしが今日この日まで生きてきたのは、この尻に出逢うためだったのだと感じさせるくらいに、最上級の尻を見せてもらったよ。
礼を言わせてもらおう。ありがとう、フュフテ。うっ......キミに、出逢えて......ぐすっ、本当に、良がっだ......」
「いや......あ、はい。それは......どうも」
椅子から勢いよく立ち上がり、丸まっているフュフテの側まで来て熱弁しながら、ついには感謝の言葉と共に号泣し出したシャルロッテを見て、ドン引きしてしまう。
鼻をぐじゅぐじゅ言わせて滂沱の涙を流すシャルロッテは、おそらくは感極まってしまったのだろう。
この上なく幸せそうな笑顔を浮かべて喜びの汁を顔面から噴き出しつつ、時折天を仰いで咆哮を上げていて、近寄り難いどころではない狂乱の有様。
尻に謎の感謝をされても全く嬉しくないフュフテは、何ひとつシャルロッテに共感できないままに臀部を抑えてうずくまるばかり。
すぐ傍らの精神異常者をこれ以上刺激しないように、一瞬抱いた憤りなどあっという間に脇に投げ捨てて、必死に目を逸らし嵐が過ぎ去るのを待っている。
ひとまず魔法で治療をし始めたフュフテの尻から漏れる魔力光にあてられて、シャルロッテから滴り落ちる感動の雫だけが、二人の奇跡の出逢いを祝福するかのようにその身を煌めかせていた。
※ ※ ※ ※
ひとしきり泣き喚いて何かを発散したシャルロッテは、
「ではさっそく本題にはいろうか。
フュフテ、キミの尻を存分に愛でた事でわたしは多くの理解を得た。この『眼』の特異性は先刻語ったと思うが、これで視たキミの景色は非常に筆舌に尽くしがたいものだった......。
困難という困難、不条理という不条理を超えて今ここに在るキミの尻は、世界最高峰の宝玉に引けを取らない唯一無二、究極の神器だ! だが......しかしッ!!」
さっきの異常な一幕などまるでなかったかの振る舞いで表情筋を引き締めて、燃え滾る浅紅の眼差しをギラギラとさせ、こぶしを掲げて力説し出した。
「惜しい! 実に惜しいッ!!
キミはそれを自ら捨てようとしているではないかッ! 何故だ!? 『尻から魔法が出る』、最高だ......最高としか言いようがないッ......!
わたしが尻をこよなく愛しているからこのような事を言っているのだとキミは思うかも知れないが、それは断じて違うぞッ!?
キミの今まで経験してきた全てを目にした上で、それでも尚そう思うのだ!」
鼻息荒く言い募るシャルロッテは、語りを続ける内に更なる熱意がこもってきたのか、天に向かって伸ばした腕を激しく震わせて想いを解き放つ。
「若いキミにはまだ分からないかもしれないが、尻を成長させる事が出来るのは『困難』だけだ。
生温い環境では、真に尻は磨かれることはない。
何故だか分かるか? 簡単だ。
尻は流されやすいのだ。
どの尻も、みな怠け者なんだ。悲しいことにな。本当は分かっているにも関わらずに、だ。
どうすればもっと強くなれるか、美しくなれるか、評価されるか、より輝けるか。方法なんていくらでも先人の尻たちが教えてくれているだろう?
けれど、大抵の尻たちは現状に甘んじて動こうとはしない。面倒くさいからだ。努力する事がしんどいからだ。だからどの尻も対して燃える事なく力尽きていく。残念だ。誠に遺憾だ。
ならばこそ、尻には圧倒的に試練が必要なんだ! 今の現状から死に物狂いで変化しなければ乗り越えられない困難に直面して、それを乗り越えた尻だけが一際強く輝くんだ!
もっとも、そんな事態に陥らなくても勝手に光る尻は幾らでもあるがな。大抵の尻は、そうそう自分では変われないものさ」
少し声音を落として、高く上げた腕をゆっくりと下ろしたシャルロッテは、何かを思い出す仕草で握ったこぶしを開き、それを見つめてため息をひとつ落とす。
それも束の間。
急にバッ、と素早く顔を少年へと向けて、
「そんな尻たちとは違いッ! キミの尻はまさに、絶望の申し子といっても良いくらいに磨き上げられてきた尻だッ!
この歳でこれほどに昇華されたものをわたしは目にした事がない!
さらに、まだまだ磨く余地が充分に残っているとは恐れ入る。最高だ! 重ねて言うが、最高に過ぎるんだッ!!
その尻をここで終わらせるなど、あり得ない!
そもそもキミは、『尻から魔法が出る』という事実を正しく理解しているのかッ!?
いいか? 尻というのは、モノを排出する事に特化した器官だ。一般的に周知されている『手から出す』という方法は、わたしから言わせれば有り得ないくらいに非効率的!
手のひらや指という器官は道具を十全に扱うべく備わっているものであるからして、魔法を排出するのには不適切極まりない場所だ。
キミは排泄する時に手から出そうとするのか!? しないだろうッ!?」
「えっ? ......ま、まぁ、それはしないですけど......でも、排泄と魔法を、一緒にされても......」
泡を飛ばして口弁するシャルロッテの剣幕にタジタジとなるフュフテは、今まで散々に尻から似たようなものを出して来た過去も忘れて、正論ぽいものを返す。が、
「何が違うというんだッ!? 『出す』という方向性においては共に同じ行為だろう? 重要性という点においても同等。
魔法が攻撃性、防護性、治癒性という多様性を持つから排泄物とは違うというのならば、それは浅はかな考えというものだぞ?
