第18話 『攫われたお尻』
「んっ......ッ!? こ、これは......ッ!」
両手を添えたお皿から口内へと流れ込む液体の、確かに粘性を感じる中に秘められた深みを舌で感じ取った途端、シリンの瞳が大きく見開かれる。
どこかで味わったような、けれどもまるで知らないような。
そんな郷愁と未知という相反する二つの属性で混沌とする汁物に驚き、口から器を離そうとするも、体が勝手にそれを拒むかのように動いて次々と液体が喉を鳴らしていく。
そうすると、治癒成分を含んだ茶色の汁が体内を駆け巡って太ももの患部へと到達し、見る見るうちに内側から肉が盛り上がって傷口が瞬く間に塞がっていった。
その事実にシリンは、表面上は冷静を装いながらも内心で驚愕の叫びを上げていた。
「ーーありえない!」と。
治癒の効果が、ではない。「見る見るうちに」治った、という点がだ。
通常、治癒魔法の熟練度というものは、術者の経験値に比例するものだ。
魔法構成の基本式自体はただ難解なだけであり、正しく発動さえできれば治癒魔法そのものには辛うじて成功する。
治癒魔法士たちは、その基本式をいじくり回して各々が独自性を模索していくものなのだが、治癒速度に関してだけは純粋に経験によってのみ上昇していくものなのである。
ようは、
「どれだけ治癒魔法を繰り返し行使していくか」
「どれだけ怪我に対する知識を習得できるか」
この二つをバランスよく高めていくしかない、とも言える。
知識を伴わない未熟な魔法を使い続けても意味はなく、知識だけがあっても使いこなせなければ宝の持ち腐れ。
だからこそ、どれだけの症例をこなし知識を己のものにしてきたか、という事が大きなウェイトを占める。
つまりこの魔法士は、一瞬で重傷を治せるぐらい怪我というものに熟知していて、それこそ日常茶飯事に治癒魔法を行使し続けてきた、という事に他ならないのだ。
何をどうすれば、自分とほぼ変わらない年齢でここまでの境地に至れるのだろうか。
まさかとは思うが、日々誰かに重傷を負わせてそれを治すという、虐待を超えた非道を行なってきたのか。
もしくは、毎日刃物で刺されてそれを治療するなどという、拷問まがいの訓練をし続けてきたとでも言うのか。
いや、そんな筈はない。
そのような気が狂った行為で魔法訓練を続ける魔法士など、この世に存在する訳がないーーそう思い直してシリンは、きっとフュフテはとても高度な技術を持つ師に師事してきたため、何か特殊なコツでも持っているのだろう、と考えることにした。
治癒効果と即効性、両者ともに申し分のないその治癒魔法の性能に舌を巻くシリンは、治りたてでまだピリピリと引き攣る皮膚の感触は残っているものの、断続的な痛みから解放されて深いため息をつく。
「ありがとう......すごいね。見たことない、こんな魔法。 それに、このシチュー?
すごくおいしいよ......不思議な味、だね? ......でも、どうしてこれを選んだの?」
シチューというものは本来、骨や野菜その他もろもろにスパイスを加えて長時間煮込んで完成を見るものであるが、シリンの手にした器に注がれた汁物はフュフテの尻から短時間で出たにも関わらず、それに引けを取らない深い味わいを見せている。
そこには製作者であるフュフテの得た知識、モノにするまでの時間、理想へと近付ける努力の汗が込められていて、サマンサのシチューを踏襲していながらも、オリジナリティに富んだ代物。
想像以上の美味に感嘆を呟いて、このシチューの意図を問うシリンに対し、
「......数日前にこの迷宮都市に着いた時の僕は、飢えと疲労で極限の状態でした。そんな時にサマンサさんに助けてもらって、介抱までしてもらった時に頂いたのが、このシチューの味です。
とても美味しかったですし、救われました......自分の身体の中で固まっていた嫌なものが、全部流されていくように思えて」
当時の感覚を思い出すかの仕草で、一度床に目を落とすフュフテ。
噛みしめるようにゆっくりと話した後に、再度顔を上げると、
「だから、シリンさんにも味わってもらいたかったんです。
シリンさんの中で凝り固まってしまった魔法士に対する偏見を、サマンサさんのシチューを借りて洗い流して欲しかった。
サマンサさんは、シリンさんが信用している人ですよね? そんな人のシチューならシリンさんの心にきっと届く、そう思いました」
「............」
暖かいものを見つめる視線をシリンへと向けて、フュフテは自身の意図を語る。
彼女の中で何かしらの変化が訪れているのか、フュフテから目を逸らして俯き加減となったシリンを見て少し慌てたフュフテは、
「あっ! もちろん、一番の目的は怪我の治療ですよ? 付与したのは治癒魔法ですから。
そもそもこれ、味はシチューですけど食べ物じゃありませんし。土魔法と水魔法で作ったものなので、栄養とかもありません。体に害はないですけどね?」
念のために『天使のおひねり』の詳細を説明する。
というのもこの魔法の発想の原点は、フュフテが飢えに苦しみながらの「七日間空の旅」を行った際に生まれた、偶然というより必然ともいえる行為に端を発している。
終わりの見えない空中遊泳の最中で、なんとか飢えを紛らわそうと試行錯誤した結果、尻から出る水魔法に味付けをするという苦し紛れの方法を思い立ち、それでもなお満足出来ずに土魔法にも手を出したのだ。
もっとも水魔法による水分補給と違って、土魔法は土である以上は食べ物とはなり得なかったので、結局のところ飢えを満たすことは出来なかったのだが。
厳密には、腹は膨れたが身体には何の栄養にもならなかったため衰弱は免れなかった、というべきか。
ついでに言うと、土を食べ過ぎてカチカチの物体がお腹に溜まってしまったので、下品な話ではあるがフュフテのお尻は大変なことになってしまっていた。
のちにサマンサのシチューのおかげか、固まっていた嫌なもの達は綺麗に流れ去っていったが、フュフテの尻穴はまたひとつ苦行を経験したとだけ、ここに付け加えておこう。
「......もうひとつ聞かせて? さっきの魔法は、その、おかしな出方をしたように見えたけど......あれは、何?」
「うっ!? ......えっと、あの、ぼ、僕の魔法は......」
「尻から出ます」とフュフテは続けようとしたが、羞恥心が込み上げてきたせいか声のトーンが落ち、尻すぼみに。
「? なに? もう一回言って?」
聞き取れなかったシリンが、若干身を乗り出して再びの催促をする。
「ちゃんと言わなければ!」と、フュフテは目を泳がせながらも自分に言い聞かせるが、思うようにうまく言葉が出て来ずに口ごもってしまう。
フュフテにとってこの告白は、余程の勇気を振り絞らねばならないくらいに気が重いものなのだ。
なにせ自身の一番デリケートな問題であり、いくらシリンの信用を得るためとは言え、それを赤の他人の前にさらけ出すというのは死にたくなるくらいの羞恥。
そうしてフュフテが思い悩んでいると、脳内の何処かからずるい悪魔の部分が現れて、
「今ならばまだ懸命に誤魔化せば、隠し通せるギリギリのラインなのでは?」
とそう囁いてくる。
「逃げようと思えばいくらでも言い逃れができる状況だよ?」と。
それに反発するように、
「おい尻! しっかりするんだ! 決めたんだろう? 正直に言わなきゃダメだよ!」
フュフテの頭の中に突然、顔が尻の天使が現れ、大きく声を上げて耳に痛い正論を主張。
「え? なんで尻に尻呼ばわりされなきゃいけないの?」と困惑するフュフテの脳内では、悪魔と尻天使が殴り合い取っ組み合いの喧嘩を始めて、ついには尻が勝利。
悪魔の顔を二つの桃の間に挟んだままに、
「誰かに信じて貰いたかったら、まずは自分から相手を信じなきゃいけないよ。
大切な秘密を打ち明けるくらいに貴方を信用しているのだと、しっかりと誠意を見せるんだ!
そういう姿を見て初めて、人は人を信じようとしてくれる。言葉だけでは伝わらないんだ。行動で示さなきゃ! 分かったかい?」
迷い人に諭すようにきっぱりと言い切って、割れ目から「プッ!」と合図をした。
正直な話、あれだけ盛大に尻から茶色の物体をぶっ放しておいて何をどう言い訳すれば無かったことにできるのか? という所だが、色々と常識が倒錯してしまったフュフテの脳内は充分挽回できると踏んだのだろうか?