排泄物は衛生的観点からみれば病原体を保有する危険物だ。人に摂取させれば死に至らしめる事も不可能ではない。
また守りという点で言えば、体内の毒素を抜く役割を担っているだろう? これは人糞のもつ一側面でしかないが、充分に体を守っていると言えるのではないか?
さらに治療という面では、糞は薬の材料として使われてきたこともある。詳細は省くが、形は違えど互いに通ずる所があるのではないかと思うのだが?」
もはや詭弁に過ぎない論を展開してくる彼女にさらに気圧されて、「そうですね、僕が間違ってました。ごめんなさい」と謝る少年は、懸命に空気を読んだ。
というよりも、何がシャルロッテの神経に障るか全く読み取れないため、あまり強く出る事が出来なかったのだ。
ましてや、万が一不用意な発言で彼女の逆鱗にでも触れてしまったら、本当に何をされてしまうか分からなかった。
冒頭では精神崩壊を未然に防ぐ防衛本能によって、早々に自ら意識を飛ばし気絶したフュフテだったが、治癒魔法で痛みがほぼ無くなったにも関わらず自身の尻は恐怖を刻み付けられてしまったようで、無意識にシャルロッテへの抵抗を避けてしまう。
こういう言い方をしてしまうと、尻がフュフテの本体のように感じるが、おおよそ似たようなものなのかもしれない。
本能に穿たれた悪夢の烙印に怯える、従順な子羊と化したお尻は、
「話が脱線してしまったが、要は『尻魔法』の優位性をあっさりと切り捨てるのは早計でないか? という事だ。
キミの記憶の中の師、なんだったか......『研ぎ澄まされた尻』を持つ男の股間も言っていただろう?
尻は可能性を秘めているーーと。まさにその通りだ。いい事を言う! これは未だわたしの仮説だが、尻から出す魔法は余分な抵抗がない分、純然たる威力を発揮しているのではないか? とみているんだ。
魔法の本来の性能を余す所なく発揮出来るのは、手ではなく尻だッ!
もしこれが証明できれば、世界中の魔法士がみな『尻魔法士』になるに違いないだろう! どうだ? もうそうなってしまえば、キミも尻から出るという事実に悩まなくて済むだろう? なにせ、皆と同じなのだからッ!」
「ーーッ!」
その予想外のシャルロッテの理論を聞いて、脳天を斧でカチ割られるが如き衝撃を受けて眼を剥いた。
自分が皆に合わせるのではなく、皆を自分に合わせるという着想。
それも、無理矢理にではなく、必然とも言える方向性で極々自然に持っていくという手段。
確かに、その方法はフュフテが今まで想像した事もない解決策であり、また理にかなった驚きのアイデアであった。
シャルロッテの言う通り、正しいやり方を全ての魔法士に知らせる事はとても素晴らしいことではないか。
今まで誰もが見落としてきた真実を解き明かせれば、きっと魔法士全体にとって素敵な未来となる。
そう考えるフュフテは、色んな希望に満ち溢れて、双眸に強い光を瞬かせている。
フュフテ自身に、悪気は一切ないのだろう。
純粋に、魔法士にとって良い事に違いないと善意と希望しかない少年には、シャルロッテと自分の考えがどういう事を意味するのか全然気付けていない。
もしシャルロッテの案が実現したとすれば、フュフテにとって世界はとても優しくなるであろう。
そのかわりに、魔法士はケツを丸出しにする職業となる。
ーーそれはもはや、ただの道連れであった。
「やりましょうッ! シャルさん! 僕、全力で協力します! 尻を、尻を広めてくださいッ!!」
「そうかッ! 分かってくれたかフュフテ! やっぱりキミは最高だァっはあぁッ!
おおっと、喜ぶのはまだ早いぞフュフテ。あくまでこれは現時点で仮説にしか過ぎない。だから、過度な期待は禁物だよ?」
「わ、分かりました! えっと、じゃあどうすればいいですか!? また尻を開けばいいですか!?」
だが、冷静さを見事に欠いた状態でそんな事に気付く筈もなく、珍しく興奮してシャルロッテに詰め寄るフュフテ。
どうやら新しい世界に相当な魅力を感じた少年は、洗脳された信者のように思考を放棄して彼女に指示を仰ぐ。
再度あの地獄の扉を自ら開こうとまで口走るのだから、たいしたものだ。
もっとも、それぐらいにフュフテにとって渇望する未来だからこそなのだが。
「くううっはッ! あまり刺激しないでくれたまえ! そんな魅惑の言葉を聞かされたら、興奮して穴という穴を三日三晩、ほじくり回したくなってしまうじゃないかっ! キミはわたしをどうしたいんだいっ!?
んん! 結論だ! 結論を言うとだ、フュフテ!
キミは魔都に向かい、予定通り極大魔石を手に入れるんだ。選択肢は多い方がいいからね。
そして、同時に尻魔法についても研究していく。尻が溢れる、よりよい世界のためだ!
この二点を目標に、わたし達は進んでいこう! それが、答えだ! どうだフュフテ? 燃えてこないかッ!?」
「はいッ! 燃えて来ました! シャルさん、僕、頑張ります!」
フュフテの蠱惑的な台詞に理性を飛ばしそうになりながらも、シャルロッテは目的を明確に指し示す。
完全に脳を犯されてしまった単純な尻少年は、床布にひざまずいた状態で指導者を見上げ、心から賛同の声を上げて情熱で熱く胸を焦がしていた。