残念ながら、その認識は完全に間違っている。
サマンサのシチューでも洗い流せない衝撃的な出来事をなかった事になど、たとえ神とて実行は不可能だ。
それはさておき、頭の中の考えに決着をつけたフュフテは、意を決してシリンに対して回答するため、大きく深呼吸。
内心は「ええい! もうどうにでもなれ!」と、若干破れかぶれに尻魔法を告白する覚悟を決めて、声を大にして叫んだ、その直後ーー、
「ーー尻から、出ますっ!!」
「なにいいぃぃーーっ!? 尻だとおおぉぉーーーーッ!!!!」
バターーンッ!! と耳をつん裂く大音響を打ち鳴らして、突如一人の人物がこの部屋に乱入してきた。
まるで蹴り破るかの勢いで開け放たれたせいか、壁に強烈に打ち付けられた扉が悲鳴を上げて軋む。
ズンズンと乱入者がこちらに進んでくるその後ろで、哀れな扉は壁にお別れを告げてスローモーションに倒れていった。
フュフテとマイケルが入ってきたのとは別の入り口から現れた、桃色の髪の女性の乱暴な登場に、室内の全員がそれぞれの反応を返す。
団長であるバニードとその妻のサマンサは、「また扉を壊して......」と頭が痛そうに。
シリンは、自身よりも少し背の低いその女性を見て、「まだ話の途中......」と呆れの吐息をひとつ。
マイケルに関しては床に大の字になって、自らの鼻血の海に沈んでいた。
美少女の尻を目に焼き付けるという行為は、どうやら多感に過ぎる少年には刺激が大分強かったようで、「もう......結婚するしか......ないッ!」などとうわ言をほざきながら、赤い泡をコポコポとしている。
そして肝心のフュフテはというと、
「おいキミ! いま尻って言ったかッ!? 言ったよな!? 言ったはずだ! 聞いたぞわたしはッ!!
んんんっ!! やはりこの魔力残痕ッ! キミぃぃ......どおおおぅしてそんなに尻に魔力の痕跡が大量に残ってるのかなああぁぁっ??
アアッハァァン!? ふむふむその尻は......。
ッ!! くっほっ! 分かる......わたしには分かるぞ......隠された秘宝の絶大な輝きがああああっっ!!
よし、ここではなんだ、研究室にいくぞ! さあ来い! 今来い! すぐ来い! 尻に時間など無いッ!!」
狂人以外の何者でもない雄叫びを上げる妙齢の女性に、顔と顔が引っ付くくらいに接近されて、その常軌を逸した剣幕に当てられ、尻を両手で押さえプルプルと完全に震え上がっていた。
そんな哀れな獲物の様子に配慮などカケラも持ち合わせていない人物は、鼻の上に乗せた縁とつるの無い丸眼鏡の奥から鋭利なピンク色の瞳を輝かせて、
「モタモタするな! 行くぞっ!!」
ニンマリと口が裂けそうに凶悪な三日月の笑みを見せて、フュフテの襟元をむんずと掴む。
小柄な姿からは想像もつかない力強さに引っ張られ、固まったままにポテン、と床に転がったフュフテは、褐色の片手に引きずられてズルズルと。
両手両足を縮こまらせて、恐怖一色に染められてしまった美少女もどきは、さっきまでのけつ意の一切合切をはかなく霧散させて、遠ざかるシリンたちに半泣きで助けを訴える。
恐ろしさで全く声が出ないため、涙を浮かべた双眸とわななくお口で救いを表現するも、サマンサ夫妻とシリンは何故か不思議そうな顔付きで、桃色の髪の狂人の背中を見つめるばかり。
フュフテを少女だと思っている彼らからすれば、なぜ彼女のお尻が標的となって連れ去られていくのか疑問で仕方がないのだろう。
また男ならいざ知らず、女であればそう酷い目にあうことは無いだろう、と高を括っているのかもしれなかった。
そんな事を知らないフュフテは、助けてはくれない皆の姿とこれから何をされるか想像も付かない絶望に犯されて、最後の希望である血に沈んだ男へと視線を。
いよいよ部屋の出口まで引きずられ何処かに連れ去られる、その刹那にマイケルと目線がかち合ったフュフテは、「タスケテ」と口パクをした。
「っ!! フュフテちゃんーーッ!!」
部屋の外に消えていった未来の嫁の姿を床に這いつくばったままに見送ったマイケルは、失血で力が入らない両足を踏ん張り、ヨロヨロと懸命に立ち上がる。
そのまま囚われの伴侶を強敵から救い出すべく、「俺が、やらなきゃ......」と鼻に詰まった血を決意と共に飲み込んで、満身創痍ながらも勇ましく彼女たちの後を追って室外へと飛び出した。